ねこぱんち

絵日記のようなもの。
本や映画、生活のこと、思うことなどを気ままに書き連ねています。

奔馬 ~豊饒の海2~

2006年02月27日 01時15分25秒 | 
けっこう時間がかかりましたが読み終わりました。
またまた頭がぶっとびました!
三島由紀夫さんの作品を読むと、いつもこうです。
カコーンと頭を叩かれたようなかんじ。

「若者の純粋な行動を題材にしたシリーズ」と、紹介文のところに
書いてありますが、純粋さは極端すぎると偏るのですね。
読めば読むほどに、三島さんが自決された謎が深まるばかり。

というのも、彼は(小説の中ではの話ですが)終始一貫して、
冷静な眼差しでコレを書いていると思うのです。
確かに主人公の青年(飯沼勲)は右翼の過激な思想を持った青年ですが
第一巻から登場している本田繁邦は、それを良しとはしていません。
「その考えは間違っている。それは危険だ。身を滅ぼす。」
と、何度も注意しています。
それを書いた本人が、なぜに自決?

三島由紀夫さんと兄弟のように仲の良かった美輪明宏さんは、
「彼はきっと自分が老いて他人の世話になっていくのが嫌だったんでしょう」
と本に書いているのを読んだことがあります。
うぅぅん、ストイックな人って、すごい事するんですね。

この本の最後に解説が付いているんですが、その文末にガツンときたので
載せておこうと思います。
これには三島由紀夫さんが、なぜ自決に至ったか、
その考えが上手にまとめられていると思いました。

物語の中で、勲が起こした事件は幻とされ、処分を受けなかった。

「実社会の理論から言えば、これが勲に対するあたうる限り最大の処遇だろう。
けれど勲は、それでは救われない。橛起の計画は全てが幻だったことに、
人々はしてしまった。
「僕は幻のために生き、幻をめがけて行動し、幻によって罰せられたわけですね」
と、彼は釈放された夜、両親の前で吠えるように言う。

孤独な少年の生きる道は、世間が幻にしてしまった夢をもう一度実体化する
こと意外にあり得ないのである。現実の不確実性を誰もが知っているのに、
なぜ誰もがそれを信じている顔をしたがり、純粋な夢を嘲笑するのか。
勲の願いは昇る日輪のもとに、輝く海を前に死ぬことだった。

「正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った」

『奔馬』のこの最終行は、あまりにも名高い。しかし主人公が志を果たして
海岸で切腹したのが深夜だったことは、とかく忘れられがちである。
太陽が昇る時刻ではない。それでも日輪は、赫奕と瞼の裏に昇っている。

勝利を収めたのは勲だった。夢こそが現実に先行するのであり、
実在とは身命を賭けた詩であると、作者はこの一行に託して言っているように
見えるのである。」

まさに、この物語のメッセージと同じ生涯を送られた三島さん。

私はこのような方向性を持っていないけれど、このメッセージには
とても共感している。
人生はこういう風でありたい。




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