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雲のベッドで寝てみたい

時間だけは売るほどある閑な自由業者が、ちょこっと自分の作品や日々のつれづれなんかを書いています。

イヤ~疲れました

2008-08-16 22:44:34 | Weblog


昨日と今日、一泊で岡山県の親戚巡りをして来ました。

その間にコメント送ってくださった方、ありがとうございました。

ウチはもともと岡山県の産で、一族ほとんどが岡山県に住んでいます。

自分の根っこを他県に下ろした一族の中のハネッ返りは、兵庫県に住んでる私と、大阪に住んでる我が愛すべき天敵!一つ違いの従兄弟だけなんです。

コイツとはハネッ返り同士のライバル意識というやつで、小学生の時以来今日に至るまで何かにつけて張り合っていますが。(笑)

兵庫県と岡山県は隣同士ですから高速に乗れば、自分チのドアからほとんどの親戚んチのドアまで2時間前後で行けるんですが、

法事でもなければなかなか行くこともありませんでね。

で、今回久しぶりに叔母を訪ねてみようかと、初めはドライブがてらの日帰りのつもりでヨメサンと二人で行ったんですが、

結局、知らせを受けて叔母の家に集って来た従兄弟達に帰らせてもらえませんでした。(笑)

お互い、色のついた服を着て会うことなんてほとんどありませんものね。

「やっぱり身内はいい」…しみじみと思いましたね。

何がどうとか言葉にするようなことは何もないんですが、暖かいんですね。

でも一つ誤算が…

従兄弟達でも私より少し年長の人達は、もうお孫さんがいるんですね。

前に会った時はまだチョコチョコとお母ちゃんに付いて廻ってたのが、今や保育園・幼稚園から小学2年生までのそうそうたるラインナップ!

そう、全員が二本足の爆竹と化していたのです!

当然、そうなってるのは当たり前のことなんですが、コロッと忘れていたんですね。

こちらに興味深々なのが見え見えなのに、一応警戒してネコかぶってたのは最初の一時間弱だけでした。

そのうち、チビドモの中の勇敢な一人が「我に続け!」と打って出て、突破口を開いたと見るや主力部隊の波状攻撃!

こういうのって、ウチの子が小さい時以来ですから、二十年ぐらいのブランクがある。

時の重みってヤツを実感した瞬間でした。ハハ

イヤ~しかしくたびれた。

家紋の話 番外編

2008-08-13 09:19:37 | Weblog


今回は家紋の話とは全然関係のない話になってしまうんですが、「家紋の話 2」のところでお公家さんの収入源について少し触れたので、その番外編を書いてみます。

前回は戦国時代あたりの事情に触れたのですが、今回はずっと時代が下って江戸時代、それも18世紀の末頃の話ですが。

江戸時代と言えばもちろん武士社会、でも、その武士というのは主家を持つ人々、もっと言えば幕府や諸藩に所属する、現代で言えば公務員にあたると言える人々の事で、何らかの事情で主家を失った武士は次にどこかに仕官しない限り、もう武士としては生活して行けません。

で、仕官できない人達は何かの職業に就かなければ、食べて行けない。

その転職先でわりと多かったのが、意外なようですが占い師だったようです。

というのは、スタイルからして当時の占い師の多くは今と違って、深編笠に小脇差という浪人の格好そのままでしたし、元々江戸時代の武士達は子供の頃から四書五経を学びます。

その四書五経の中には占い術の基本である「易経」も学問として含まれているんです。

つまり、占いの基本的な事を武士は普通に教養として学んでいるんですね。

そういう理由で、武士から占い師というのは意外な取り合わせのように見えても、実はわりと行き易いコースだったであろうと想像できます。

で、ここにお公家さんがどう関わってくるかというと、

占い、祈祷、暦に関する事柄を扱う人々を、当時はひっくるめて「陰明師」と呼んでいました。

そう、あの「安倍清明」の「陰明師」です。

この安倍清明の末裔で、代々陰明道をもって朝廷に仕えてきたのが「土御門(つちみかど)家」というお公家さんなんです。

いわば、陰明道の総本家というか家元ですね。

もともとこの土御門家は、朝廷からも幕府からも全国の陰明師の家元である事は認められていたのですが、

別に朝廷や幕府から特別な通達が出ていたわけでもないので、近畿、尾張、江戸あたりの地域ぐらいしか認知度は低く、他の地域ではわりと無関係に陰明師達は活動していました。

と言う事は、他の地域からの家元に対する上納金も入らないわけで、土御門家から見れば「オノレ!モグリの陰明師ドモ!」といったところですね。

これでは困るので、全国の陰明師達は家元である土御門家の傘下に入るよう通達を出してもらおうと、幕府に対して長い間かけ合って来ました。

幕府は同じような活動を行っている寺社に対する遠慮もあって、なかなか首を縦に振らなかったのですが、

「天明の打ちこわし」などの事件を契機に、陰明師達のように士農工商の身分制の埒外にある、いわば浮遊層とも言える存在の再組織化と統制強化の必要に迫られました。

そしてついに寛政3年(1791)に全国の陰明師達は土御門家に入門しなければ活動できない旨の通達が全国に向けて発せられました。

この幕府の通達によって、土御門家は名実ともに家元として陰明師界に君臨する事ができ、また同時にシッカリ収入の道も確保されたんです♪

なお、この時と時期を同じくして、山伏、願人坊主、虚無僧といった下級宗教者、また、多くの大道芸人にあたる人々も幕府公認の本山や家元によって再組織化され、統制を強化されています。

掲載した家紋は「飛蝶桜」
なお、掲載した家紋と記事本文とは何の関係もありません。

暑いですね…やっぱ夏はこうでなくっちゃね。

2008-08-09 18:27:01 | Weblog
エアコンの風が大っ嫌いなので、仕事場の窓も出入り口も全開でやってます。

扇風機こそ我が友…

あ~、一応仕事場にエアコンはあるんですよ、湿気の多いときは必要ですからね。

普段は(今日も)辛抱強く一人寂しくタバコ色に染まって壁にくっ付いています。

幸いウチは山のテッペン近くに建ってるので、結構風の通りは良くて助かってるんです。

そのかわり、冬は寒風が吹き上げて来ますけどね。

どうも家で一人で仕事をしてると毎日が日曜日になってしまって、完全に曜日の感覚が飛んでしまいます。

…別に優雅に暮らしてるって意味じゃなくって、単純に仕事が少ないというだけなんですが…ハハ

それが、ここんところ「なんでこんなに急ぎで注文が入って来るんだろう?」って不思議に思ってたら、なんのことはない、お盆の前の週の週末でしたね。

電話で話してた取引先の担当さんに

「とうとう仙人さんになっちゃいましたね、下界はお盆前の追い込みで目の色変わってますよ~ そんなに浮世離れしちゃったらダメですよ~」

なんて言われてしまいました…ハハ

5~6年前までは私も下界で目の色変えてたんですがね

…もうヤキが廻ったかな?

閑話休題

今回はよく似てる家紋を紹介します。


丸に違鷹


中輪足付違鷹


中輪足付細違鷹

よく似てるでしょ?普通は3種類とも「丸に違い鷹の羽」って呼んでしまうんで、わりと間違えやすいんです。

鷹=鷹羽の家紋は、私の持っている資料だけで50種類ありますから、これからおいおいに描き揃えて行こうと思ってます。

おっと、その前にちゃんと仕事を片付けなきゃ、お盆過ぎたら仙人の日干しになってしまう…

家紋の話 4

2008-08-07 16:49:09 | Weblog


家紋を描いてると「著作権は大丈夫なの?」っていう質問をよく受けます。

たしかに「家紋」という決まった形のものを紋帳から描き起こしているのですから、コピーや完全なトレースではないにしても、私の100%オリジナルな作品とは決して言えませんものね。

著作権法違反を心配されるのも無理はないと思います。

で、これは、結論から先に言いますと

「通常、紋帳に掲載されている家紋そのものに著作権はありません」

そりゃそうですよね、家紋一つ一つに著作権があれば、冠婚葬祭のたんびにモメなきゃなんない。

ただし、家紋師さん(今は家紋デザイナーと呼びますが)がオリジナルで制作された家紋は、当然、制作者に著作権があります。

また、「紋帳に掲載されている家紋そのものに著作権はありません」が、これも当然の事ながら、「紋帳そのもの」には著作権があります。

ややこしいようですが、例えば、私が紋帳に掲載されている家紋を元にして、どれかの家紋を描き起こせば、この描き起こした家紋は私の作品となるので、紋帳に対しての著作権の問題は発生しません。

どういうことかというと、紋帳をトレースなんかしてもほとんどの絵柄はイビツすぎて全く使い物にならないので、描き手の方が紋帳の絵柄を解釈して描き起こさなければならないからです。

しかし、紋帳のページをスキャンして取り込み、その画像そのものをHPやブログで発表、またはプリントして配布したりすれば、これは明らかに紋帳の執筆者および版権を所有している出版社等の権利者に対する権利の侵害で、犯罪行為となります。

また、紋帳に掲載されている個々の家紋そのものに著作権はなくても、その家紋に対する説明文および紋帳のレイアウトデザインには厳然とした著作権があります。

蛇足ながら、誤解されては困るのでくれぐれも念を押しておきますが、

上記はあくまで紋帳とその紋帳に掲載されているビジュアルデザインとしての家紋に限っての説明であって、他の刊行物に対しては必ずしも…というかほとんど…あてはまるものではありませんので、注意してください。

いくら自分で描いたと言っても、他人の撮った写真や描いたイラストなんかをトレースしたりしたら、これは常識的に考えても著作権法違反ですもんね。

著作権法という名前は、我々自由業者には結構馴染みがあるのですが、実際の著作権法の条文や概念、またその法律の適用範囲というものはかなり難解で、残念ながら私も含めて私の周りの人でこの法律を完全に理解している人は一人もいないのが実情です。

よく私も、「著作権」を「所有権」や「特許権」と混同したり、「引用」や「転載」、「参考」というのがどこまで許されるものなのか…なんて悩んだりしています。

そのうち地雷を踏むかもしれませんね…ハハ。

著作権の有効期間

絵画・イラスト等の場合、作者没後 日本=50年、欧米=70年 

日本も欧米並の70年にするかは現在政府で検討中です。

掲載した家紋は「紀州六葵」
なお、掲載した家紋と記事本文とは何の関係もありません。

家紋の話 3

2008-08-03 22:05:12 | Weblog
前回「家紋の話 2」では家紋は売買されていたと書きましたが、贈答の対象としても家紋はよく使われています。

これは、広い範囲で古くからあった習慣なんですが、特に江戸時代になってから武士達の間で結構盛んに行われていたフシがあります。

…この事については、時代ごとの統計的な資料というものを私は寡聞にして見た事が無いので、単純に江戸時代の資料がより多く残っていて目につくため、そうイメージしているだけかも知れませんが…

主に侍同士の上下関係の中で、上の者から下の者に自分の家の家紋をプレゼントしていたようですね。

ところが面白い事に、家紋を与えた方が、じゃあ家紋を人にあげてしまったのだからその家紋を自分の家では使わなくなるのか…というと全然そんな事はなくって、前と変わらず普通に使っていますし、

家紋を貰った方も、その家紋を自分の家の家紋として、それまで使っていた家紋と置き換えるのかというと、これも全然そんな事はなく、自家に持っている家紋の内の一つとしてしか扱っていないんですよね。

これってどんな意味なのかって言うと、話が少し家紋の話からそれてしまいますが、

これ実は、男色とおおいに関係があるんです。

不謹慎と怒られるかもしれないんですが、文化、習慣、道徳などというものは時代によって大きく変わって行くものなので、現代の道徳感で歴史を見ないでくださいね。

江戸時代初期ぐらいまでは、現代の感覚とはまったく違い、侍の主従のホモセクシャルな関係というのはごくありふれた事でした。

有名な例が織田信長と森蘭丸ですね。

そして主従がこの関係を結ぶと、お互いに身分を超えた強い絆で結びつき、特に家来の方は死ぬも生きるも主のために、ということに往々にしてなってしまったようです。

裏切り、暗殺、謀殺など日常茶飯事だった戦国の世で、ギリギリ最後の所で心の拠り所とできたのはこういった絆だったのだろう、という事は想像できます。

…なんか切ないですね…

しかし、戦国の世が終息を迎え平和な時代になった時、求められるのは組織の一員としての分に応じた振る舞いであり、死ぬも生きるもといった戦士としての侍同士の強い絆ではありません。

逆に、こういう特別に強い絆は江戸幕府や諸藩から見れば、統治上非常に危険な徒党行為の潜在的因子と映る訳で、そのために幕府や諸藩は侍同士の男色関係を禁止しました。

…誤解の無いように付け加えますが、幕府や諸藩が禁止したのは「侍同士の男色関係」であって、男色そのものを禁止したのではありません…

また、ヒゲを男の証、武勇の証として歓迎する風潮も嫌い、さすがに幕府や諸藩もこれは禁止こそしませんでしたが、17世紀の末頃までに徐々に無髭の風俗が一般化して行ったようです。

この侍同士の男色関係の禁止と無髭の風俗の一般化と期を一にして、戦国の荒々しい気風も消えて行ったのは偶然の一致ではないでしょう。

そのような体制のなかで、侍同士がお互いの絆を確かめ合う手段として、家紋のやり取りが行われていたようです。


家紋の話 2

2008-07-31 12:18:20 | Weblog
けっこう家紋って昔は売買されていたんですよね、

これは何か物理的な物に付けてという意味じゃなくて、家紋そのものという意味ですが。

武家が支配階級になると、前の支配階級であったお公家さん達は当然生活は困窮してゆきます。

公家が持っていた広大な領地はなくなり、僅かに武家から認められた知行地のあがりだけでは台所は火の車で慢性的な金欠状態。

もっとも、他の国の例のように前の支配階級は皆殺し、なんて事にはならなかったのは幸いでしたが …

それに近いのは鎌倉幕府設立時の平家狩りがありますが、これとてターゲットは平家一族とその追従者であり、原則として平家一族以外の貴族は対象とはなっていません。

それでも、室町時代あたりまでは、何かと武士階級の方も貴族階級に対して保護や援助を与えていたのですが、戦国時代なんてなると、もういけません。

ともあれ、何としても公家は収入の道を得ねばどうにもならない。

なりふり構わず色んな事をやっていますね、必死だったのはよく分ります。

もちろん収入の道の中心となったのが、都の高度に洗練された文化と貴族階級としての由緒正しい血筋だったのはごく自然の事ですし、

極論すれば、公家が継続した収入を得る手段として持っているのは事実上それのみなのですから。

その売り物(?)の中で結構需要があったのが、家紋なんですね。



幸い…と、言えるかどうか…

戦国時代に勢力を伸ばした侍達は,、代々の領主はいざ知らず、

その家来として頭角を表した侍の中には、野盗・山賊と五十歩百歩、どころか、モロに山賊集団の頭目なんて連中もゴロゴロいました。

読み書きできればそれだけで立派!っていうような、やたらめったら腕ッぷしが強いだけのゴロツキ同然の荒っぽい連中に、氏・素性なんて聞くも愚かで。

でも、その連中が家中でそれなりのポジションに上がって行くに従って、氏・素性が必要になって来るんですね。

で、お公家さんに話を持ちかけて、…清和源氏の流れを汲む…とかなんとか家系図と家紋をデッち上げてもらい、商談成立。

そんなもの、どうせいい加減なシロモノなんだから、自分達で適当に作れそうなものですが、古今東西ブランド志向は人の性?

後、やはり立場上、格好だけでもそれなりの教養っぽいものも必要になってくるので、これもお公家さんの出番…

もっともこっちの方は、お寺と公家で結構はりあっていたようですが。



掲載した家紋は、上:五つ重ね末広 下:飛龍兜
なお、掲載した家紋と記事本文とは何の関係もありません。



隣の芝は青い…ンかな?

2008-07-28 19:39:40 | Weblog
このあいだ、長いこと無沙汰をしていた同級生から電話があり、「酒」と言いたいところだが、残念ながらどちらも車で来ていたのでお茶で盛り上がった。

彼は、苦労して会社を興し、無我夢中で働いて、この地方のその業界ではかなり名前が知れ渡るまで大きくした、ある意味立志伝中の人物であり、同級生とは言え、自分のように日々グータラに生きている人間とは人間のデキが違うと、常々少し(イヤ、かなり)引け目を感じている部分があったのだが。

ひとしきり昔の思い出や、馬鹿っ話をして大笑いした後で、その彼がしげしげと私を見て、妙にしんみりと「お前の噂は同級生仲間から聞いてるよ、俺もお前のように生きていけたらいいのにな」と言ったのには驚いた。

最初は彼が何を言ってるのかわからず 

「???何の話をしとる???」

よくよく話を聞いてみると、何のことは無い、彼は大変な誤解をしているようで、私が自分の作品を世に問うて悠々自適に暮らしていると思い込んでいた!

以下、彼との会話

「そんな暮らしができるんなら、そりゃいいわい!俺にそんな才能がある訳ないだろ!」

「でも、お前、いつものんびりゆったり生きてるじゃないか?」

「そりゃ、仕事が来んから退屈でブラブラしてるだけじゃ!」

「でも、お前、自分の作品をいっぱい発表してるって聞いたぞ」

「発表??…お前の言ってるのは俺がやってるカッティングステッカーのサイトの事じゃないのか?…確かにあそこに出してるカットデータは全部俺が描いたものだけど、作品の発表なんてレベルのもんじゃないぞ」

「官公庁の仕事も役所のほうから頼みに来るって聞いたぞ」

「年間契約してるから役所が廻してくれているだけじゃ。頼みに来られるほどエラい訳がなかろうが、大体、手直し依頼の原稿が廻ってきた後の俺の仕事場での独り言は、ヨメサンをして{さすが元アドマン、悪口雑言のポキャブラリーだけは大したもんだわ}って言われるほどなんだから」

説明しているうちにだんだんと自分で自分が情けなくなって来た。

こんな与太話を彼に吹き込んだのはどこのどいつじゃ!

また信じ込む方もどうかしてるが。

で、ひとしきり私が否定し終わると、彼はこう私に宣告した。

「でも俺はやっぱりお前の生き方がうらやましい!お前みたいに肩の力抜いて生きていきたい!」

イヤ、肩の力も何も入れようがないほどシオタレてるだけで……って、も~エーわい!

私などから見れば、手広く事業をやって充実した人生を歩んでいる彼をしても、他人の生活は良く見えるもんなんだな…。

しかし、こんな与太話にアッサリ引っかかるような事で、アイツよくあれだけ会社を大きくできたもんだな、

ソッチのほうがよっぽどうらやましいわ。



「鳥獣戯画抜粋」ってゆ~か、勝手に写真を下敷きにして描いちゃいました(ハハ)そのうち色つけよっと。

家紋の話 1

2008-07-25 19:48:03 | Weblog
「家紋の話」って偉そうに言える程知ってる訳でもないんですが、自分で家紋を描いてるから興味を持って調べてみたんですけど、調べれば調べるほど過去と現代の家紋に対する考え方というか感覚のギャップに驚くんですよね。



こと家紋に関しては、昔の人々の感覚のほうがはるかに自由なんですよ。

現代ではほとんどの人が(少なくとも私の周りの人達は)家紋を「カ・モ・ン」ってひどく大袈裟に構えて見てるんですよね。

曰く、「家紋というのは一家に一つだけの大切なもの」、曰く、「家紋というのはみだりにただの飾りとして使ってはいけない」、曰く、「家紋と言うのは一色のもの、彩色などするのは家紋の価値をわざわざ下げるに等しい行為」etc…。

いつからそんなにガチガチになっっちゃんたんだろう?

もちろん、一家や一族の印としての家紋にはそれなりの敬意を払うのは当然の事なんですが、ガチガチに考えるのも如何なもんかな?

昔は(少なくとも江戸時代中期以降は)チョッとした家なら家紋なんて一軒の家で二つも三つも持ってるなんて当り前の事で、

旦那衆なんて競って自分の持ち物にTPOに合わせた家紋を着けてたもんですし(いわゆる「伊達紋」「洒落紋」等)、

彩色家紋なんて当り前、うそだと思うなら、図書館で浮世絵や錦絵なんかを集めている本をご覧なさい、けっこう着物なんかに着けている家紋なんかカラフルに彩色されていたりしていますよ。

それに、これはどうも関西特有のものらしいですが、「女紋」といって、その家の女系に代々伝えられる女系専用の家紋があります。

昔の関西の商家は多くは入り婿制だったのと関係があるようですが、他の土地へ嫁いだ方が「女紋」という関西の習慣を知らない嫁ぎ先で、トラブルになったなんて話もあります。

ちなみに江戸時代後期に書かれた日記の中に「家紋を一つしか持っていないような家が旧家などとホザくのは笑止千万」なんて暴言こいてる文章もあるぐらいで…。




だいたい、家紋の本なんかにはたいてい「家紋は平安時代頃に貴族階級が自分の勢力を誇示するために牛車等に付けたのが始まりで、その後武士階級が使いだし……」

って説明がありますが、それは確かにその通りで、武士階級も戦場においての敵味方の識別のためにも絶対に必要なものだったんですけど、

実際に家紋が爆発的に全国に広まって一般の庶民が普通に持つようになったのは江戸時代になってからのことなんですよね。

江戸幕府が「誰でも家紋を持ってもOK」って家紋を解禁したこともあったんだけど
(もちろん戦国時代が終わって、地侍や浪人、傭兵連中が大量に失業して、しょうがないから帰農して武士階級から離れたという事情もあって)

だいたいお上から強制されたのならいざ知らず、全然そうじゃなくって庶民が自分から様々な図案をデザインして、自分の家紋として自由に、

旦那衆はもとより、長家の八っぁん熊さんにいたるまでこぞって日本人が持ってた家紋というものが、そんなにガチガチで固っくるしいものである訳がないですよね。



掲載した画像は上から「上羽の蝶(揚羽の蝶ではありません、蝶が羽を上げて休んでいる様を表す上羽です)」、「真向蝶」、「真向蝶の丸」をそれぞれ彩色して描いてみました。

和のデザインっていいですね~

2008-07-13 03:52:15 | Weblog

ここ数年「家紋」に凝っちゃって、友達からもらった紋帖を見本にして色々描いてます。



今まで和風のデザインはほとんどタッチしていなかったんですが、描き出したらその奥の深さにのめりこんじゃって、いつの間にか描いた「家紋」が1000点を超えてしまいました。



その延長で和のデザインに興味を持ち、周りを見廻して見ると案外何気ない所にハッとするようなものがあるもんですね。

初めからずっとそこにあるのに見えていなかったんですね。

「人間は自分の見たいものしか見えない」って本当だとつくづく思いました。

なんてもったいないことをしてきたんだろうってひどく損した気分になっています。



ちなみに、ここにアップした家紋は上から「佐伯鶴丸」、「諸向巴」、「抱き山吹」です。