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「聖職の碑」新田次郎

2020年04月14日 | 山の本
大正2年、中箕輪高等小学校の木曽駒ヶ岳学校登山で起こった悲劇。
***

3月に桂小場ルートで木曽駒ヶ岳を登山。泊った西駒山荘(冬季小屋)から山頂の間に「遭難記念碑」がありました。
ここで起こった大量遭難を描いたのは「聖職の碑」。友人に貸してもらい、読むことができました。

【あらすじ:Wikipediaより】
大正時代、中箕輪高等小学校では白樺派教員とそれに反対する教員や村の助役、郡の視学との対立が始まりつつあった。このような中、校長の赤羽長重は毅然とした態度で教師たちをまとめ、実践主義的な教育を行っていた。
大正2年8月26日、赤羽は集団宿泊的行事として前々年より定着しつつあった木曽駒ヶ岳登山に、生徒25名、地元の青年会員9名、引率教師3名(校長、他2名)と共に総勢37名で登山に出発した。
計画は綿密に練られ、前年までの経験を基にした詳細な計画書が全員に配布され、また、地元の飯田測候所にも逐一最新の気象状況を照会するなど、当時考えられる対策はほぼ全て取られていた。ただ、町の予算により運営されているため、前年まで付けていた地元のガイドを雇うことはできなかった。
一行は、すぐれない天候の中ではあったが、山頂にある伊那小屋で1泊する計画であったため、予定通りの山行を決行した。稜線に出る頃には、暴風雨になったが、何とか伊那小屋にたどり着くことができた。
実は、当時の観測技術では判明しなかったが、小笠原海上で発達した台風が猛烈なスピードで、同時刻に東日本を通過中であった。
しかも、頼みの綱の小屋は半壊状態であった上に、心無い登山者によって失火の上、石垣のみの無残な姿に変わってしまっていた。赤羽は、周辺のハイマツ等を手分けしてかき集め、全員の雨合羽も利用して仮小屋を設営し、ビバークを試みた。 しかし、漏水のため火を焚くことができず、体力を失っていた生徒が疲労凍死(低体温症)するに及んで一行はパニックに陥った・・・。

私も3月14-15日、学校登山と同じルートで木曽駒ヶ岳へ強風の中、なんとか登りました。

山頂への尾根。


木曽駒ヶ岳山頂


山頂直下は強風吹きすさぶ尾根。当日も5名の命が奪われました。


将棊頭山から茶臼山へ延びる稜線。ここでも赤羽校長はじめ5名が亡くなっています。


この遭難事故を契機に、将棊頭山の山頂直下には西駒山荘が作られました。


山の歴史を感じさせてくれる本書、深く感動しました。

「聖職の碑」新田次郎 著
 講談社、 昭和51年3月発行

【(続き)Wikipediaより】結果的に、樹林帯にたどり着けた者は生存し、稜線上で力尽きた者の多くが生命を落とした。その中には、生徒に防寒シャツを与えて救おうとした赤羽校長の姿もあった。総計11名の尊い命が失われる大遭難事故となってしまった。
上伊那郡教育会は、稜線上の遭難現場に「遭難記念碑」を設置し、「記念」の言葉の中に、決して事故のことを忘れ得ないようにという思いを込めた。


現在も箕輪中学校をはじめ上伊那地域の中学校の伝統行事として2年生が木曽駒ヶ岳登山を行っているが、これは慰霊登山も兼ねている。

2 コメント

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Unknown (shetland-a)
2020-05-12 23:49:16
ここで紹介してあったので読んでみました。
凄くいい本でした。続けて他の本も読んでみたいと思います。
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shetland-aさんへ (Repu)
2020-05-14 09:11:32
コメントありがとうございました。
本当に感動の1冊ですね。小説の後に追記もとってもよかったです。新田次郎の本は結構読んできましたが、本書はベスト3に入ると思います。
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