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ルティのブログ

ルティはイスラエル生まれのフランス人。みずからのルーツを見つめながら日本で暮らしている

Mai 68 ーー 68年5月革命

2013-05-03 19:06:46 | 日記
Mai 68 ーー 68年5月革命
2013年5月3日(金曜日)

19歳になったばかりの頃、私が勤め始めて
からすでに1年以上は経っていた。
多くの友だちは大学に通っていたため、
私にとってこの68年5月革命は、
彼女/彼らと一緒にソルボンヌ大学や
オデオン座などを中を訪ねるチャンスだった。
大学の中庭ではあらゆるジャンルの
若者同士が熱心にぺちゃくちゃと政治や
社会問題を議論し、ある若者たちは新聞
や自分が属しているグループのパンフを
昔風の競り売りで売っていた。春の穏やかな
気候もあって、人々の活気がパリの空気を
賑わさせた。労働者は全ストに入り、学生と
労働者たち数十万人がパリの道を占拠し、
今まで内心でしか言えなかった要求や
不満などの言葉が横断幕に大きく書き
下ろされていた。多くのスローガンが
今日において実現されている。もちろん
当時、私はまだ全ての要求を理解していた
わけじゃないけれども、68年の5月革命が
あったからこそ、私は抱いていた多くの
疑問をより深く考えることになった。それが
今日の自分を育ててきたと確信している。
68年5月革命が自分を問い直す出発点であった
とも言える。当時私の二人の姉は社会問題を
考える余裕もなく、18歳半と17歳半、親の
権威から「自由」を得るためには結婚する
ほかなかった。一方、68年5月革命は私が
結婚や家族制度、大人や「男」の権威の
構造などを改めて考察する機会となった。
その後、フェミニズムが多くのことを
前進させたし、私は色んな男性と付き合う
ようになって、仕事に留まるより外国に
旅に出て、地理的に遠くに暮らしている
人と旅先で出会うことになり、かつては
思いもしなかった所で長い期間暮らす
までになった。
それもやはり68年5月革命のおかげに
違いない。と同時に、68年5月革命は
私の青春そのものだった。


https://www.youtube.com/watch?v=m-9vdTyuUj0


メーデーとアナキズム

2013-04-29 21:18:29 | 日記

メーデーとアナキズム 
(2013年4月29日ー月曜日)

もうすぐメーデー。その始まりをご存じだろうか。
日本では休日になっていないが、フランスは休日に
なっている。
ヘイマーケット事件*からメーデーへ 。
メーデーの始まりはアナキスト運動の
歴史にある。アメリカの組合とアナキスト
新聞紙「The Alarm」は一日を8時間労働にするために
1886年5月1日シカゴで要求項目を決めた。 34万人の
労働者はストライキに入り、アメリカ全国で 1万2千
の工場が麻痺を起こす。マークコミック工場
の近くでミーティングが行われ、5月4日シカゴ全体
がストライキに入り、大集会は ヘイマーケット
スクウェアで開かれた。その集まりが終わって
解散する中に突然約200人の警察が侵入したため、
一人のストライキ 参加者が爆弾を投げ、その結果
として7人の警察官を 含む12人の死者が生じた。
そのため8人のアナキストが逮捕されたが、
実際現場にいた人はたった二人だけだった。
この8人は 殺人罪で起訴される。彼らは、
有罪者ではなかったが アナキストであり、
首謀者であったために選ばれて逮捕された。
一人を除いて、7人が死刑を言い渡されたが、
広範囲に 及ぶ国際的な抵抗運動のため、
死刑囚は4名にまで 減らされた。他の3名は終身刑に
減刑され、一人は15年の刑。 1887年11月11日に、
3名は絞首刑が執行され、一人はその前の日に独房で
自殺した。これはヘイマーケット事件として知られる
ようになる。 3年後の1889年、パリで開かれた
社会主義国際会議が、 毎年5月1日を世界的な闘争の
日として決めた。その後多くの5月1日つまりメーデー
では、軍により多くの デモ隊が撃たれ、たくさんの
死者が出ている。メーデーが重ねられるごとに、
強制された労働から解放されるという当時の
プロレタリアートの夢を見続けながら、1日に8時間
労働の要求だけでなくさらに新たな要求がされてくる。
1926年は有給休暇の要求。

*『エマ・ゴールドマン自伝(上)(下)』
訳者:小田光雄・小田透 2005年、
ぱる出版


今週金曜日「チェルノブイリと福島の子どもたち」

2013-04-24 22:28:05 | 日記

チェルノブイリ27周年
救援キャンペーン
「チェルノブイリと
福島の子どもたち」
子どもたちの未来のために今できること
主催●チェルノブイリ子ども基金/チェルノブイリ子ども基金・文京/未来の福島こども基金
予約受付・問合せ先●チェルノブイリ子ども基金 Tel/Fax:03-5228-2680 E-mail:cherno1986@tokyo.email.ne.jp 
イベント開催のための賛同金を募集しています。 一口1,000円 郵便振替口座 00160-4-98316 チェルノブイリ子ども基金
講演会
4月26日(金)
18:30開場 19:00開演
文京シビック 小ホール
入場料:大人1500円/学生1000円(中学生以下 無料)
タチアナが甲状腺ガンの手術を受けたことを知った医師たちは、出産を思
いとどまらせようとした。出産は困難を伴ったが、無事ワレリアが誕生した。
タチアナ(29歳)とワレリア(4歳)。 キエフ 2005年3月 広河隆一撮影
「ほたるかんのぬまでやごをとったよ」
久米島の思いで 2012年7月 會田もえ(7)福島県
絵画展& 写真展
木村真三
広河隆一 フォトジャーナリスト、DAYS JAPAN 編集長  
弦楽四重奏団オブリジェ
・新行寺ひろ子(第1ヴァイオリン)・松崎みを(第2ヴァイオリン)
・大山菜穂子(ヴィオラ)・藤塚紗也香(チェロ) 
放射線衛生学の専門家、独協医科大学准教授、
国際協力支援センター国際疫学研究室 福島分室室長
チェルノブイリと福島の子どもたちが描いた絵
チェルノブイリ&福島
広河隆一写真展
「2013年チェルノブイリ救援カレン
ダー」に描かれた、チェルノブイリと
福島の子どもたちの絵を中心に、
約50点を展示します。
4/8(月)~10(水)
10:00~20:00
文京シビック 1F展示室2 入場無料



「子どもたちを一緒に守りましょう」
残念ながら、福島の事故は、世界中の人間が、
チェルノブイリ事故をまだ十分には学んでいないことを証明しました。
原発事故の被害を最も受けやすいのは子どもです。
そして子どもたちの健康の保持に責任を持っているのは、私たち大人です。
ヴャチェスラフ・マクシンスキ̶
(ベラルーシの保養施設「希望」所長 2012年12月 来日/「沖縄・球美の里」主催講演会より)
※チェルノブイリ子ども基金では1994年より「希望」を支援しています。
1967年生。放射線衛生学の専門家。放射線医学総合研究所、労働
安全衛生総合研究所を経て、現在、獨協医科大学准教授。福島県
内各地で放射線量を計測し、土壌や植物などのサンプルを採取。それ
をもとに、詳細な「放射能汚染地図」を作成。その模様はNHK ETV
特集「ネットワ―クで作る放射能汚染地図」で放映され大きな話題と
なった。2011年11月より二本松市に獨協大学福島分室を開設し、内部
被ばくの影響調査を始める現場主義の研究者である。
国立音楽大学卒業。大関博明、
金子もも子の各氏に師事。「松戸
市青少年とオーケストラの競演」
にソリストとして出演。室内楽、
オーケストラの奏者として活動。
武蔵野音楽大学卒業。鈴木愛
子、掛谷洋三、ゲオルギ・バデフ
各氏に師事。現在演奏活動、後
進の指導にあたる。
武蔵野音楽大学卒業。千葉市を拠点
に、あかちゃんから大人まで家族みんなで
楽しめる「ぷぅ・あ・ぷぅコンサート」、親子向
け音楽祭「おとのバザール」、音楽鑑賞
教室等の企画制作を手掛ける。東日本
大震災チャリティとして「絵本コンサート」
の他、講演会、各種イベント等を開催し
被災地の子どもたちの支援を続けている。
愛知県立芸術大学音楽学部卒
業。同大学院修了。現在フリー
奏者としてオーケストラ、室内楽な
どの演奏活動の他、音楽教室の
講師として活動している。
1943年生まれ。フォトジャーナリスト、『DAYS JAPAN』編集長。『子ども
基金』設立者で、現在は顧問。1967年から3年間イスラエルに滞在。帰
国後、中東・核の取材を続ける。レバノン戦争とパレスチナ人キャンプの
虐殺事件の記録で、IOJ世界報道写真コンテスト大賞・金賞受賞。
チェルノブイリとスリーマイル島原発事故の報告で、講談社出版文化
大賞受賞。『写真記録パレスチナ』(日本図書センタ―)で日本写真家
協会賞年度賞・土門拳賞受賞。著書に『チェルノブイリ報告』(岩波新
書)、『チェルノブイリから広島へ』(岩波ジュニア新書)ほか多数。近著
に『暴走する原発』(小学館)、『福島 原発と人びと』(岩波新書)。
木村真三
弦楽四重奏団 オブリジェ
広河隆一
新行寺ひろ子(第1ヴァイオリン) 松崎みを(第2ヴァイオリン) 大山菜穂子(ヴィオラ) 藤塚紗也香(チェロ)
チェルノブイリ子ども基金
フォトジャーナリストの広河隆一がチェルノブイリを取材中、現地の母親たちの呼
びかけを受け、募金活動を始めたのをきっかけに、1991年4月、「チェルノブイリ
子ども基金」が設立されました。これまでに医療機器、医薬品、ミルク、教材、放射
線検知器のほか、救援物資数十トンを被災地に贈っています。また、1996年7月
から毎年、チェルノブイリ事故被災児をベラルーシとウクライナのサナトリウムで
の保養に招待しています。 http://www.smn.co.jp/cherno/
郵便振替口座:00160-4-98316 口座名:チェルノブイリ子ども基金
※他の金融機関からゆうちょ銀行へお振込の場合
店番:019 店名:〇一九店(ゼロイチキュウ店)
預金種目:当座 0098316
未来の福島こども基金
チェルノブイリ子ども基金の姉妹団体として2011年6月に設立されました。20年来
行ってきたチェルノブイリ被災者支援の活動を、この福島原発事故に生かしてい
きたいと考えています。福島原発震災以降、食品の放射能測定器とホールボディ
カウンターを支援する運動をすすめてきました。現在は福島の子どもたちの保養支
援を中心に活動しています。 http://fukushimachildrensfund.org/
郵便振替口座:00190-0-496774 口座名:チェルノブイリから日本を考える会
※他の金融機関からゆうちょ銀行へお振込の場合
店番:019 店名:〇一九店(ゼロイチキュウ店)
預金種目:当座 0496774

4月2日「なんとかBAR」に来て下さい

2013-03-27 22:14:53 | 日記
みなさま

私が開く「なんとかBAR」は4月2日が最後です。
支えてくれた多くの友達に心から感謝します。

4月から、市谷にある法政大学でフランス語を教えます。

同じ4月から、和食レストランで料理の下準備などの仕事も
始まります。

語学学校でのフランス語や個人レッスンも
少しずつ増えてきています。
これからはどうにか生活ができそうかなと思っています。

数か月間の「なんとかBAR」の仕事はとても楽しかったです。
初経験なので、たくさんのことを学んだ気がします。

多くの若者と知り合いになり、彼らを通して、今起こっている
様々な社会問題を知り、共に話しをし活動をしてきました。
これからもこのような活動はもちろん続けていこうと思っています。

では4月2日、最後の「なんとかBAR」を楽しく過ごしましょう。
ぜひ大勢で来て下さい。

ルティ


伊藤ルイズ

2013-03-12 15:39:56 | 日記
上荻にて、3月12日(火ー11)

伊藤ルイズ

ねえ、大杉。あなたと野枝が虐殺された後、
二人の間に生まれた5人の子供のことは、
どうなったかと私はずっと気にしていた。
弟姉妹の間の年齢の差は僅か1、2年だけ
だったよね。
遺児になったまだ幼い彼らはどんな人生
を送っていたのか、気になってならなかった。
そして私はいろいろと調べているうちに
荻窪の図書館で1冊の本を見つけた。
それは「父に貰いし名はルイズ」(松下竜一著 講談社)。
今から31年前、1982年3月に出版されたものだった。

あなたの5人の子供が健在だったら、
私の両親の年齢になっているはず。
四姉妹は離されて暮らすことになった。
長女の魔子と二女の幸子はあなたの兄弟に、
三女のエマと四女のルイズは福岡県糸島郡
今宿村宿の伊藤の実家で祖父母によって
育てられた。
あなたと野枝の遺児たちが引き取られてからの
伊藤家は、警察の厳しい監視対象であった。
学校や社会で目立たないため改名までされた。
長女魔子は眞子に、三女のエマ(おそらくアメリカ
のアナーキスト、エマ・ゴルドマンにちなんだ名前)
は笑子に変えられ、四女のルイズ(フランスの
アナーキスト、ルイズ・ミシェルにちなんだ名前)は
祖父によって留意子に変えられ、敗戦後はルイと
呼ばれるようになった。
唯一の男の子のネストルは末っ子だったが
栄に改名された。しかし、彼が生まれて
間もなくあなたと野枝は虐殺された。その後
ネストルは、あなたたちを追うかのようにまだ
赤ん坊のうちに病死してしまった。
生活もそうだが、彼女たちの教育レベルも
貧しかった。政治や社会的運動にも関わる
ことがない。抵抗も生まれない。
学校へ行くときも、天皇のことや国家に関わる
行事などには
関心を持ってはならなかった。「大杉と野枝」
の子だから絶えず目立たないように学校に
通っていた。
惨めで哀れな遺児だった。平凡で静かな
生活を暮らしたかった彼女たちは、それが
できなかった。世間の冷たい目から逃れる
こともできなかった。年頃になっても魔子
とルイズが好きになった男性は相手の両親から
「大杉の子」だからと反対され、諦めざるを
得なかった。
ルイズは絶えず魔子の言葉を思い出していた。
「わたしたち、大杉の娘として生まれて、
損なことばかりだったわね」
私はこの文章を読んで、涙を流さずに
いられなかった。
彼女は長女として世間に
一番知られていたから、プレッシャーは
とりわけ重かったのでしょう。
最初の結婚で4人の子供をもうけたが、
母の伊藤のように、家を
飛び出した。その後アナーキストの父を持った男と一緒に
なって子供2人をもうけたが、貧しさの中、
まだ若い彼女は心臓発作起こして突然死んだ。
ルイズも、結婚した相手がギャンブル好きで、
借金に負われて、大変貧しい家庭だったにも
拘らず4人も子供を作った。しかしルイズは
壮年になって、今まで政治や社会に対する
問題に関わるのに怯えていたが、あなたの本
を読むようになって、人前で発言をし、社会に
目を向けるようになった。姉妹の中で彼女
だけが、56歳になった時に、両親のことに
関心もち始めた。
私はこの本を読み終えて初めて気付いたが、
30数年前、仲間のアナーキストグループ
がルイズを東京に呼んだことがあって、
実は私はこの集会に行っていたのだった。
恥ずかしながら
集会の話の中身は全然覚えていないが、
もしかして私はこの1冊を読んだ中身と、彼女
が当時関わり始めていた様々な社会問題に関する活動
のことなどを話したかもしれないと思った。
そうすると私はこのルイズに実際に会っている
ことになる。(会の名前は「大地慟哭」、と仲間
のYさんが教えてくれた)
本の全体を読んでも、そこに引き付けられるような
出来事はない。
でもそれは筆者の問題ではなく、
彼があなたの四女・ルイズの話を聞いて書き
下ろした文章だったから。あなたと野枝が
送ってきた波乱万丈の人生によって、親であるあなたたち
が人生の手本を示すはずだったのが、突然止まった。
4人の姉妹はあなたと野枝の人生と全く
正反対の人生を送ってきた。問題なのは、
彼女たちが育ってられた環境や社会、
つまり周りの人の目を気にして、怯えながら過ごした毎日。
何より、あなたと野枝の「不在」のために、
彼女たちは判断の指針をなくしていた、
と私は強く感じた。

魔子が生まれた時、母の野枝は19歳だった。
ネストルを生んだとき野枝は28歳。