上荻にて3月10日(日曜日)
エスペラント語が全世界の人間同志を繋ぐ
荻窪の駅から家に来る途中に掲示板がある。
その掲示板には色んな情報が貼られている。
あるとき一つの情報に目が止まった。
杉並区のセンターで月2回(土曜日)エスペラント語の
勉強会があるという知らせだった。しかも無料である。
なぜそれが私の関心を引いたかというと、
私は昔、アナーキズムに興味を持ち始めたころ、
それがエスペラント語と切り離せないと
考えていたからだ。習慣や言葉の違いがあっても、
エスペラント語という共通の言葉
によるコミュニケーションが通じ合えば、
人間同士が国境や国家を越えて仲良くし、
争いは生まれてこないと考えている。
アナキズムの考え方の基本は、
国境によって線引きされた国家がなくなれば、
自由に人間が付き合えるということだ。
そのとき人々は、自分の話している言葉や
習慣を「止めるのではなく」、
他の人の習慣や言葉を取り入れてゆくよう
になるだろう。しかしお互い理解しあう
ための前提条件として、どうしても
共通の言葉が必要となる。文化や言葉が異なるとき、
エスペラント語はそれらを繋ぐ橋になる。
人間同士の争いはなくなり、コミュニケーションは
絶えず容易に取れるようになる。
エスペラント語は、平和や自由が保証された
そういう将来に近づくためにどうしても
必要な言葉なのだ。だからこそ私は、エスペラント語
を広める重要性を強く感じている。
エスペラントとは「希望する人」を意味する。
とはいえ、この言葉を作ろうと考えた
ラザロ・ルドビコ・ザメンホフ
の生きていた歴史的背景を見ないと、
それが「エスペラント」と名付けられた
理由は説明できないだろう。
ザメンホフ自身はユダヤ人だが、
彼が住んでいたロシアの西のはずれの
町には、ロシア人(ロシア語)、ポーランド人(ポーランド語)、
入植者ドイツ人(ドイツ語)、ユダヤ人(イディッシュ語)
などの住民が混住していた。支配者であるロシアは、
彼らにロシア語を押し付けていた一方、ポーランド人、
ドイツ人、ユダヤ人は、言葉や習慣の違いで決して
尊敬していたわけでもない。
ザメンホフは語学教師の息子として、
1859年に生まれた。彼は、宗教や習慣、言葉などの
違いによって分断した町に生きながら、共に暮らせる
方法として共通の言葉が発明されれば、人間同士
の距離が縮まるのではないかと考えたのである。
残念ながら、彼は1917年に死去する。
1939年には第二次世界大戦が勃発し、
ナチスドイツは先ずポーランドに入ることになった。
戦後になって、戦争が引き起こした様々な問題、
そして莫大な数の死者たちが、国家・国境によって
もたらされるものだと世界は知るようになる。
それでも、虐殺はこの地球のあちこちにまた起こり続けた。
国境がなくなるどころか、人間同士が憎しみ合って、
国家が増え、問題も増しただけ。
いつかそういう国家を倒したい、国境を無くしたい。
そのために私はエスペラント語を広めたい。
確かに、特に私のようなヨーロッパ人にとって、
このエスペラント語という言葉は簡単だ。
30年前、友達に貸してもらった薄っぺらい
エスペラント語の本を一冊を読んだら、
文法などは全部分かってしまった。フランス語
のように男性名詞とか女性名詞とかはなく、
先ず書いてある通りを読むこと。後は練習だけ。
私は当時、どうしてエスペラント語を続けなかったのか、
よく覚えてないが、たぶん周りの友だちで
学んでいる人がいなかったからかもしれない。
だから私はエスペラント語の知らせを掲示板で
見るまでにはその言葉のことを完全に忘れて
しまっていた。今はそれに再び興味を持っている。
エスペラント語は非常に簡略な文法をもっていて、
覚えやすく使い易い人工言語だ。
とりわけヨーロッパの諸言語を知っている人
には学習しやすい。という のは、語彙の大多数
がラテン語起源であったり、多少の変化はあっても
ヨーロッパの諸言語に共通するからだ。
名詞はすべて-oで終わり、形容詞は-aで終わる。
動詞の活用語尾は現在形(-as)、過去形(-is)、
未来形(-os)、仮定形(-us)、命令形(-u)、
不定形(-i)などの形をとる。
一般に動詞の活用形式に例外はない。
こんな風にたったの数行で文法の説明ができる
言葉は他にないでしょう。ぜひ、あなたも
エスペラント語を地域で広めてみませんか。
エスペラント語が全世界の人間同志を繋ぐ
荻窪の駅から家に来る途中に掲示板がある。
その掲示板には色んな情報が貼られている。
あるとき一つの情報に目が止まった。
杉並区のセンターで月2回(土曜日)エスペラント語の
勉強会があるという知らせだった。しかも無料である。
なぜそれが私の関心を引いたかというと、
私は昔、アナーキズムに興味を持ち始めたころ、
それがエスペラント語と切り離せないと
考えていたからだ。習慣や言葉の違いがあっても、
エスペラント語という共通の言葉
によるコミュニケーションが通じ合えば、
人間同士が国境や国家を越えて仲良くし、
争いは生まれてこないと考えている。
アナキズムの考え方の基本は、
国境によって線引きされた国家がなくなれば、
自由に人間が付き合えるということだ。
そのとき人々は、自分の話している言葉や
習慣を「止めるのではなく」、
他の人の習慣や言葉を取り入れてゆくよう
になるだろう。しかしお互い理解しあう
ための前提条件として、どうしても
共通の言葉が必要となる。文化や言葉が異なるとき、
エスペラント語はそれらを繋ぐ橋になる。
人間同士の争いはなくなり、コミュニケーションは
絶えず容易に取れるようになる。
エスペラント語は、平和や自由が保証された
そういう将来に近づくためにどうしても
必要な言葉なのだ。だからこそ私は、エスペラント語
を広める重要性を強く感じている。
エスペラントとは「希望する人」を意味する。
とはいえ、この言葉を作ろうと考えた
ラザロ・ルドビコ・ザメンホフ
の生きていた歴史的背景を見ないと、
それが「エスペラント」と名付けられた
理由は説明できないだろう。
ザメンホフ自身はユダヤ人だが、
彼が住んでいたロシアの西のはずれの
町には、ロシア人(ロシア語)、ポーランド人(ポーランド語)、
入植者ドイツ人(ドイツ語)、ユダヤ人(イディッシュ語)
などの住民が混住していた。支配者であるロシアは、
彼らにロシア語を押し付けていた一方、ポーランド人、
ドイツ人、ユダヤ人は、言葉や習慣の違いで決して
尊敬していたわけでもない。
ザメンホフは語学教師の息子として、
1859年に生まれた。彼は、宗教や習慣、言葉などの
違いによって分断した町に生きながら、共に暮らせる
方法として共通の言葉が発明されれば、人間同士
の距離が縮まるのではないかと考えたのである。
残念ながら、彼は1917年に死去する。
1939年には第二次世界大戦が勃発し、
ナチスドイツは先ずポーランドに入ることになった。
戦後になって、戦争が引き起こした様々な問題、
そして莫大な数の死者たちが、国家・国境によって
もたらされるものだと世界は知るようになる。
それでも、虐殺はこの地球のあちこちにまた起こり続けた。
国境がなくなるどころか、人間同士が憎しみ合って、
国家が増え、問題も増しただけ。
いつかそういう国家を倒したい、国境を無くしたい。
そのために私はエスペラント語を広めたい。
確かに、特に私のようなヨーロッパ人にとって、
このエスペラント語という言葉は簡単だ。
30年前、友達に貸してもらった薄っぺらい
エスペラント語の本を一冊を読んだら、
文法などは全部分かってしまった。フランス語
のように男性名詞とか女性名詞とかはなく、
先ず書いてある通りを読むこと。後は練習だけ。
私は当時、どうしてエスペラント語を続けなかったのか、
よく覚えてないが、たぶん周りの友だちで
学んでいる人がいなかったからかもしれない。
だから私はエスペラント語の知らせを掲示板で
見るまでにはその言葉のことを完全に忘れて
しまっていた。今はそれに再び興味を持っている。
エスペラント語は非常に簡略な文法をもっていて、
覚えやすく使い易い人工言語だ。
とりわけヨーロッパの諸言語を知っている人
には学習しやすい。という のは、語彙の大多数
がラテン語起源であったり、多少の変化はあっても
ヨーロッパの諸言語に共通するからだ。
名詞はすべて-oで終わり、形容詞は-aで終わる。
動詞の活用語尾は現在形(-as)、過去形(-is)、
未来形(-os)、仮定形(-us)、命令形(-u)、
不定形(-i)などの形をとる。
一般に動詞の活用形式に例外はない。
こんな風にたったの数行で文法の説明ができる
言葉は他にないでしょう。ぜひ、あなたも
エスペラント語を地域で広めてみませんか。