どーも、ひろっさんです(´∀`)
最近 クラン内で僕の扱いが非常に劣悪になってます。
最初の頃は、みぃ~んな優しかった;;
先日はPGWMAX氏に「生きても無駄」って言われました
てぃんこカチカチになりました(*ノノ) ←クソ死ね
と まぁ、ヴォクチンのイメージがバカ・アホ・マヌケ・頭悪い・クサイ・ちんk
って、なってきてるので少しマジメな話(カキコ)でもしてみようと思った次第であります
今日のテーマは 「議論」とは? です
「議論」について自分が思ってることを書きつらねてみよう
クフフ
現代の日本では「議論」は不毛感が強いよね。「もっと話し合いをしようっぽ」などと言われてるわりには、ちっともうまくならない。それどころか、議論は面倒だし感情的対立が生ずるから、「自然」に決まるのが一番良いと、なるべく避ける。
もちろんソレ(議論)にお手本もない。国会討論はテレビで中継されているが、退屈だから誰も見ない。結論は議員の数ではじめから決まっている。決着のついいることを、うだうだと時間をかけて引き伸ばして話をしているだけだ。ただ、ボンッチュッボンッ!の、ねーちゃんがビキニ姿で討論しまくってたら俺でも見るね。
コホンッ
学校では知識を詰め込むばかりだし、会社ではノルマをこなすことばかり求められる。反論すると排除されるのがせいぜいだしね。
こんな例ばかりでは、何が良い議論なのかサッパリだぉ^^ だから、強引な人・声の大きい人などの意見に付和雷同しちゃう傾向があるっぽいっぽ。あるいはエラソーな人にはとりあえず従っておく。もちろん人間だって動物やし、そんな面があるのは仕方ないけど、その結果・良識や理性が通らなくなる。
こんな結果になってしまったのは、「議論とは何か?」「どう議論するのが正しいのか?」という理念を立てられないでいるせいである。だから現実の力関係に引きずられて、ズルズルとlvが低下するんだ。
んがしかし!
本当は議論というのはエッキサイティン!おっパンッパン!!なゲームなんだ!!ルールがキチンとあって、それに従って対決すると、結果として優劣が見えてくる。話している相手、またはその話を聞いている人が「説得」されるからである。「うーん、ぽぽぽぽ」って腑に落ちる。それで次の行動がスッキリと決められる。
我が愛しき大日本帝国で議論が低調なのは、これらの条件がまったく満たされていないからである。まずルールが見えない。相手を非難するためだったら人格攻撃やスキャンダルに訴える。さらには優劣が見えないように工作する。あるいは見えても、それを強引に無視する。プロレスでいう場外乱闘である。
こんな状態から脱するには、とりあえずルールの理解から始めるしかない!議論は乱闘ではない。むしろ折目正しい格闘技とも言えるかもw 目的は自分の意見を言う事。意見とは何か?「あなたの意見は?」と問われる状況とは、何か問題があるときだ。問題が目の前にぶら下がって決定しなければならないときに、「あなたの意見は?」と問われる。
そのとき「私はこう思う。」と言えれば、それが意見だ。もちろん、他の人の言うことと違ってもOK。「正解」はないからだ。ゴミの集積所は大きな紛争になるし、家族旅行も「本当は行きたくないのに・・・tt」とブツブツ言うメンバーはいるもんだ。どうやっても誰かに不満は残る。すべての人を満足させる答えはそもそも無いに等しい。正解の無いところで、自分はどちらが良いか、立場を鮮明にする、これが第一の基本である。
正解が無いからといってどんな答えでもいいわけではない。より多くの人に利益や満足をもたらす意見、あるいはほとんどの人が納得せざるを得ない意見が「正しい」。たとえば。ちんkを公の場でブルンブルンして女性に強制的に見せた人を処刑にする、という意見は妥当ではない。 ←(インクレ男子メンバーを除くw
レイプでさえ普通は処刑にならないのに、いかに社会の害(不愉快)になるとは言っても、ちんkブルンブルンで処刑になるのではバランスが悪い。したがって、こういう意見は「妥当ではない」。「妥当」とは、色々事情を考えて「そんなに悪くない(おかしくない)」と思えることである。もちろん、「悪くない」の程度はいろいろだが「より妥当な」つまりより多くの人が納得できる意見が良いのである。
そのためには根拠を出す。根拠とは、なぜ自分はそう判断したのかを表す理由、それをわかりやすく噛み砕いて言い換える説明、具体的なイメージを与える例示・比喩・対比などからなる。理由と感覚の両方から、「なるほどっぽ」と思わせるように誘導するのである。
逆にこういう要素がない議論は「ろくでもない議論」だ。俗に言う「つぃんつぃんがカチンコチンにならない議論」とも言う。 ←(120%ウソです
理由もなく極端な主張をする議論、難しすぎて何回読んでもわからない説明、事例やデータがない抽象的・観念的議論はダメダメちゃんである。
「議論」そのものは悪いのではない。「悪い議論」というものが存在しているだけなのである。「悪い議論」は全体を混乱させ、結果を鈍らせてしまうのだ!
最近の若者は意見の中身ばかり気にする。→か←か、競争か福祉か、経験値かアデナか、論点や対立はいろいろだが、どうしてその「意見」が妥当なのか、理由や説明を出せない。これでは「意見」は自分の信じていることに過ぎず、他人とは共有できない。
結果として、「考え方や感じ方は人それぞれ」という考えがはびこった。人はみんなそれぞれ違って、違っているから面白いんだ、というわけである。優劣をつけられないのだから、誰が何を言っても勝手やし、無視してもかまわない。「みんな違ってみんないい(・∀・)b」、そんな事を言っている間に、問題だけはズンドコ進行する。その時に誰の意見をもとにして決定がなされるべきか、「みんな違ってみんないい(´・ω・`)」は何も答えない。
みんなが違うのは当たり前だ。だが、それは人間の尊厳について平等なだけであって、考えやアイディアは平等ではない。優劣は、現在ある問題をきちんと解決できるかどうかで決まる。そのためには問題を理解して、明快な解決案を出し、それがうまくということをあらゆる理屈とデータを使って証明しなければならない。たんなるムードや感じで決定すると、後で手ひどいしっぺ返しを食らう。政治でも経済でも生活でも、この原理は変わらない。
ところが、皆当たり障りのない意見ばかり言おうとする。「みんなでよく議論しよう」だとか「もっと国民的に議論を盛り上げる必要がある」と。バカを言ってはいけない。こういう掛け声をかけるまでもなく、問題はすでに「盛り上がっている」。掛け声ではなく、実質的に議論を進めるアイディアを述べるべきなのだ!
ある意味では、議論とは、むしろ当たり障りのある意見を出す事だ。そうでなければ、場は活性化しない。あえて異論を出す事で、元の意見も深化させられる。さまざまな場合を検討し、その適用を吟味する事ができるからだぉ。
異常
あ
以上です。
所かわってリネですが
また興奮を覚える自分が嫌になった今日でした。