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元山ガールの放浪記

感動した映画とかテレビとか本とか・・・いろんな作品について、ちょっとだけマニアックな視点から、気まぐれに書いてます。

中国・過去と今が溶け合う国

2012年09月25日 | 日記
最近、中国語を学んでいる。
別に興味があったわけじゃない。
仕事で必要だから始めたのだ。

外国語を学ぶのは好きだったけれど、それは「外国語」だから。
日本とは違う風景、日本人とは違う価値観、
グローバリゼーションとやらが、この世界を完全に平たくしてしまう前に
触れておきたい、土着的なざらっとした感触。
その言葉を使うことで、そんなものに接したかったのだ。

その点「中国語」は魅力が薄い。
地理的に近い国の言葉で漢字を使うから、何だか日本語の延長のように感じる。
しかも学ぶのは基本「普通語(プートンホア)」。
日本の26倍もある広大な国土を支配するために
漢民族が全土に普及させているいわば「支配者の言語」だ。
それは、私が求める「ざらっとした感触」とはどうにも結びつかなかった。

しかし、それでも発見はあるものだ。
最近の最大の発見の一つ、それは中国語には何と「時制がない」ということだ。
外国語といえばまず「英語」を学ぶ日本人にとって、
動詞の時制変化は、乗り越えなくてはならない大きな関門だ。

draw-drew-drawn
swim-swam-swum
run-ran-run

なぜそうなるか、などはお構いなく、とにかくこれを覚えないと話にならない。
日本語だって形こそ違えども、時制がある。
「私は~しました。」の「た」がそうだ。
つまり英語世界でも日本語世界でも、過去・現在・未来は何らかの切れ目を伴う別のカテゴリーである。
それは言語と、その言語を使う人間の思考の根幹なのだろう。

ところがだ、中国語にはこの時制が「ない」のだ。
「私はご飯を食べた」という時も「私はこれからご飯を食べる」という時も
「我吃飯(ウォーチーファン」という表現で言えてしまうのだ。
これは衝撃だ。

中国は、新興国と呼ばれる。
日本の後に経済発展を遂げ、今や経済大国の一員、つまり「最近になって西洋的思考を身に付けた国」
そんなイメージがあるのではないか。
しかし、上記の言葉一つとっても、中国人の発想が根本から違うことに気付かされる。
中国人にとって、「過去」と「現在」そして「未来」はどうやら「連続」したものなのだ。

1時間の遅刻は当たり前と考える彼と、10分の遅刻にいら立つ彼女。
お互いの違いを知ろうとしない限り、破局はまぬがれない。
よい例えではないが、きっと中国という国と付き合うにも、独自の時間感覚を知る必要があるのだろう。









ディテールの呪術  ~「夢売るふたり」に思うこと~

2012年09月23日 | 日記
先週末、駆け込みのレイトショーで西川美和監督の最新作「夢売るふたり」を見た。
前作までは、まだ世間的にも気鋭の若手監督という扱いだった気がするが、
今回は定番の実力派監督といった感じで、宣伝も地味ながら
着実に話題を呼んでいる感がある。

自分と同年代の女性監督、ということもあり
出世作となった「ゆれる」以来、西川監督の大ファンなのだが、
何気ない日常を描くように見せかけ、それを突如怒涛のサスペンスに変貌させてしまう
脚本には、毎回本当に驚かされる。

さて、今回の「夢売るふたり」はというと・・・前2作と比べると、
ストーリーの起伏としてはやや地味な印象を受けた。

ただ、「ディテール」の冴えわたり方が半端ではない。

松たか子演じる妻は、火災で全焼した店の開店資金を得るため、
夫に結婚詐欺をさせるという仰天の計画を思いつく。
しかし詐欺が軌道に乗るにつれ、当然夫は家に戻らなくなる。
予想していたことながら、やり場のない思いを募らせ一人家で夫を待つ妻の描写が
尋常ではなくリアルなのだ。

細かいことは避けるけれど、「これはさすがに男には分かんないだろーなぁ」
という、ある意味過激な描写がたびたび登場する。
一例をあげるとすれば、妻が家で一人待つ間、生理が始まったことに気付くという場面、
本当に言葉にならないものまで描写してくる監督だ。

西川監督が「初めて女性を描く」ということで話題となっている今作。
肝心のヒロインの内面に関しては、実は見ている私たちには謎だらけだ。
しかし、それでもなお、彼女の存在が強い印象を残すのは、
生身の女としての身体性を感じさせる描写力、西川流呪術的リアリズムのなせる技のようにも思った。





眠れないので

2012年09月23日 | 日記
今さらながらブログを初めてみることにした。

「表現」に関わる仕事をしている関係で、
この手の発信は、色々制約もあるので避けてきた。
仕事や日々の生活に追われていると、心の底にある思いに蓋をしてやり過ごせる面もある。

それでも最近、自分の中に表現しきれない澱のようなものがたまってきて、
まさにいてもたってもいられない衝動に駆られることがある。
いくら「表現」するのが仕事とはいえ、様々な制約の中でやっていると、
どうしてもとりこぼしてしまう思いはあるのだ。

10年くらい前まで時代に先駆けて山ガール(当時は単なる山女)だった頃は、
それはそれで、自分なりの表現もできていたのだけど、
最近はそれもなかなか叶わない。

ということで、ブログでも書いてみるかな・・・と思ったら即効できてしまった。

別にそんなに深刻な話を書くつもりもないし、
どうせ途中で忙しくなってきて滞るんだろうけど、
自分が日々感じた沫のような思いがネットに残って、
それを誰かが読んで何かを思ってくれるなら、
それはそれで素敵だな、と思う。