「僕のキャリアは波乱万丈だ」と彼は言う。キャリアでもそうだか、実生活においても彼は死の一歩手前まで行ったことがある。
19階に住んでいた彼は出かけるためにいつものようにエレベーターに乗った。が、エレベーターは19階と18階の間で止まってしまう。
「なんとかドアを開けて数メーターよじ登った。またドアをこじ開けて19階の床にたどりついた瞬間、エレベーターが墜落、19階下までドッシーーンとね。」
ジュニアグランドスラム・ファイナリストという肩書きを持つ彼は将来を嘱望されていた。プロ転向後2000年には最高ランキング18位にまで上りつめる。
しかし、手首を痛め、2001年1月に手術。その後の3シーズンは地獄だった。2001年は参加12大会での勝ち星がひとつ。年間ランキング255位に終わる。2002年と2003年はチャレンジャー回り。
2003年末、100位前後までランキングを戻した彼を待っていたのは9ヶ月の出場停止処分。その処分が言い渡されたのが12月29日。エレベーターで九死に一生を得たのがその翌日12月30日。
彼の名前はマリアーノ・プエルタ。
出場停止は2月のビニャ・デル・マール大会でのドーピング検査が陽性だったことによる。陽性と出た原因はclumbutherol - 喘息の薬だ。プエルタは子供の頃から喘息で、この大会直前に発作が起こりclumbutherolを服用している。その前にもclumbutherolを服用したことはあるが、大会直前ではなかった。さらに彼はそれを服用したことを所定の書類に書き込むのを忘れるというケアレス・ミスをしている。
9ヶ月の出場停止処分は、その前にドーピング陽性により処分をうけていたコリアやチェラよりも厳しいものである。同じアルゼンチン選手の前例があるからより厳しい処分になったのではないか、とプエルタは言う。
プエルタは落ち込み、3ヶ月の間何もする気が起きず過食症となる。20キロ体重が増えた。
「処分を聞いて一番最初に僕が感じた感情は【恥】だ。他の選手が僕のことを何と思うだろう。後ろ指をさされる様子が目に浮かぶようだった。一生ドーピングのイメージを背負うのかと。」
きちんと所定の書類に書き込まなかった不注意さが彼が感じる唯一の「罪」である。しかもあの喘息発作は、彼の姪が20日間に渡って死の淵をさまようほどの重体だったことから来るストレスが原因だった。
プエルタは抗鬱剤を使わなかった。そんな状況の中、彼は一度もテニスをやめようとは思わなかったと言う。しかし、周囲のサポートがなかったらおそらく永遠に復帰できなかっただろうとも言う。まず彼の妻、さらにテニス選手である友人たち(カレリ、サバレータ、アカスソ)、それからカウンセラー、ラケットスポンサーであるバボラ(「賞賛に値する行為だ」とプエルタ)、エージェントであり友人であるBrasero氏(「良い時も悪い時も変わらずそこにいてくれる」)、そしてコーチSchneider。
3ヵ月後、コートに戻った。まずは20キロ増えた体重を減らすこと。「最初は1日30分以上ボールを打つこともできなかった」とSchneiderコーチ。
待ちに待った復帰戦は7月12日、リミニに程近いSan Benedettoチャレンジャー。(処分が言い渡される直前の3ヶ月は全く大会に参加していなかった。その3ヶ月が9ヶ月に繰り込まれたため、処分が言い渡された日から6ヶ月で復帰できた。) ランキングは364位になっていた。
「選手たちの反応が心配だった。だけど、大多数は何が起きたかなんて全く眼中になかった。僕はとてもナーバスだったんだけどね。ありがたいことに家族や友人達が一緒だった。」
この大会では1回戦ガルシア・ロペス(スペイン)に勝つも、2回戦でイタリアのTenconiに敗れる。夏の間にランキング440位まで下がったりもしたが、復帰の烽火(のろし)は上がった。
出場停止期間中もテニス界の動向は欠かさず新聞やTVで追っていた。しかし、すんでのところで一番重要な一件を見逃すところだった。2004年6月6日のことである。「居眠りしちゃったんだ。そしたらSol(プエルタ妻)が僕を揺り起こしに来て言うんだ『ちょっと、すごいことになってるわよ』って。TVを見るとガストンだ。そしてコリアが痙攣している。全仏決勝でだよ。信じられなかった。ガストンの優勝は特に僕たちアルゼンチン人にとってはとてつもない素晴しいことだ。彼の優勝のおかげで自分をより信じられるようになったし、それまでのつらい経験がすべて単なる悪い思い出でしかなくなった。」
以上、フランスのテニスマガジン最新号(2005年5月)掲載記事をChoupiが英訳して投稿した記事
Weird way to celebrate Christmas: he escapes death in an elevator crash and gets banned for 9 months by the ATP for being tested positive!を元に、記事構成を少々変えて仕上げました。
英訳を拝借することについてはChoupiの同意を得ています。
Special thanks to Choupi for her ever spreading love.
この記事・ブログが気に入ったら、こんなことしてくださるとうれしいです:
① コメントする
② 掲示板にカキコ
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そして、ぜひまた覗きに来てくださいね
19階に住んでいた彼は出かけるためにいつものようにエレベーターに乗った。が、エレベーターは19階と18階の間で止まってしまう。
「なんとかドアを開けて数メーターよじ登った。またドアをこじ開けて19階の床にたどりついた瞬間、エレベーターが墜落、19階下までドッシーーンとね。」
ジュニアグランドスラム・ファイナリストという肩書きを持つ彼は将来を嘱望されていた。プロ転向後2000年には最高ランキング18位にまで上りつめる。
しかし、手首を痛め、2001年1月に手術。その後の3シーズンは地獄だった。2001年は参加12大会での勝ち星がひとつ。年間ランキング255位に終わる。2002年と2003年はチャレンジャー回り。
2003年末、100位前後までランキングを戻した彼を待っていたのは9ヶ月の出場停止処分。その処分が言い渡されたのが12月29日。エレベーターで九死に一生を得たのがその翌日12月30日。
彼の名前はマリアーノ・プエルタ。
出場停止は2月のビニャ・デル・マール大会でのドーピング検査が陽性だったことによる。陽性と出た原因はclumbutherol - 喘息の薬だ。プエルタは子供の頃から喘息で、この大会直前に発作が起こりclumbutherolを服用している。その前にもclumbutherolを服用したことはあるが、大会直前ではなかった。さらに彼はそれを服用したことを所定の書類に書き込むのを忘れるというケアレス・ミスをしている。
9ヶ月の出場停止処分は、その前にドーピング陽性により処分をうけていたコリアやチェラよりも厳しいものである。同じアルゼンチン選手の前例があるからより厳しい処分になったのではないか、とプエルタは言う。
プエルタは落ち込み、3ヶ月の間何もする気が起きず過食症となる。20キロ体重が増えた。
「処分を聞いて一番最初に僕が感じた感情は【恥】だ。他の選手が僕のことを何と思うだろう。後ろ指をさされる様子が目に浮かぶようだった。一生ドーピングのイメージを背負うのかと。」
きちんと所定の書類に書き込まなかった不注意さが彼が感じる唯一の「罪」である。しかもあの喘息発作は、彼の姪が20日間に渡って死の淵をさまようほどの重体だったことから来るストレスが原因だった。
プエルタは抗鬱剤を使わなかった。そんな状況の中、彼は一度もテニスをやめようとは思わなかったと言う。しかし、周囲のサポートがなかったらおそらく永遠に復帰できなかっただろうとも言う。まず彼の妻、さらにテニス選手である友人たち(カレリ、サバレータ、アカスソ)、それからカウンセラー、ラケットスポンサーであるバボラ(「賞賛に値する行為だ」とプエルタ)、エージェントであり友人であるBrasero氏(「良い時も悪い時も変わらずそこにいてくれる」)、そしてコーチSchneider。
3ヵ月後、コートに戻った。まずは20キロ増えた体重を減らすこと。「最初は1日30分以上ボールを打つこともできなかった」とSchneiderコーチ。
待ちに待った復帰戦は7月12日、リミニに程近いSan Benedettoチャレンジャー。(処分が言い渡される直前の3ヶ月は全く大会に参加していなかった。その3ヶ月が9ヶ月に繰り込まれたため、処分が言い渡された日から6ヶ月で復帰できた。) ランキングは364位になっていた。
「選手たちの反応が心配だった。だけど、大多数は何が起きたかなんて全く眼中になかった。僕はとてもナーバスだったんだけどね。ありがたいことに家族や友人達が一緒だった。」
この大会では1回戦ガルシア・ロペス(スペイン)に勝つも、2回戦でイタリアのTenconiに敗れる。夏の間にランキング440位まで下がったりもしたが、復帰の烽火(のろし)は上がった。
出場停止期間中もテニス界の動向は欠かさず新聞やTVで追っていた。しかし、すんでのところで一番重要な一件を見逃すところだった。2004年6月6日のことである。「居眠りしちゃったんだ。そしたらSol(プエルタ妻)が僕を揺り起こしに来て言うんだ『ちょっと、すごいことになってるわよ』って。TVを見るとガストンだ。そしてコリアが痙攣している。全仏決勝でだよ。信じられなかった。ガストンの優勝は特に僕たちアルゼンチン人にとってはとてつもない素晴しいことだ。彼の優勝のおかげで自分をより信じられるようになったし、それまでのつらい経験がすべて単なる悪い思い出でしかなくなった。」
以上、フランスのテニスマガジン最新号(2005年5月)掲載記事をChoupiが英訳して投稿した記事
Weird way to celebrate Christmas: he escapes death in an elevator crash and gets banned for 9 months by the ATP for being tested positive!を元に、記事構成を少々変えて仕上げました。
英訳を拝借することについてはChoupiの同意を得ています。
Special thanks to Choupi for her ever spreading love.
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【テニあれ】に来て2度目の感涙です。
最初は怪我とお父様の他界のショックから少しづつ立ち直り中のJBの記事。
(それ以外にも連日連夜の怒濤のアップにも日々感動してますが)
今年の南米クレーシーズンに突如表れた感じのプエルタにそんな感動秘話があったなんて
マスターズシリーズという大舞台でモヤを破っちゃったんですから波に乗ると怖い選手ですね。
彼の人生、運がいいのか悪いのかって・・・エレベター事故で九死に一生を得た段階で、強運の持ち主といえるでしょう。あとの人生はグリコのおまけみたいなもの、どーんと行っちゃえ!
テニスでどこまで幸運と栄光をつかめるか楽しみです。
そして【無理矢理フェリ】で申し訳ありませんが、彼にもこんな感動秘話が見つかったら是非、アップお願いしますね。無いと思うけど。
これからも陽の当たらない、あるいは当たりつつある選手の感動秘話を発掘、アップしてこちらのブログの名物にしてください。
それから
ガト全仏優勝はアルゼンチン同業者の間にも大きな衝撃と感動を与えたのですね~
ブラボー、ガストン
それでは感動秘話3段活用の第2段階へステップします。
えっーと、次は掲示板ですね。
…そういった途端、今日負けちゃいましたね…でもまだクレーシーズンは始まったばかり、これからもプエルタ君にいいことがあるといいですね。
感動秘話はともかく、とりあえずバルセロナで写真バシバシ撮ってきます。
感動ショット(?)が撮れるといいな~
貴重な記事ありがとうございました。
お涙頂戴ストーリーというつもりはなかったのですが、私も今更のように彼の人生を思ってちょっと胸を熱くしてます。
さらに、こういう過去を恨んだり愚痴ったりしない彼のさわやかな態度に好感度急上昇!
ここ数年波乱万丈のプエルタ選手の準優勝は見事でした。
「決勝では負けたけれども今の僕をすごく誇りに思えます」とい
った彼の言葉に今までの辛い経験が含まれているように思え
て、感動してしまいました。