鈴音ママのドタバタ育児奮闘記☆(本家)

波乱万丈の人生送ってますw
人の2倍は人生楽しんでるかも!?w

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2008年05月15日 | 闘病記録
母の入院前から父にパスポートの申請を頼まれていたので、朝から申請に行ってきた。
だが、父の本人確認ができる物がなくては申請できないらしく、明日以降にもう一度申請に行かなくてはならなくなった。
担当医と約束をしていた12時まで中途半端に時間があったので、病院に行く前に実家に寄って父の本人確認ができそうなものを探そうかと思ったのだが、実家へ向かう道中に軽い渋滞にはまったため、実家には病院の帰りに行く事にした。
病院へは予定より早く着いたし、「先生は処置中なので、20分ほど遅れそうです」と看護師が連絡をしに来てくれたので、先生が来るまで母の所で待つ事にした。
母は午前中に胃カメラ検査を受けていたらしく、かなりダメージを受けていてグッタリしていた。
声も麻酔で枯れていた。
昨日、父が母に贈った花束の写真を取って欲しいと母に頼まれていたので、持参してきたデジカメで花束の写真を4~5枚撮影。
母の一生の宝物になるだろう。
母と雑談しながら暇つぶしに買ったイラストロジックをして先生を待っていると、看護助手が来て色々話しかけてきた。
話が弾まなかったので少々気まずくて、正直早く去って欲しかったのだが、花束を見て「花束は氷水に入れるといいんですよ。氷を分けますから花瓶を持ってきてください」と言われたので、言われるがまま花瓶を持って部屋を出た。
ナースステーション前で「ここに花瓶を置いてください」と差し出されたワゴンに花瓶を置いて、花瓶から花束を抜き取った時、「これから先生の説明がありますから・・」と看護師長が私の腕を引いた。
この瞬間、氷水がどうのこうのという話は、母に怪しまれないように私を連れ出すための口実だった事、そうしてまで私を連れ出したからにはこれから受ける説明はいい話ではない事を悟った。
「面談室の鍵を取ってきますから・・」と言って看護師長は一旦ナースステーションに戻って行ったが、看護師長が鍵を持って戻ってきてくれるのを待っていた僅かな間、心臓が破裂しそうなくらいドキドキしていて、足がガクガク震えていた。
面談室に通されてしばらくすると、主治医と初めて会う先生が入ってきた。


何をどういう順序で、どういう風に説明されたのか、全く覚えていない。


胃に悪性腫瘍があり、ステージ4という一番悪い状態の胃ガンである事。
胃にも腹水が少し溜まっていた事。
胸水が溜まったのは腫瘍が胸膜に転移し、炎症を起こした結果である事。
腹水も胸水と原因は同じである事。
胸水自体も3Bという「ガンの可能性がある」という結果であったが、まずガンだと診て間違いない事。
胸水が溜まっているのは、正確に言うと肺ではなく胸膜である事。
血液検査の結果、血小板の数値が下がっているので骨髄にも転移している可能性がある事。
恐らく全身に転移しているであろうから、手術をしても意味がない事。
16日に、違う病院でPET検査を受ける事。
残された治療は、抗がん剤の使用しかない事。
抗がん剤を使っても完治は有り得ず、延命処置にしかならない事。
抗がん剤自体がきついので、全身状態の悪い母は逆に状態が悪化する恐れがある事。
今の容態は落ち着いているが、いつ急変してもおかしくない事。
黙っていてもいずれ本人にバレるだろうから、来週頭に本人に告知した方がいいという事。


何もしなければ、余命1~2ケ月である事・・・・


話を聞いている間、手がずっと震えていた。
頭が真っ白になっていて、先生の説明がほとんど頭に入らなかった。
一通りの説明を受けたあと、「父と弟を呼ぶので、明日改めて説明をしてもらっていいですか・・?」とお願いするのが精一杯だった。
先生方が退席した後、看護師長が「お茶を入れてきてあげるね」と言って席を立った。
看護師長が席をはずしている間、私は床に崩れ落ちながら、何度も叫んで号泣した。
戻ってきた看護師長が慌てて私を椅子に座らせて、しばらく肩を抱いていてくれた。
全然落ち着く事などできなかったが、「お父さんと弟に連絡しないと・・」と考える事だけはできた。
携帯はカバンと一緒に母のベット脇に置いてきていたが、母と顔を合わせられる状態ではなかったので、看護師長に「かばんを取ってきてもらえますか・・?」とお願いした。
看護師長は「娘さんはお友達に偶然会ったらしくて、お茶をしに行きたいから・・と、カバンを取ってくるように頼まれました」と母に苦しい嘘をついて、カバンを持ってきてくれた。
事情を知らない母は「何でそんな事を看護師さんに頼むかなぁ!?」と怒っていたらしい。
まず、父に電話をかけた。
まだ私の頭は真っ白で、何をどう言ったらいいのかなんて全然考えられなくて・・
ただ「一人はイヤ!!すぐに来て!!」と泣きながら何度も叫んだ。
そんな私に父は「ガンか・・?」と聞いてきた。
今思えば・・この時の父は、できるだけ冷静に聞くように努力していたのだと思う。
胃ガンである事、手の施しようのない状態である事、何もしなければ余命1~2ケ月である事くらいは伝えられたと思う。
私の説明を聞いて、父は「すぐ行く!!」と言ってくれた。
次に、弟に電話をかけた。
弟にも「一人はイヤ!!すぐに来て!!」と、泣きながら何度も叫んだ。
見るに見かねたのか、看護師長が代わってくれて、弟に簡単に説明をしてくれた。
弟も電話の向こうで泣いていたらしい。
その後もしばらく面談室で号泣していたが、しばらくすると徐々に落ち着いてこれた。
早く母の所に戻りたかったので、目を冷やすために氷水とタオルを借り、腫れまくった目を冷やした。
忙しいはずの看護師長に悪いので「もう大丈夫ですから、お仕事に戻ってください」と言って、看護師長が部屋を出てからは一人でいた。
落ち着くと少しずつ色んな事が考えられるようになった。
パニックになって父と弟を呼んでしまったものの、母に怪しまれるので二人は母に会わせられないので、父と弟には病院に着いた時点で連絡を入れてもらう事にした。
私の帰りが遅いと母も心配するだろうから、母に電話をして「先生との話が終わった後に友達に偶然会ってさー!!立ち話も周りに迷惑やから、外でお茶してくるわー!!」と、看護師長がついてくれた嘘につじつまを合わせて嘘をついた。
母は看護師長にカバンを取りに行かせた事を怒っていたが、「ごめんってー!!」と、とりあえず軽いノリで謝っておいた。
タオルを目に当てたままタバコを吸いに行ったり、目の腫れ具合を確認するためにトイレと面談室の往復をしたりした。
花瓶を持って病室を出てから、1時間は軽く経過していたと思う・・
目の腫れが引いたのを確認してから母の所へ戻ったが、平静を装うのがかなり辛かった。
母はまず、「先生の話、どうやった?」と聞いてきた。
そう聞かれる事は十分予測できたはずだが、その時の私にはそこまで考える余裕はなく、「昨日お母さんが呼吸器科の診察で聞いた事と同じだったよ」と答えるのが精一杯だった。
「帰りが遅いから、最悪の告知されてるのかと思って心配したわ」と言う母に「そんな事あるわけないやん(笑)先生の説明は5分ほどで終わったよ」と笑って言ったが、かなりテンパっていたのでうまく笑えず、怪しまれてはいないかとヒヤヒヤした。
しばらくすると父から「病院に到着した」と電話が入ったので、母には「タバコを吸ってくる」と言って部屋を出た。
父と合流後、すぐに弟も到着。
私が二人にパニくって電話をしてから、2時間も経っていなかったと思う。
二人とも、必死で駆けつけてくれたんだろう。
誰もいない外来のロビーで、3人で泣きながら話をした。
でもみんな正常な状態ではないので、まとまった話にはならなかった。
今日も母が看護師に花束を自慢していた事を父に教えると、父は外に出て私たちに見られないように泣いていた。
話合いの結果、父と弟は母には会えないので、一旦家に帰る事になった。
私はそのまま母の所に戻るつもりでいたが、二人と話をしている時に泣いて目が腫れてしまったので、「タバコを吸いに外に出たついでに、家に帰ってパスポートの申請に必要なお父さんの本人確認のできるものを探してくるわ」と母に電話をした。
私も二人と一緒に実家に戻ったが、早く母の所に戻りたかったので、書類を探し出してすぐに戻った。
その後母と二人でいた訳だが・・本当に辛かった。
涙が出そうになるのを何度もこらえて、必死でいつも通り振舞った。

どんな話題からそうなったのかはあまり覚えていないけど・・
「ガンになっても抗癌剤で苦しむのはイヤ」だとか、「生命維持装置をつけないといけない状況になっても拒否して」だとか、そんな話をされた時は、泣かずにいつもどおり振舞った自分を、本当に褒めてあげたい。
面会時間終了の19時まで母の病室にいて、それから私は実家に戻った。
父に泣いた跡はなかったが、普段通り接してくれるのが痛々しかった。
弟は目を真っ赤に腫らせていた。
私もやっと大声を出して泣く事ができた。
ひとしきり泣いて少し落ち着いた時、父に「今日の事は一生忘れられんやろうなぁ・・」と言うと、「よぉ頑張った。スマンかったな」と抱きしめてくれたので、父にすがってまた号泣した。
ペットたちがいるので私は自宅に帰ろうと思っていたが、父も弟も「今夜は3人でいよう」と言ってくれたので、ペットたちのエサやりと着替えを持ってくるために一旦帰宅した。
私は運転できる状況じゃなかったので、自宅までは弟が運転してくれて、荷物を運ぶのも手伝ってくれた。
やっと帰ってきた私にじゃれつくきゅーたに悪いと思いながら、荷物を用意したらまたすぐに実家に戻った。
「ちゃんと食べなアカン」と言って父が夕食を作ってくれていたので、3人で食べた。
父と弟はお酒を飲んでいた。
父が私たちの子供の頃の話や、父自身の子供の頃の話、母との馴れ初め、新入社員だった頃の話、得意先と喧嘩をした時の話など、面白おかしく話してくれたので楽しかった。
でも、ふと病院に一人でいる母の事を思い出しては3人で泣いた。
父は、私達に弱味なんか絶対見せない人だ。
そんな父が「こっちに帰ってくる最中、何回も車の中で叫んだわ・・」と言い、泣いていた。
弟が泣くのも、今日初めて見た。
父は「お母さんを家に連れて帰ろう。お母さんが苦しむようやったら、俺が首を絞めて殺す」と言っていた。
弟は「お母さんの好きなTDLに、みんなで旅行に行こう」と言っていた。
お酒を飲んでいない私一人が、「家に連れて帰るのは賛成やけど、先生に相談してからな!!」とか、「長距離の移動はお母さんに負担になるから、道中1泊しよう」とか、冷静に答えていた。
夜はリビングに布団を引いて、3人で並んで寝た。
自宅に一人でいたら絶対寝られなかっただろうが、私が一番先に寝たらしい。
夢も見ず、朝までぐっすり寝れた。
2人と一緒にいれて良かったと思う。

母のために。家族のために。自分のために。

2008年05月14日 | 闘病記録
これからしばらくは、母と私たち家族の闘病記録になると思います。

辛い事ばかりになるかもしれないけど、母と私たち家族が頑張った事を一生忘れたくないので・・
母のために、家族のために、自分のために書いていきます。

非公開にしようかと思ったのですが、設定の仕方が分からないので公開します(笑)
苦手な人はスルーしてください。

あくまでも個人的な記録として書いていくので、文章はまとめません(笑)





2008年3月

風邪を引き、そこから喘息の咳が出る。
病院へ行くように言ったが、忙しさなどを理由に行かない。



2008年4月

咳が止まらない状態になったが、病院には行かず市販の薬を使用する。
効果はほぼなし。
一人で近所の病院で診察を受け薬を処方してもらうが、胃が弱いことは説明せず。
処方された薬を飲み始めると同時に、咳はマシになったようだが胃痛が始まる。
嘔吐するなど具合はかなり悪かったらしいが、仕事は続けていた様子。
4月29日に会った時は、食欲が落ちてしんどそうな様子だった。


2008年5月6日(火)

法事で会う。
喘息の薬の服用はやめたとの事。
かなり咳が酷い状態で、痰が絡むらしい。
咳のせいで会話をするのが辛そう。
薬の服用をやめても胃の不調は続いていて、ほとんど何も食べていない状態が続いているという。
一緒に居る間に食べたのは、イチゴ1粒・プリン半分・雑炊をお茶碗に1杯程度。
親戚一同から病院へ行くように説得されていた。
父にこれから毎日母の様子を聞くよう頼まれる。


2008年5月7日(水)

母の姉からメールがあり、大きな病院へ母を連れて行くように頼まれたので、母の休みの日に連れて行く事を約束する。
母はこの日も無理して出勤したらしい。
メールで体調を聞くと「吐き気は少しマシ。痛みはまだあるけど少しずつ食べている」と返事が来た。


2008年5月8日(木)

夜に「もう限界。仕事は1週間休みを貰いました。翌日病院へ行きます」とメールがあったので、近所の診療所ではなく「送り迎えをするから大きな病院へ行こう」と提案してみた。
断ってくると思っていたが、素直に受け入れてくれた。


2008年5月9日(金)

朝8時に母を迎えに行く予定でいたが、寝坊をしてしまい1時間ほど遅れる。
そのせいか、診察室に呼ばれるまで2時間以上待たされた。
車の中で待つように勧めたが、移動が辛いようで待合のロビーでずっと待っていた。
内科を受診したのだが、先生は私より若い人で「何故かかりつけの病院へ行かないんですか?」と聞かれたらしい。
念の為に・・と胃カメラ検査を勧められたらしいが「今の状態で胃カメラを飲むと死ぬ」と言い拒否。
胃薬だけ処方されて、弟が帰ってくるため夕飯の買い物をしてから家に戻る。
家ではずっと寝たきり。
帰宅後は、処方された胃薬を飲むためにプリンを半分弱食べる。
イチゴも1粒食べたはず。
夜は具も塩さえも入れないお粥をスプーンに2~3杯程度、休憩しながら時間をかけて少しずつ食べた。
胃カメラ検査は「処方された胃薬を飲んで様子を見てから・・」と言っていた。


2008年5月10日(土)

夕方、母の世話と弟の食事の世話をしに実家へ行く。
やはり母は寝たきり。
薬を飲むために、朝はパンを少し食べたらしい。
実家へ向かう途中に買ったイチゴは、1粒だけ食べた。
夜は、ニンジン・しいたけ・キャベツのみじん切りを入れ、少しの醤油で味付けしたお粥を食べさせた。
食べた量は前日と変わらないくらい。


2008年5月11日(日)

お昼過ぎ、また母と弟の食事の世話をしに実家へ行く。
この日も、薬を飲むために朝に少しだけパンを食べたらしい。
この日はブドウを買って行ったのだが、2粒食べてくれた。
あとはリンゴの摩り下ろし1/8コ。
できればお粥も食べて欲しかったが、この日は無理なようだった。
胃の具合は、薬を飲んでも良くならない様子。
この調子だと休みをもらった1週間内での回復は無理だと思ったので、「多分1週間では治らんよ。仕事場にも迷惑をかけるから・・」と、胃カメラ検査を勧めた。
絶対拒否すると思ったが、受け入れてもらえた。


2008年5月12日(月)

朝一で病院へ行き、今回は消化器科を受診。
採血をされ、また胃薬を処方された。
処方された胃薬は内科で処方された薬と同じものだが、小さいものになっていた。
胃カメラは、翌日午前中に予約。
病院から帰宅後、実家でゆっくりしていたら、15時前に朝診察をしてくれた消化器科の先生から電話があった。
「血液検査の結果、胆嚢の数値に異常があったため、すぐに病院へ戻りエコー検査を受けて欲しい」という内容だったらしい。
すぐ病院へ戻って、診察室で先生から説明を聞く。
胆嚢の数値は通常115~340でないといけないのに、母の場合は9347もあった。
胆管のつまりなどが考えられるらしい。
エコーとCTの検査を受けた。
CTでは造影剤を点滴されていた。
2つの検査が終わった後、また説明を受ける。
「写真がまだあがっていないのでお見せできませんが、左の肺に水がパンパンに溜まっています。心臓に影響が出ているかもしれないので、心臓のエコーもします。もしかすると入院してもらう事になるかもしれません」との事。
心臓エコーと採血が追加された。
母が心臓エコーを受けている時、私の横を通りかかった先生が「やはり入院になると思います」と声をかけてくれた。
エコー検査室→CT検査室→診察室→エコー検査室→採血室→診察室と、ずっと母は車椅子を拒否して自力で歩いていたが、本当に辛そうだった。
心臓エコーと採血後、三度目の説明を受ける。
CTの写真ができていたので見せてもらうと、正常な右肺は真っ黒なのに、胸水が溜まっている左肺は隙間なく真っ白になっていた。
幸い心臓に影響はなかったが、やはり入院が決定。
すぐにでも脇腹から針をさして、胸水を抜く処置を行うとの事。
胸水は検査をし、①胸水が溜まった原因②この胸水は何なのか③胸水と胆嚢の数値の関係などを調べていくとの事。
針を刺す場所は血管や神経が集中している場所なので、それらを損傷してしまう可能性がごく稀ではあるがあるというので、母と私の二人で処置の同意書にサインをした。
すぐに入院手続きをし、部屋へ移動。
部屋に入るなり肺に針を刺す処置が始まったので、私は一歩も部屋に入る事なく看護師に呼ばれ、今までの経緯や連絡先・家族構成などを聞かれるまま話した。
看護師との話が済んだ後、実家に戻った。
実家に帰っている最中に志優が寝てしまったので、志優を居間に寝かせ、父・弟・母の姉・父方の祖父母に電話で母の入院を説明。
そのまま近所の100円ショップで必要なものを買い揃えに行ったが、実家に戻ると志優が目を覚ましていて大号泣していた。
志優の機嫌をとるのと夕飯を食べさせるのでかなり手間取ってしまい、荷造りを終えて病院へ戻ると21時を回っていた。
母は処置服に着替えさせられてベットに横になっており、脇腹には胸水を抜くチューブ、腕には点滴が刺さっていた。
脇腹に針が刺した処置と、針が刺さっている部分が痛いと言っていた。
この日はもう遅かったので、ロッカーに荷物を片付けてすぐ病院を出た。
病院を出たのは21時20分くらい。
私が入院荷物を持って実家を出た直後、私の連絡を受けて弟が神戸から帰ってきてくれていたらしい。


2008年5月13日(火)

朝から自宅の家事をしていると、母から何度も電話やメールが入る。
「○○を持ってきて欲しい」という内容が多かった。
母が要求したのは、全て前日に持って行って片付けた場所も説明したものばかり。
「しんどすぎて、説明された事なんか頭に入っていわ」と母は言っていたが、健康な時でも母は普通に物覚えが悪い(笑)
あと、朝から2回ほど部屋を引越し、最終的に大部屋へ移ったとも言っていた。
面会時間開始の14時に病室に着いていたかったのだが、自宅の家事に追われて遅くなった。
実家へ寄って、休みを取って帰ってきてくれた弟を拾う約束をしていたので、まずは実家へ向かう。
道中に「今から1件仕事を片付けたら、すぐに病院に向かうわ」と父から電話があった。
この日は父と母の結婚記念日だったので、父にその事を教え「花束持参でくるように!!」と言いつけた。
「カッコ悪い」と初めは拒否していた父も、渋々承諾。
弟を拾って病院へ着いたのは、14時30分頃。
母は大部屋のドアの横のベッドにいて、肺に刺さったチューブから半透明の赤い(血の色)胸水が出ていた。
抜いた胸水を溜める容器には3本ほどの列があったのだが、2列ほどがすでに埋まっていた状態だった。
少し胸水が抜けたお陰でムカつきが治まったらしく、食事は家にいた時の3~4倍は食べれるようになっていた。
ただ脇腹に刺さった針が痛くて、一人では満足に動けない状態だった。
そんな状態なのに「これ以上薬を飲んで胃が痛くなるのはイヤ!!」と痛み止めは拒否。
痛みから逃れるために「早く胸水を出し切って針を抜きたい」と、自分で胸水を抜く速度を上げてしまったので、トイレに行こうと起き上がった瞬間、折角治まっていた咳が出て呼吸ができない状態になってしまった。
酸素吸入をしてもらい、時間が経つと落ち着いたようだが、この日は動くと咳が出続けた。
後から看護師に聞いた話では、胸水を抜く速度を上げると肺が急に空っぽになるので咳が止まらなくなるらしい。
咳が出だした途端、赤い半透明だった胸水が、一気にどす黒い血の色に変わった。
弟と二人で、母にはきつく説教をした。
夕方近くに、父が大きな花束を持って参上。
母はその時ちょうど咳が酷い時だったが、花束を見ると「お父さんがこんな事してくれたの初めて・・!!」と感動して泣いた。
父が到着してしばらくしてから、主治医が私たち3人に今までの検査結果や、これからの検査の説明をしてくれた。
まず、前日とこの日撮った2枚の胸のレントゲン写真を並べて見せてもらった。
前日の写真は左肺が胸水のでいで真っ白に写っていて、膨張した左肺が右側に心臓を圧迫していた様子が映っていた。
この日の写真では胸水が1/4ほど抜けていて、心臓が真ん中に戻っていた。
それを見て安心したが「まだ検査結果は出ていませんが、胸水は悪性の可能性があります」と言われた。
心臓が凍りついた。
あとは前日私が説明を受けた事と同じ説明をされた。
父も弟も「まだ結果が出ていないのに心配しても仕方がない」と言っていたが、「もし悪性だったら・・」「もう少し早く病院に連れてきていれば・・」とそればかり考えてしまった。
父と弟と話し合った結果、かなり悩んだが志優と旦那は旦那の実家で面倒を見てもらう事にした。
父は名古屋、弟は神戸で平日は仕事があるので帰ってこれないが、週末は帰ってきてくれるとの事。
弟はこの日の夜、神戸に戻った。

お母さん優先!!

2008年05月14日 | 闘病記録
11時頃に家を出て、旦那の実家へ。
胸水に悪性の可能性がある事以外の事情は、姑に話す。
お昼ご飯をご馳走になってから、病院へ出発。
志優が遊んでいる間にコッソリと出たが、寂しくて仕方なかった。
離れたくないけど「今はお母さん優先!!」と自分に言い聞かす。
病院に着いたのは15時前くらい。
この日は休みを取ってくれていた父は、先に着いていた。
この日の母は咳も止まっていたし、声にも張りがあったし、まだ辛そうだけど前日より動きもスムーズになっていたし、「お蕎麦とか煮込みうどんが食べたい」と言っていて食欲も出ていた。
母とは9日から毎日顔を合わせていたが、この日が一番元気そうだった。
13時から呼吸器科の診察を受けたらしく「胸水を完全に抜くのは無理です」と言われたらしい。
あと「最悪ガンの可能性があるから・・」とも言われて、16日に専門の病院へ行きPET検査を受ける事になったらしい。
胸水はとりあえず止まったようで、この日までで合計2.2ℓ出たらしい。
母に「もう付き添いはいいから、どっかで晩御飯を食べておいで」と言われ、18時くらいに病院を出て、実家の近所のラーメン屋で父と夕飯を食べる。
父はそのまま名古屋へ戻り、私は自宅に帰ったが、21時くらいに担当医から「明日色々説明したい事があります」と携帯に電話が入った。
その電話で最悪の事を考えるようになってしまい、一人でいるのが辛くなって、昔勤めていたスナックのママが現在経営している店へ向かう。
お客さんのテーブルについて接客したり、代行の代わりにお客さんを送って行ったり、カウンターに入って洗い物をしたりしていただけだったが、気が紛れて良かった。
23時半頃に旦那から電話があったが、志優は遊び疲れて既に寝てしまったらしい。
いつもは早くて0時、遅ければ1時を回ってからでないと寝ないので、少し驚いた。
店は2時頃閉店し、その後ママに少しだけ話を聞いてもらって励ましてもらった。
帰宅したのは2時半ごろ。
寝たのは3時半ごろだったが、一人で寝るのは寂しかった。