最近、中国語を学んでいる。
別に興味があったわけじゃない。
仕事で必要だから始めたのだ。
外国語を学ぶのは好きだったけれど、それは「外国語」だから。
日本とは違う風景、日本人とは違う価値観、
グローバリゼーションとやらが、この世界を完全に平たくしてしまう前に
触れておきたい、土着的なざらっとした感触。
その言葉を使うことで、そんなものに接したかったのだ。
その点「中国語」は魅力が薄い。
地理的に近い国の言葉で漢字を使うから、何だか日本語の延長のように感じる。
しかも学ぶのは基本「普通語(プートンホア)」。
日本の26倍もある広大な国土を支配するために
漢民族が全土に普及させているいわば「支配者の言語」だ。
それは、私が求める「ざらっとした感触」とはどうにも結びつかなかった。
しかし、それでも発見はあるものだ。
最近の最大の発見の一つ、それは中国語には何と「時制がない」ということだ。
外国語といえばまず「英語」を学ぶ日本人にとって、
動詞の時制変化は、乗り越えなくてはならない大きな関門だ。
draw-drew-drawn
swim-swam-swum
run-ran-run
なぜそうなるか、などはお構いなく、とにかくこれを覚えないと話にならない。
日本語だって形こそ違えども、時制がある。
「私は~しました。」の「た」がそうだ。
つまり英語世界でも日本語世界でも、過去・現在・未来は何らかの切れ目を伴う別のカテゴリーである。
それは言語と、その言語を使う人間の思考の根幹なのだろう。
ところがだ、中国語にはこの時制が「ない」のだ。
「私はご飯を食べた」という時も「私はこれからご飯を食べる」という時も
「我吃飯(ウォーチーファン」という表現で言えてしまうのだ。
これは衝撃だ。
中国は、新興国と呼ばれる。
日本の後に経済発展を遂げ、今や経済大国の一員、つまり「最近になって西洋的思考を身に付けた国」
そんなイメージがあるのではないか。
しかし、上記の言葉一つとっても、中国人の発想が根本から違うことに気付かされる。
中国人にとって、「過去」と「現在」そして「未来」はどうやら「連続」したものなのだ。
1時間の遅刻は当たり前と考える彼と、10分の遅刻にいら立つ彼女。
お互いの違いを知ろうとしない限り、破局はまぬがれない。
よい例えではないが、きっと中国という国と付き合うにも、独自の時間感覚を知る必要があるのだろう。
別に興味があったわけじゃない。
仕事で必要だから始めたのだ。
外国語を学ぶのは好きだったけれど、それは「外国語」だから。
日本とは違う風景、日本人とは違う価値観、
グローバリゼーションとやらが、この世界を完全に平たくしてしまう前に
触れておきたい、土着的なざらっとした感触。
その言葉を使うことで、そんなものに接したかったのだ。
その点「中国語」は魅力が薄い。
地理的に近い国の言葉で漢字を使うから、何だか日本語の延長のように感じる。
しかも学ぶのは基本「普通語(プートンホア)」。
日本の26倍もある広大な国土を支配するために
漢民族が全土に普及させているいわば「支配者の言語」だ。
それは、私が求める「ざらっとした感触」とはどうにも結びつかなかった。
しかし、それでも発見はあるものだ。
最近の最大の発見の一つ、それは中国語には何と「時制がない」ということだ。
外国語といえばまず「英語」を学ぶ日本人にとって、
動詞の時制変化は、乗り越えなくてはならない大きな関門だ。
draw-drew-drawn
swim-swam-swum
run-ran-run
なぜそうなるか、などはお構いなく、とにかくこれを覚えないと話にならない。
日本語だって形こそ違えども、時制がある。
「私は~しました。」の「た」がそうだ。
つまり英語世界でも日本語世界でも、過去・現在・未来は何らかの切れ目を伴う別のカテゴリーである。
それは言語と、その言語を使う人間の思考の根幹なのだろう。
ところがだ、中国語にはこの時制が「ない」のだ。
「私はご飯を食べた」という時も「私はこれからご飯を食べる」という時も
「我吃飯(ウォーチーファン」という表現で言えてしまうのだ。
これは衝撃だ。
中国は、新興国と呼ばれる。
日本の後に経済発展を遂げ、今や経済大国の一員、つまり「最近になって西洋的思考を身に付けた国」
そんなイメージがあるのではないか。
しかし、上記の言葉一つとっても、中国人の発想が根本から違うことに気付かされる。
中国人にとって、「過去」と「現在」そして「未来」はどうやら「連続」したものなのだ。
1時間の遅刻は当たり前と考える彼と、10分の遅刻にいら立つ彼女。
お互いの違いを知ろうとしない限り、破局はまぬがれない。
よい例えではないが、きっと中国という国と付き合うにも、独自の時間感覚を知る必要があるのだろう。