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人生、失敗しちゃった~ニート後遺症 闘病記~

十数年のニートをやめて一年。ニート後遺症と戦う、ニート研究家。

未納リアルタイム【脱ニート者の日常】

2016年02月23日 | 脱ニート者の日常
今、電気代の集金の方がきた。
12月分が未納という。1月分まで銀行にいれたつもりだったので母と再確認。12月分済、という母のメモが見つかったものの明細がでてこない。どうやら抜けていたらしいので電力会社に確認の後、振り込む。いよいよ全財産が税金の支払い額に届かない。

そりゃ大福廃棄で涙も出るわなと嘆息しつつ、本日のバイトへ向けて準備開始。

大福よ、安らかに眠れ【脱ニート者の日常】

2016年02月23日 | 脱ニート者の日常
スーパーで品出しをしている。
パック破れ等、どうにも売り物にならない商品が出てしまうと廃棄にする。先日、大福の袋から消費期限シールが剥がれていたのを発見した。探しても見つからない。他の同商品のシールをみれば消費期限は翌日。入荷数が少なく売り切れることがほとんどの商品なので前日以前の売れ残りとは考えにくい。そもそも前日、同商品が売り切れているのは俺が確認しているので、発見された日の朝に入荷されたことに間違いはない。
という状態だったが、これも廃棄。
そうなるだろうなと思いながら、社員スタッフに「どうしましょうか」と伺いを立ててみると、軽くキレイな声で「廃棄ッ」。
198円(税別)。大福。どう考えても消費期限を越えてはいない。でも廃棄。廃棄該当商品を社員割引で購入することもできなくもないというけれど、消費期限シールが剥がれているものは無理らしい。そうやって安く購入する社員が出ないようにする為なのかもしれない。
198円の大福など俺にとって、憧れの贅沢品。それをそのまま廃棄ボックスへ放り込む。理屈は分かるんだ。ほんの少しでも商品の安全性に疑念があるものをお客様に売るわけにはいかない。
分かってはいても、涙が出た。

慣れるとダレて、このままでもいいやと思うんだ【ニート化直前】

2016年02月22日 | 脱ニート者の日常
慣れるとダレる。
今、その危険な境界にいる。
ニート化する直前、というのも変な言い回しだけど、大学を出て色々と思うところがあってフリーター化して2年経ったころに似ている。バイト生活に慣れ、人生で一番カネ回りが良くなった。遊び回る甲斐性はないので貯金した。そうなると余裕が出てくる。本当は余裕ではないのだがそういう気がする。なんとなくこのままでいいやと思う。当時はまだそれなりに若者だったので、これじゃダメだと奮起しようとした。結果的にバイトを辞め就職活動に専念する。そこで総ボツを喰らう。単発に近いバイトを入れつつ職探し。それにも次第に慣れてしまい、求人募集をみる、が仕事になる。やがてそのバイト先が閉店したことをきっかけにニート完全体に。その閉店時には次を次をと考えたものの、決まらないうちにまた、その状況に慣れる。慣れてしまうと、覇気が弛緩する。そのうちなんとかなるだろうと考えて、疑問を持たない。現状を顧みても不安にならない。現実感を喪失していく。

要するに、ダレてしまう。真剣に向き合わなくて平気になる。

今、大学生の夏休みバイトのような日課で暮らしている。経済的には苦しいし将来的にはどうにも見通しが立たないにせよ、食費や生活費はギリギリ捻出できている。毎日のリズムが出来上がっている。そのリズムの中で暮らせば、楽しくはないものの安定はする。安定したので、楽になる。こういうものを書き連ねる余裕ができたのもそのためかもしれない。そして、なんとなくこのままでいい気がしてくる。勿論そんな考えは打ち消すのだけど、あの時と似ているので書き記した。二度はやらかさない。今度こそ本格的に後がないし。ダレるな俺。

求人探しをしてから食費稼ぎにいこう。

部屋に人生の大半を逃げてきた証拠があることに気付く【ニート後遺症、闘病中】

2016年02月21日 | 脱ニート者の日常
本が山のようにある。
漫画・小説諸々。本好きだった。小学生のころから連綿と読み続けた。ニート化してもそれは止まらない。むしろ拡大した。バイト収入や微々たる貯金、恥ずかしながら食材の買い出しついでに一緒に会計してもらうなど様々な形で購入し続けてできた書籍山脈。その脇にCD。DVD。部屋にはサブカル連峰がそびえている。
その肥大化が、脱ニートで止まった。
年間100冊を越えた肥大化が、今年はゼロ。経済的に絞ったわけではない。読む意欲が失せた。食指が動かない。物心ついてから30年以上、絶えたことのない読書欲が消えた。ニート後遺症の一つだ。だからそして考える。

そこに再び登場するのが「現実」。
明確で冷厳な現実との対峙により「本の世界」で遊ぶ余裕がなくなった。余裕がなくなったというと少し違和感がある。遊ぶ必要がなくなった、がより近い気がする。「現実」をしっかり生きようとした時、俺には「本」が必要ではなくなった、が実感だった。更に考えた。「本」は俺にとって「現実」からの逃避だったのではないか。なぜかしっくりきた。ニート時代、ひっきりなしに乱読していた。四コマ漫画から量子力学の解説書まで。楽しかった。が、今はいらない。その証拠に、だ。一年前、脱ニートした時と同じ形で山脈が残っている。一番高い山の上には「僕はビートルズ3」、その下に少しズレて「幽麗塔」が見える。ちょうど昨年のこの時期、古本屋で買ったものだ。読んで積んでそのまま。あれからまったく「本」に触っていない。ギターとほぼ同じだ(ギターは一時期、触ったのを、これを書いていて思い出した)。
今は、全く、何も読む気が起きない。精神的に疲弊しているからとかではない。別の世界にいく意味が失せたからだ。逃避行動の一つだったと、本当に実感する。

となると、怖い結論に行きつく。
俺はずっと本漬けだった。それはつまり俺の10分の9以上の人生は、ずっと何かから「逃避」していたのだ、という結論。何かからなどといわずはっきり書く。現実からだ。俺は精神的にはずっとニートだったのだろう。そう考えると気持ち悪いくらい整合が取れる。

ちょっと本が好きだった程度の子供が一気に乱読を始めたのが中一。その時期、家に大きな変化があったのだ。決して恢復する類ではない変化だった。

逆に考える。「本」の山が突きつけるものが「逃避」だったとして、それを改めてみると余りにも不気味な圧を持って迫りくるが、逆にいえば今、はっきりとそれらへの意欲が失せているのだから、少なくとも「現実」と正面から向かい合っている俺がいるのは間違いない、ことになる。

うん。それは悪くない。

とはいえ、「本」が好きだという意識はある。またいつか呆けた顔をして「本の世界」で遊べるようになる日がきたら、「逃避」ではなく『現実」と共存しながら楽しめるようになったら、それは一つの、敗戦の中の勝利、なんじゃないだろうか。ちっさいけどね。それもまた、俺の目標にしよう。