
カリブ海に浮かぶ人口400万人の島プエルトリコ。
ラテンアメリカの国々の中では最高所得を記録する。旅行業界では"Travel Bargain of the Carribean(カリブ海のお買い得旅行)"と謳われる。
プエルトリコはアメリカの領土。
そしてプエルトリコ人はアメリカ国籍。
しかし、"アメリカ人"であるプエルトリコ人一人当たりの所得は、アメリカの最貧であるミシシッピ州の所得の半分にも満たない。
プエルトリコは植民地なのか?国なのか?自治領なのか?それとも保有地なのか?
プエルトリコはラテンアメリカの一部か?アメリカの一部か?カリブ海の島々の一部か?それともそのすべてを満たすのか?
島の公式名称はEstado Libre Asociaso de Puerto Rico(Free Associated State or Commonwealth)。しかし、それはどのような意味を持つのか?米国の州は state だが、ケンタッキー州、マサチューセッツ州、ペンシルベニア州、バージニア州の4州については、公式には州として commonwealth を使う。それらと同様の意味を持つのだろうか?
そんな「想像上」(アンダーソン参照)のジレンマが続く一方で、プエルトリコという島に400万人の人間が生活している。美しい自然が残り、数々のプエルトリコらしさを残したこの場所で、私はプエルトリコに何を感じ、何を学ぶのだろうか。
…プエルトリコに住む人々が愛するプエルトリコという場所を知るために。
今回の旅のお供はInsight Pocket Guide(Discovery Channel)。著者はプエルトリコに9年住み、カリブ海の政治、ビジネス、そして見つめてきたLarry Luxnerである。
Larryは言う:
Puerto Rico isn't associated, it isn't a state, and it isn't free. Culturally, the island has more in common with Cuba, Venezuela, and the Dominican Republic than the United States, but from an economic perspective, it is almost completely tied to Wachington.
【我が旅】
プエルトリコへ向かう飛行機はたくさんの子連れの家族が乗っていた。私の隣に座るのも若い母親と3歳の坊やだった。プエルトリコは統計的に出生率が高いのだ。子供がヤンチャなのか、お母さん、相当お冠でした。しかし、感動的だったのが、着陸のときカソリック式の祈りを二人で捧げ無事着いたときには、「いぇ~い!!」と本当に手を叩き合って喜んでいた姿でした。
空港からタクシーで$20(絶対ぼられていると思う)。Old San Juanに着く。プエルトリコは車社会。公共の交通機関はあまり発達していないのだ。

さて、町の風景。
一見にぎやかなリゾート風景。
アメリカ人観光客がバカンスを求めやってくる。
スターバックスやKFC、マクドナルド…『アメリカ』を多数発見。
一層掘り下げると、町の様相は何だか落ち着きがなく、今一つ感動に欠ける。植民地時代の名残か、建物はマドリード風のパステルカラーの家々が所狭しと立ち並ぶ。しかし、感動に欠ける。圧倒させるものがない。地に足が着いていないという感じだろうか。

路地裏を歩き見つけたローカルなレストラン。
バーに腰掛けている店員を見つけ、ここぞと並びで座る。
S「こんにちは。おなかがすいているの。何かオススメの料理はありませんか?」
すると、なれた英語が返ってきた。
店員「たくさんあるよ。どんなのがいい?ブランチ?肉系でガッツリいきたい?牛肉?チキン?」
S「お昼ごはん食べていないから、しっかり目がいいかな。」
店員「それならこれがオススメ。黒豆の煮込みに、ご飯、肉の煮物とアボカドがついてるよ。」
S「うん、じゃあそれお願い!」

勧められた料理はPabellon Griollo。普段食べているものよりも塩辛いが、もともとキューバ料理に慣れている私は、普通にいただいた。美味しかった。
S「ね、ダンス踊るの?」
店員「うん、踊るよ!!」
S「何踊る?」
店員「レゲトン!」
S「レゲトン!?私も踊ったよ!学園祭で。」
店員「へぇ~!!」

S「学生?」
店員「ううん、もう卒業したよ。どこから来たの?アメリカ?」
S「今はアメリカで勉強しているけど、日本人。」
店員「ええ?!日本?僕ね、日本に凄くいってみたいんだよ。漫画とかFinal Fantasyとか超COOLだよね。それに、日本人は礼儀正しいし、いい人が多いって聞くよね。桜とかも綺麗なんでしょ?美しいもの多いんでしょ?」
どこから入ってきた情報か分からない。ことさら車文化の発達したプエルトリコだから、TOYOTAなどがPublic Dipilomacyに貢献してくれているに違いない。また、いつも思わされるけど、漫画やテレビゲームの力は想像以上に強力。
店員「どうしてプエルトリコに来たの?」
S「Salsaが好きなこと。それからアメリカの領土でありながら、特異な文化を持つプエルトリコにとても興味があるの。ねね、プエルトリコ好き?プエルトリコってどんなところ?」
彼はプエルトリコが好きか否かは答えなかった。
自己ほど客観視するのも難しいし、愛することも難しいものだ。
代わりに返ってきた答えは、プエルトリコはアメリカ化のプロセスで、最後の植民地時代の名残を味わっているというものだった。
S「時代が変わってきてるんだ・・・。」
店員「物凄い勢いで。」
S「その変化をどう思う?歓迎してる?それともあまり?」
店員「半々かな。アメリカのお陰でいい教育が受けられる。僕らはアメリカにいる人たちと同等の奨学金がもらえるんだ。だけど、それと同時に人びとは混乱している。」
店員の名前はEdomarという。彼はこの後大学で船乗りの勉強をして世界中を回りたいのだそうだ。そしてその後は小さな島に自分の家と畑を持って自給自足に近い生活がしたいらしい。

私は内臓が観たい。
一体全体世界中のあらゆるところで何が起きているのか。


町行く人々は皆優しく、こちらがにこりと微笑むと、渋い笑顔で返してくれる。アジア人なんてほっとんどいないプエルトリコで、一人旅する私が、珍しかったのだろうか。
書ききれないね・・・。
明日はVieques Islandにての出来事。
【歴史】
プエルトリコのジレンマは1493年11月19日、かの有名なクリストファー・コロンバスがプエルトリコ北西の海岸にたどり着いたことから始まった。当時プエルトリコには5万人のTainos人(Arawak人)が住んでいた。Tainos人の残した岩彫刻は有名であり、今回は時間的に行くことはできないが、その彫刻はCuguana Indian Cermonial Parkで観ることができるらしい。その彫刻に付着した化石によりプエルトリコにはA.D.1世紀にはすでに彼らが住んでいたことが分かっている。1508年、スペイン人の探検家Juan Pnoce de LeonによってCaparra(現在のBayamon)に入植地が作られた。彼は原住民の民芸品を見て、この地が金に豊富なことを確信した。1521年、彼の死んだその年、科による被害によって入植者たちはCaparraを終われ、現在のSan Juanへの遷都を余儀なくされた。最初の数年は原住民と平和な共存生活を営んでいた。しかし、原住民らは入植者が持ってきた病気に感染し死滅の危機にさらされ、さらには、その後奴隷化されていった。キリスト教を強制され、そして、金発掘のための無償労働を課される。1540年までには金山は尽き果て、次の入植者の目標は豊かな農地となる。このころ原住民Tainos人は死滅し、その代用として300年以上に渡りスペイン覇権のもとポルトガル人の奴隷とレーダーを介して西アフリカから黒人奴隷の移入が始まった。
その後、植民地戦争。

Old San JuanにあるEl Castillo de San Felipe del Morroは初めての植民地襲撃時に完成されたものだ。16世紀後半、フランスとイギリスによる侵略。1625年、オランダ人のBoudewijn Hendrikszoonによる征服侵略により激化を極めた。しかし、オランダは1ヶ月も経たずうちに失敗に終わる。

1630年代に入るとPhilip IV王は7つの壁で要塞を作り都の防御を強化した。1765年までにはプエルトリコの人口は4万5千人までに達した。1797年イギリス本土で起きたフランス・スペイン戦争宣言に続き、9000人の兵隊がSan Juanを攻撃。

1809年、ナポレオンがスペインを攻撃してすぐ、民主政治のさきがけとして、プエルトリコから代表人1人をCadizに送らせた。1812年、立憲政体が成長を遂げ、プエルトリコの条件付市民権を保障した。しかしながら、それは自治権とスペインから独立勢力を強める結果になった。1868年独立革命"Grito de Lare"。1897年、スペインはその申し出を受け入れ、プエルトリコを自治領と宣言する。すぐさま二院制立憲政府が作られた。まだマドリードが島の統治者を指名していたが、彼の権威はかなり制限されていた。1898年春に新政府は商業を開始する。
しかし、プエルトリコの自治はそんなに長くは続かなかった。1898年7月25日、アメリカ人将校Nelson A Milesが16000人のアメリカ兵を連れて上陸。
"We have come to promote your prosperity, and to bestow upon you the immunities and blessing of the liberal insitutions of our government."
スペイン・アメリカ戦争は4ヶ月未満、プエルトリコ本土戦はわずか2週間でアメリカの勝利に終わる。戦争後、アメリカ兵はプエルトリコ、キューバ、フィリピン、グアム、その他数々の太平洋の島々に残留した。4年後、キューバ独立に続きフィリピン独立。しかしプエルトリコは独立の兆候が強くなかったため、アメリカの良き保有物になった。スペインの通過セペタはすぐさまアメリカのドルと代わり、郵便切手もつぐさまアメリカのものと置き換えられた。初代民主統治者Munoz Marinの先導のもと、1952年7月25日アメリカの自治州Commonwealthとなる。彼の政策の結果プエルトリコは砂糖、コーヒー、タバコに頼った農業中心経済から、世界レベルの製造業経済へと移行を遂げる。
そして、今、プエルトリコはTourismの時代を迎えている。
ラテンアメリカの国々の中では最高所得を記録する。旅行業界では"Travel Bargain of the Carribean(カリブ海のお買い得旅行)"と謳われる。
プエルトリコはアメリカの領土。
そしてプエルトリコ人はアメリカ国籍。
しかし、"アメリカ人"であるプエルトリコ人一人当たりの所得は、アメリカの最貧であるミシシッピ州の所得の半分にも満たない。
プエルトリコは植民地なのか?国なのか?自治領なのか?それとも保有地なのか?
プエルトリコはラテンアメリカの一部か?アメリカの一部か?カリブ海の島々の一部か?それともそのすべてを満たすのか?
島の公式名称はEstado Libre Asociaso de Puerto Rico(Free Associated State or Commonwealth)。しかし、それはどのような意味を持つのか?米国の州は state だが、ケンタッキー州、マサチューセッツ州、ペンシルベニア州、バージニア州の4州については、公式には州として commonwealth を使う。それらと同様の意味を持つのだろうか?
そんな「想像上」(アンダーソン参照)のジレンマが続く一方で、プエルトリコという島に400万人の人間が生活している。美しい自然が残り、数々のプエルトリコらしさを残したこの場所で、私はプエルトリコに何を感じ、何を学ぶのだろうか。
…プエルトリコに住む人々が愛するプエルトリコという場所を知るために。
今回の旅のお供はInsight Pocket Guide(Discovery Channel)。著者はプエルトリコに9年住み、カリブ海の政治、ビジネス、そして見つめてきたLarry Luxnerである。
Larryは言う:
Puerto Rico isn't associated, it isn't a state, and it isn't free. Culturally, the island has more in common with Cuba, Venezuela, and the Dominican Republic than the United States, but from an economic perspective, it is almost completely tied to Wachington.
【我が旅】
プエルトリコへ向かう飛行機はたくさんの子連れの家族が乗っていた。私の隣に座るのも若い母親と3歳の坊やだった。プエルトリコは統計的に出生率が高いのだ。子供がヤンチャなのか、お母さん、相当お冠でした。しかし、感動的だったのが、着陸のときカソリック式の祈りを二人で捧げ無事着いたときには、「いぇ~い!!」と本当に手を叩き合って喜んでいた姿でした。
空港からタクシーで$20(絶対ぼられていると思う)。Old San Juanに着く。プエルトリコは車社会。公共の交通機関はあまり発達していないのだ。

さて、町の風景。
一見にぎやかなリゾート風景。
アメリカ人観光客がバカンスを求めやってくる。
スターバックスやKFC、マクドナルド…『アメリカ』を多数発見。
一層掘り下げると、町の様相は何だか落ち着きがなく、今一つ感動に欠ける。植民地時代の名残か、建物はマドリード風のパステルカラーの家々が所狭しと立ち並ぶ。しかし、感動に欠ける。圧倒させるものがない。地に足が着いていないという感じだろうか。

路地裏を歩き見つけたローカルなレストラン。

バーに腰掛けている店員を見つけ、ここぞと並びで座る。
S「こんにちは。おなかがすいているの。何かオススメの料理はありませんか?」
すると、なれた英語が返ってきた。
店員「たくさんあるよ。どんなのがいい?ブランチ?肉系でガッツリいきたい?牛肉?チキン?」
S「お昼ごはん食べていないから、しっかり目がいいかな。」
店員「それならこれがオススメ。黒豆の煮込みに、ご飯、肉の煮物とアボカドがついてるよ。」
S「うん、じゃあそれお願い!」

勧められた料理はPabellon Griollo。普段食べているものよりも塩辛いが、もともとキューバ料理に慣れている私は、普通にいただいた。美味しかった。
S「ね、ダンス踊るの?」
店員「うん、踊るよ!!」
S「何踊る?」
店員「レゲトン!」
S「レゲトン!?私も踊ったよ!学園祭で。」
店員「へぇ~!!」

S「学生?」
店員「ううん、もう卒業したよ。どこから来たの?アメリカ?」
S「今はアメリカで勉強しているけど、日本人。」
店員「ええ?!日本?僕ね、日本に凄くいってみたいんだよ。漫画とかFinal Fantasyとか超COOLだよね。それに、日本人は礼儀正しいし、いい人が多いって聞くよね。桜とかも綺麗なんでしょ?美しいもの多いんでしょ?」
どこから入ってきた情報か分からない。ことさら車文化の発達したプエルトリコだから、TOYOTAなどがPublic Dipilomacyに貢献してくれているに違いない。また、いつも思わされるけど、漫画やテレビゲームの力は想像以上に強力。
店員「どうしてプエルトリコに来たの?」
S「Salsaが好きなこと。それからアメリカの領土でありながら、特異な文化を持つプエルトリコにとても興味があるの。ねね、プエルトリコ好き?プエルトリコってどんなところ?」
彼はプエルトリコが好きか否かは答えなかった。
自己ほど客観視するのも難しいし、愛することも難しいものだ。
代わりに返ってきた答えは、プエルトリコはアメリカ化のプロセスで、最後の植民地時代の名残を味わっているというものだった。
S「時代が変わってきてるんだ・・・。」
店員「物凄い勢いで。」
S「その変化をどう思う?歓迎してる?それともあまり?」
店員「半々かな。アメリカのお陰でいい教育が受けられる。僕らはアメリカにいる人たちと同等の奨学金がもらえるんだ。だけど、それと同時に人びとは混乱している。」
店員の名前はEdomarという。彼はこの後大学で船乗りの勉強をして世界中を回りたいのだそうだ。そしてその後は小さな島に自分の家と畑を持って自給自足に近い生活がしたいらしい。


私は内臓が観たい。
一体全体世界中のあらゆるところで何が起きているのか。


町行く人々は皆優しく、こちらがにこりと微笑むと、渋い笑顔で返してくれる。アジア人なんてほっとんどいないプエルトリコで、一人旅する私が、珍しかったのだろうか。
書ききれないね・・・。
明日はVieques Islandにての出来事。
【歴史】
プエルトリコのジレンマは1493年11月19日、かの有名なクリストファー・コロンバスがプエルトリコ北西の海岸にたどり着いたことから始まった。当時プエルトリコには5万人のTainos人(Arawak人)が住んでいた。Tainos人の残した岩彫刻は有名であり、今回は時間的に行くことはできないが、その彫刻はCuguana Indian Cermonial Parkで観ることができるらしい。その彫刻に付着した化石によりプエルトリコにはA.D.1世紀にはすでに彼らが住んでいたことが分かっている。1508年、スペイン人の探検家Juan Pnoce de LeonによってCaparra(現在のBayamon)に入植地が作られた。彼は原住民の民芸品を見て、この地が金に豊富なことを確信した。1521年、彼の死んだその年、科による被害によって入植者たちはCaparraを終われ、現在のSan Juanへの遷都を余儀なくされた。最初の数年は原住民と平和な共存生活を営んでいた。しかし、原住民らは入植者が持ってきた病気に感染し死滅の危機にさらされ、さらには、その後奴隷化されていった。キリスト教を強制され、そして、金発掘のための無償労働を課される。1540年までには金山は尽き果て、次の入植者の目標は豊かな農地となる。このころ原住民Tainos人は死滅し、その代用として300年以上に渡りスペイン覇権のもとポルトガル人の奴隷とレーダーを介して西アフリカから黒人奴隷の移入が始まった。
その後、植民地戦争。

Old San JuanにあるEl Castillo de San Felipe del Morroは初めての植民地襲撃時に完成されたものだ。16世紀後半、フランスとイギリスによる侵略。1625年、オランダ人のBoudewijn Hendrikszoonによる征服侵略により激化を極めた。しかし、オランダは1ヶ月も経たずうちに失敗に終わる。

1630年代に入るとPhilip IV王は7つの壁で要塞を作り都の防御を強化した。1765年までにはプエルトリコの人口は4万5千人までに達した。1797年イギリス本土で起きたフランス・スペイン戦争宣言に続き、9000人の兵隊がSan Juanを攻撃。

1809年、ナポレオンがスペインを攻撃してすぐ、民主政治のさきがけとして、プエルトリコから代表人1人をCadizに送らせた。1812年、立憲政体が成長を遂げ、プエルトリコの条件付市民権を保障した。しかしながら、それは自治権とスペインから独立勢力を強める結果になった。1868年独立革命"Grito de Lare"。1897年、スペインはその申し出を受け入れ、プエルトリコを自治領と宣言する。すぐさま二院制立憲政府が作られた。まだマドリードが島の統治者を指名していたが、彼の権威はかなり制限されていた。1898年春に新政府は商業を開始する。
しかし、プエルトリコの自治はそんなに長くは続かなかった。1898年7月25日、アメリカ人将校Nelson A Milesが16000人のアメリカ兵を連れて上陸。
"We have come to promote your prosperity, and to bestow upon you the immunities and blessing of the liberal insitutions of our government."
スペイン・アメリカ戦争は4ヶ月未満、プエルトリコ本土戦はわずか2週間でアメリカの勝利に終わる。戦争後、アメリカ兵はプエルトリコ、キューバ、フィリピン、グアム、その他数々の太平洋の島々に残留した。4年後、キューバ独立に続きフィリピン独立。しかしプエルトリコは独立の兆候が強くなかったため、アメリカの良き保有物になった。スペインの通過セペタはすぐさまアメリカのドルと代わり、郵便切手もつぐさまアメリカのものと置き換えられた。初代民主統治者Munoz Marinの先導のもと、1952年7月25日アメリカの自治州Commonwealthとなる。彼の政策の結果プエルトリコは砂糖、コーヒー、タバコに頼った農業中心経済から、世界レベルの製造業経済へと移行を遂げる。
そして、今、プエルトリコはTourismの時代を迎えている。