昨日唱題会にて参詣してまいりました。
信心をはじめるきっかけは人それぞれだと思います。
私のように年齢は重ねたけど人生何が何だか分けが分からなくなって飛び込んだ人もいれば、病気を患ったり、経済苦、家庭不和、人間関係など、人それぞれいろんなことがあります。
それでよいのです。
だから何かにすがりたい、信じたい、そしてそのおかげで自分が力強くしっかりと立って生きられれば。そう思い願うことに何の不思議もありません。
一方で、人のそういう思いや願いにつけこんでくるものもあります。
それはカルトであったり、力のない力の弱い宗教、本当に悪い方向へ向けさせるものであったりします。
人の何かを信じたい、信仰したいという心の思いは本当に大切なものだと思っていますが、それを本人に気づかせずに悪いことに差し向かせたりするようであれば、もちろんそれは本当の救いではありません。
でもそうとは気づかずにいる人が本当に多いのではないでしょうか。
ある時ある方に「仏教のお話しを・・・」と言ったら「私は仏教のことはある程度みんな知っている。日蓮も親鸞もだいたいのことは分かっている。だから聞かなくていい」と言われたことがあります。「知っている」。それはそれで立派なことだと思うのですが、「知っている」だけでそこに「信」はあるのかないのか。代々続いているからなんとなくそうしています。その人の信仰はただそれだけのことなのです。
それから、神という存在は認めるけれども、それは具体的に言い表わすことができないもの。つまり人智、人間の力をはるかに超えたものだから人間である私たちが説明などできない。いわゆる超越神。説明できないけれどもその神がいるということは信じる。という信仰を持つ人もいます。これではないものをあると信じてもそれが正しいということと一緒です。信じきった結果にひどい二重人格か、鬱にでもならないかと心配してしまいます。
このように間違った考え方や信仰を持つ人は多くいます。このような信仰を持ったところで、本当の幸福になれるわけがありません。
本当の正しい宗教は、道理に適って、人を誤った道から正しい道へと導いてくれる宗教です。だから力強くなれるし幸福になれるのです。知識を知ったからあとはまあどうでも・・・それで十分ということでもなく、そしてないものをあると言う道理の通らないものでもない。
正しい宗教で信仰をして本当の幸福になれる。それは日蓮正宗以外ではあり得ないのです。
御霊宝虫払大法会で総本山に行かれた講頭さん、副講頭さんも無事帰ってこられました。
お二人のお話を聞くのが楽しみです。