詩の雑誌等に出ている広告で、詩の添削をするとか、作り方を学ぶとか
そういった類のことが掲載されてあるのを目にすることがあります。
そもそも、詩は習えるものなのかな
習ってなんとかするものなのかな
わからぬ…( ̄~ ̄)なんともいえない…
降りてきたり湧いてきたりじわっとひらめいたり…といったような
まだ詩になるかどうか分からない詩のタマゴのようなものを
その場で忘れないうちに書き留めて
その段階で推敲しつつ自分でなんとかするもんじゃないのか?
人がどうこうできるものなのか?
なんてことをぼんやり考えますが。
一方、鑑賞という観点から考えてみると、例えば教科書に掲載されてある詩などは、
じっくりと分析しつつ学ぶことができて大いによかったと思っています。
詩との出会いの種はそういった場所にあったに違いありません。
ちょっと古風そうな格調のある詩などは詳しい解説があって始めて
「なんて詩情あふれる名詩なんだ!」とファンになったこともありますし、
ただ朗読を聞いただけで訳もなく圧倒されて泣けてしまう詩もありました。
まあ、そういった鑑賞の話はさておき、実際自分で作るとなった時にはどんなもんでしょう。
私が思うに、詩というものは「個人的な表現欲求の一種の噴出」みたいなものであり、
「どうしても書き留めてそのイメージをまとめてみたい欲求」にかられ、
「心の内部で個人的必要にせまられた」結果、書いてみたくなるものではないのでしょうか?
ですから、他人が「ここはこう噴出したほうが…」みたいに
介在できる余地なんぞあるのかなあと…?
もちろん、ここで言うそれは、編集者の方が「この文字はいらないのでは?」とか「ここのフレーズは別の言い方のほうがいいんじゃないか?」などといった事務レベル(?)の話のことではありません。
私には詩そのもの自体を習いたい気持ちがあんまりよくわからんのですよ。
ブルース・リーじゃありませんけど、考えるな、感じろ!じゃないんですかね( ̄~ ̄)?
私は学校の授業で詩を鑑賞するのは好きだったものの
課題で作らないといけないときは、からっきし作れませんでした。
その時の途方にくれる時の気持ちといったら、なんと表現していいやら分かりません。
そうそう!読書感想文で途方に暮れる気持ちと同じような感じですな(笑)
それをわざわざ習うんか?的な疑問が…
そういう苦行的な学校の詩の時間(?)で気が付いたことといえば、
詩なんて作ろうと思って作れるものではなさそうだ、というようなことが何となく分かった感じがしたことです。もちろん、詩を作るための何らかのノウハウもあるでしょうから、ある程度のレベルまでは作れるかもしれませんが。
「詩は別才」というのは100%とは言いきれませんけれど、かなり言いえていると思われます。囲碁将棋べつあたま、という世界でしょうか。
ただ、囲碁将棋は本当にべつあたま、ですけど、詩の場合は何らかのショック(?)で
別才スイッチが入ってしまうこともあるような気がします。
いやいや、そういった次元の話ではなくて、詩を習おうと志す人は、
「詩という表現方法が自分にあっているようだからもっと上手く使えるようになりたい」的な
文学的向上心のような気持ちをお持ちなのかもしれませんね。
例えば、俳句なら季語がいるよ、とか5・7・5だよ、とか
ルールを教えてもらって初めて作ることができるわけで。
でも、詩の場合、そういったルールはありませんし…ルールがないから
よけい詩っぽくするのが難しいということもあって需要(?)が発生するのかな?
教える側の気持ちを想像すると、
「詩を作りたい人の伝えたいイメージを予測してよりよい表現ができるお手伝いをします」的な発想をお持ちである、ということもあるやもしれませんね。
そうなってくると、個々人のカタルシスをお手伝いさせていただく精神的な人命救助(?)に近い側面もありますかも…
こうしていろんな面から考えていくと、詩を教わろうという人がいるのも
まるで分からんでもないという気もしてきますね。
他人の目が入ることで客観度もUPできるでしょうから、作品自体の精度をあげられる可能性だって出てくるでしょう。
そのようにして世の中に良い作品が生まれたら、文学や芸術の花がきれいに開くようなもので、とても素晴らしいことです。まあ、作品の出来不出来はさておいて、制作過程で気持ちが整理されて癒されるなんていう作用もあるかもしれません。
句会や歌会などが各地で開催されているように、詩に関して集まって活動している人たちは、そんな目に見えない精神作用にも大いに価値を見出しているのだろうな、とぼんやり考えました。
そしてまあ、こうして世間的にはかなりどうでもいいことをうっかり日が暮れるまで考えてしまうあたり(もう夜の10時過ぎではないか!)、私はどちらかといえば、詩というものの可能性とか素晴らしさを信じている部類の人間なのかもしれないな、と思ったことでした。
以上、私が詩に対して日頃思っていることの断片を
空想のコタツの中でちぎっては投げっぱなしたところです。
決して詩を教えている方への営業妨害的な意図はございませんので…
「詩をまなぶ」にオチなし…とまあだいたいそんな感じで╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !
今日も読んでくださりありがたう~♪(^o^)丿
❀「うずら」の広告コーナー(^-^)あと約50部アリマス ↓
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☆リアル書店では、大分市の晃星堂に置いています。
☆お近くの書店からもご注文いただけます♪
ISBNコード:978-4-9905268-8-7
定価1500円+税 空とぶキリン社
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習ってなんとかするものなのかな
わからぬ…( ̄~ ̄)なんともいえない…
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まだ詩になるかどうか分からない詩のタマゴのようなものを
その場で忘れないうちに書き留めて
その段階で推敲しつつ自分でなんとかするもんじゃないのか?
人がどうこうできるものなのか?
なんてことをぼんやり考えますが。
一方、鑑賞という観点から考えてみると、例えば教科書に掲載されてある詩などは、
じっくりと分析しつつ学ぶことができて大いによかったと思っています。
詩との出会いの種はそういった場所にあったに違いありません。
ちょっと古風そうな格調のある詩などは詳しい解説があって始めて
「なんて詩情あふれる名詩なんだ!」とファンになったこともありますし、
ただ朗読を聞いただけで訳もなく圧倒されて泣けてしまう詩もありました。
まあ、そういった鑑賞の話はさておき、実際自分で作るとなった時にはどんなもんでしょう。
私が思うに、詩というものは「個人的な表現欲求の一種の噴出」みたいなものであり、
「どうしても書き留めてそのイメージをまとめてみたい欲求」にかられ、
「心の内部で個人的必要にせまられた」結果、書いてみたくなるものではないのでしょうか?
ですから、他人が「ここはこう噴出したほうが…」みたいに
介在できる余地なんぞあるのかなあと…?
もちろん、ここで言うそれは、編集者の方が「この文字はいらないのでは?」とか「ここのフレーズは別の言い方のほうがいいんじゃないか?」などといった事務レベル(?)の話のことではありません。
私には詩そのもの自体を習いたい気持ちがあんまりよくわからんのですよ。
ブルース・リーじゃありませんけど、考えるな、感じろ!じゃないんですかね( ̄~ ̄)?
私は学校の授業で詩を鑑賞するのは好きだったものの
課題で作らないといけないときは、からっきし作れませんでした。
その時の途方にくれる時の気持ちといったら、なんと表現していいやら分かりません。
そうそう!読書感想文で途方に暮れる気持ちと同じような感じですな(笑)
それをわざわざ習うんか?的な疑問が…
そういう苦行的な学校の詩の時間(?)で気が付いたことといえば、
詩なんて作ろうと思って作れるものではなさそうだ、というようなことが何となく分かった感じがしたことです。もちろん、詩を作るための何らかのノウハウもあるでしょうから、ある程度のレベルまでは作れるかもしれませんが。
「詩は別才」というのは100%とは言いきれませんけれど、かなり言いえていると思われます。囲碁将棋べつあたま、という世界でしょうか。
ただ、囲碁将棋は本当にべつあたま、ですけど、詩の場合は何らかのショック(?)で
別才スイッチが入ってしまうこともあるような気がします。
いやいや、そういった次元の話ではなくて、詩を習おうと志す人は、
「詩という表現方法が自分にあっているようだからもっと上手く使えるようになりたい」的な
文学的向上心のような気持ちをお持ちなのかもしれませんね。
例えば、俳句なら季語がいるよ、とか5・7・5だよ、とか
ルールを教えてもらって初めて作ることができるわけで。
でも、詩の場合、そういったルールはありませんし…ルールがないから
よけい詩っぽくするのが難しいということもあって需要(?)が発生するのかな?
教える側の気持ちを想像すると、
「詩を作りたい人の伝えたいイメージを予測してよりよい表現ができるお手伝いをします」的な発想をお持ちである、ということもあるやもしれませんね。
そうなってくると、個々人のカタルシスをお手伝いさせていただく精神的な人命救助(?)に近い側面もありますかも…
こうしていろんな面から考えていくと、詩を教わろうという人がいるのも
まるで分からんでもないという気もしてきますね。
他人の目が入ることで客観度もUPできるでしょうから、作品自体の精度をあげられる可能性だって出てくるでしょう。
そのようにして世の中に良い作品が生まれたら、文学や芸術の花がきれいに開くようなもので、とても素晴らしいことです。まあ、作品の出来不出来はさておいて、制作過程で気持ちが整理されて癒されるなんていう作用もあるかもしれません。
句会や歌会などが各地で開催されているように、詩に関して集まって活動している人たちは、そんな目に見えない精神作用にも大いに価値を見出しているのだろうな、とぼんやり考えました。
そしてまあ、こうして世間的にはかなりどうでもいいことをうっかり日が暮れるまで考えてしまうあたり(もう夜の10時過ぎではないか!)、私はどちらかといえば、詩というものの可能性とか素晴らしさを信じている部類の人間なのかもしれないな、と思ったことでした。
以上、私が詩に対して日頃思っていることの断片を
空想のコタツの中でちぎっては投げっぱなしたところです。
決して詩を教えている方への営業妨害的な意図はございませんので…
「詩をまなぶ」にオチなし…とまあだいたいそんな感じで╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !
今日も読んでくださりありがたう~♪(^o^)丿
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