高崎干拓堤防

児島湾干拓事業の歴史を訪ねて歩いてみました。

漠然とこの辺りかな~??と思ってキョロキョロ見渡しながら
歩いているとありました
干拓記念碑が建てられていました。平成20年に建てられたもののようです
1692年―1824年、池田光政、池田藩政時代
岡山市沖新田・興除新田の干拓が盛んに行われ、江戸時代の寛永から慶応までの
約240年間に約6,800haの土地が造成されました。
わぁ~これだ~
先日 新聞に掲載されていた高崎干拓堤防を見付けました
住宅地から広大な田園地帯に風景が変わる境界がありました。

これですね
日本初の民間による干拓事業で、西洋技術を取り入れながら瀬戸内海の島々から運んだ
花崗岩を積み上げられていました。備前石工の技術の下に建造されています。
表面には、海水面下だったころに張り付いたカキ殻がみえました。
1899年(明治32年)から藤田組(大阪の豪商、藤田伝三郎が大阪に創設。
現、同和鉱業株式会社)が、児島湾内の大規模な干拓(藤田開墾)を行い
約5,500haが順次着工されました。
1946(昭和21)年から国営事業(食糧増産対策)として農林水産省に引き継がれ
1963(昭和38)年に完成しました。
義父が「子供のころは魚を捕ったりして遊んだ」
「潮の干満差が大きく引き潮だと堤防から遠くまで干潟になっていた」
「そして潮が引くと当時鰻を捕った」と色んなことを教えてくれました。
新田は干拓地の呼称、島、崎、浜などがつく地名は往時の海辺の名残だそうです。
広大な田園地帯が広がっています

現存する堤防は修復しながら使われているようですが…。
今は、季節的に田園地帯には何も耕作されていませんが
広大な田畑に、稲が植えられるとそれは

緑でいっぱいになるんでしょうね

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◆追記◆

義父に田園地帯に時期的に何もないから…残念だったと言うと

緑色

の部分は、きっと麦だよって…

あらまっ…知らないって怖いですね~


麦さん

今日はとっても

寒かったけれど…頑張って大きくなぁ~れ