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雲のベッドで寝てみたい

時間だけは売るほどある閑な自由業者が、ちょこっと自分の作品や日々のつれづれなんかを書いています。

歴史の中の??? 何をもって鎖国という? 6

2008-09-26 19:48:28 | Weblog
前回、須佐港の悲劇のことを書きましたが、こんなことが普通にあったわけでは決してなく、総じて日本側の漂着民に対する対応は誠実なものでした。

漂着民を気の毒な受難者として丁寧に扱い、もちろん病人やけが人がいればきちんと治療し、漂着民の問題を管轄する長崎奉行所と連絡を取り合って朝鮮人以外は長崎港より帰還させていたんです。

唯一正式に国交のあった朝鮮人については、対馬藩を通じて朝鮮に帰国させています。

そんな中でこの事件が起こったわけで、だから一大不祥事として記録に残っているわけですね。

それにしても、中国や朝鮮の船の海岸への漂着は初めての経験ではない筈の萩藩が、なぜこの中国船に対してだけ、問答無用!というような激烈な反応をしたのか?

これはうがった見方ですが、ひょっとすると、記録には残っていない萩藩を激怒させるような何らかの事件がこの直前にあり、たまたま漂着したこの中国船が巻き込まれてしまった…それともこの中国船自身がその何らかの事件の当事者だった…のかも知れませんね。

この件について、幕府から萩藩に対して責を問うということはなかったんですが、幕府自身不快感を持ったのはたしかなようで、

この事件の後、漂着民に対する処遇に関する通達を (ずっと前から出ていたのですが) より厳しく諸藩に徹底しています。

またこの事件のもう一つの側面は萩藩の出動の速さで、八日に侵入して来た船をもう翌九日には攻撃しています。

数人の役人が小舟に乗って近づくのならいざ知らず (本当はそうするべきでしたが)、動員を掛けて鉄砲や大砲を揃え、戦闘体制を整えて出動するのは意外に時間がかかるものです。

こういうことから見ても、130年も前に設定された西日本の海岸線全域の臨戦体制がちゃんと生きていたことが窺えます。

また、幕府も諸藩も、百数十年もの永きにわたり臨戦体制の下で代を重ねれば 「何故、その体制ができたのか」 という部分は忘れ去られ、体制そのものが 「国是」 と化してしまっていたのでしょう。

まさに本末転倒ですね。

これを外から見れば、なるほど、武力を持って自ら国を閉ざしてしまっている 「鎖国」 と映っても仕方がないことかも知れませんが、本当は決してそういうつもりではなかったんじゃないかな?って思うんですよ。

つまり 「有事立法」 がそのまま定着してしまった?

「江戸幕府と西日本の防衛体制」 に関する視点からみた 「鎖国」 に対する疑問の項は、一応これで終わります。

次回からは、別の視点で見た 「鎖国」 に対する疑問を書いて行こうと思っています。






歴史の中の??? 何をもって鎖国という? 5

2008-09-22 12:37:46 | Weblog
「何をもって鎖国という? 2」の時に 「対ポルトガル防衛システムの構築」 って書きましたが、この後に幕府が発布した 「唐船打払い令」 の時にもこのシステムは非常に有効に機能したんですね。

この 「唐船打払い令」 ってのは別に中国とやり合おうなんてことではないんです。

当時諸藩は中国船と交易することは一応許されていたんですが、18世紀初頭に新井白石の 「正徳新例」 で貿易額の総額に大幅な制限を設けられ、また 「信牌(しんぱい)」 と呼ばれる許可状を与えられた中国船とだけしか交易することが許されなくなりました。

つまり、幕府は遠回しに 「するな」 と言ってたんでしょうね。

諸藩の方も敏感に幕府が言わんとしている意を汲んで、そんなことで幕府に睨まれたりしたら馬鹿らしいので、自然と中国船との交易は遠のいたのですが、おさまらないのは閉め出された中国船の方で…

長崎の港に入って面倒な手続を強要されて、挙げ句に税でゴッソリ取られるくらいなら、多少値引きしてもヤミで売っちゃえってことになり、一時は西日本沿岸で密貿易が多発しました。

また商人変じて海賊となることも多く (これはおたがいさまで中国に対する日本の商人も同様だったんですが) 西日本の沿岸の漁村や小さな港町などが海賊の襲撃にあうことも度々あったようです。

これに業を煮やした幕府が発布したのが 「唐船打払い令」 だったんです。

「打払い令」 という名前の付いてる通達は江戸時代を通じて幾つもでていますが、内容は共通していて 「打払い」 は文字通り追っぱらえということなんですが、それはまだ相手が港湾の外にいる場合のことで、湾内に入っていれば 「かまわないからブッ殺せ」 ということなんです。

そしてこの 「唐船打払い令」 の攻撃的な対応による悲劇が1762年に萩藩でおこりました。

享保十一年(1762)八月八日、目測二十尋二千石船といいいますから相当大型の中国船ですが、この船が萩藩の港 (須佐港) に漂着しました。

萩藩の役人がこの船を追い払おうと九日に一度攻撃し、出て行かないので翌十日にも攻撃し、それでも出て行かないというので、翌十一日に本格的に攻撃し、ついに乗員もろとも撃沈してしまったんです。 (もちろん生存者はなし)

この事件の直後に、海岸線を共有する隣国の浜田藩がその時の様子を聴きに行った時の記録が残っていますが、その時の萩藩とのやり取りを見ますと、

この中国船は出て行かなかったのではなく、航行不能の状態で漂着し、出て行けなかったのは明白ですし、

(ナント!) 当の聴取を受けた萩藩の役人自身が

「すぐ出て行かなかったのは、察するところ船具などを損傷して出帆出来なかったのであろう」

なんて答えています。…初めから判ってて攻撃した?

また、萩藩の役人がこの船に事情を聞こうとした形跡も全くありません。

それどころか、一報があるとすぐに萩城下から直接鉄砲や大砲を揃えて海上へ出て、そのまま攻撃を仕掛けていますから、これはもう初めから軍事行動そのものですよね。

つまり問答無用で、ほとんど抵抗できない相手に一方的に攻撃を仕掛けて撃沈してしまったのは明らかなんです。

… 中国船は軍船ではなかったんですから、鉄砲や大砲を揃えた萩藩の軍に実質的な抵抗なんてしようがないですものね…

以下 次回

歴史の中の??? 何をもって鎖国という? 4

2008-09-18 09:32:13 | Weblog
「鎖国下の日本で唯一国交のあったオランダ…」なんて書かれている本をよく見かけますが(教科書もこんな書き方をしていたかな?)

本当は日本が正式に国交を結んでいたのは、江戸時代末期までは朝鮮だけで、オランダとも清国とも正式に国交を結んではいなかったんです。

これはほとんど知られていないようですが、江戸時代を通じて朝鮮の釜山には対馬藩の管理する和(倭)館という居留地があり、数百人の日本人が居住して正式に貿易を行っていたんですよ。

またこれも余談ですが、オランダが日本に接近したのは元々は貿易のためではありませんでした。

東アジアにおいてポルトガル船襲撃を行うオランダ軍部隊の兵站補給のための前進基地が欲しかったからなんです。

軍といったって、当事は海軍も海賊も実態は五十歩百歩でしたから、明確な区別なんてできはしませんが…

襲われた方は、海の真ん中で金目のものは全部奪われて乗組員は船ごと沈められてしまいますから、誰がやったかなんて判りゃしませんしね。

ところが、平戸にあったオランダ商館の館員が、交易品の支払いを良質の銀で支払う日本との貿易に着目し、リスクの大きい海賊行為より日本との平和的な交易の方がはるかに安全で大きな利益を生むということに気付き、方針を大きく変えたんです。

また、前回は日本とポルトガルが戦争状態になった経緯を書きましたが、この後自動的にオランダが日本との交易を独占したわけでもありません。

実は幕府はポルトガルと揉めた後、キリスト教の流入を嫌って一時廃止していた朱印船を復活させて、海外交易を維持しようとしていますし、ポルトガルの代りとしてして当時売出し中の新興国家であったオランダとイギリスの両国に話を持ち掛けています。
(イギリスにはインドから日本に行くのは採算が合わないという理由で断られましたが)

この一事をもってしても、幕府が自ら国を閉ざしてしまおうなんてつもりはさらさらなかったと思うんですが…

朱印船の派遣についてはオランダから見れば、大きな利益を見込める貿易相手国を逃がしてしまいかねないし、またライバルの出現を意味することになるわけで、これをとりやめるように懸命に幕府を説得しています。

以下、ナニワのあきんど風に

「朱印船を派遣しても、中国人は倭冦や秀吉はんの朝鮮出兵の件で日本人にソート-恨みを持ってまっさかい、まともに相手なんかしてくれまへんで~

それどころか、ヘタしたら恨みハラしたるっちゅうて襲われまっせ。

台湾から南やったら、ポルトガルやイスパニアの連中が血の雨降らしたルっちゅうて待ち構えていまっさかい、シャムやベトナムやジャワの方へは行けまへんで~

わざわざモメに行かんでもよろしやないでっか。

悪いことは言いまへん、ワタシらにまかせてもろうたら、間違いない品もんをお安うにご用意させてもらいます」

とかなんとか言ったのかどうか…

まさか幕府もオランダの口車に乗せられたわけでもないでしょうけど、情勢の判断はもっともなことですし、結局自前の朱印船による交易は断念しています。

それに朱印船というのは、幕府より正式に海外交易を許可された船であり、万一この船が中国人やポルトガル人に攻撃されるといった事態になると、幕府が発行した朱印状に何の権威もないということになり、国内的にも幕府の面目は丸ツブレになってしまいます。

これは設立されてからまだ日も浅く、しっかりとした基礎が固まっていなかった当時の江戸幕府にとっては、ヘタをすれば命取りになりかねないことで…

つまり、日本の船を海外交易に出さなかったのは「国を閉ざしてるから出てはいけない」ということではなく、「危ないから出るな」ということだったんではないでしょうか?

以下 次回

歴史の中の??? 何をもって鎖国という? 3

2008-09-14 13:32:49 | Weblog
実はこの当時の日本とポルトガルは戦争状態にあった…と前回は書きました。

実際に両国の艦隊や地上軍が戦火を交えるという事態にはならなかったのですが、1639~1640年頃以降の両国の関系はまさに戦争状態だったんです。

なぜそうなったのかというと原因はいろいろとあるようですが、大きなものの一つに「島原の乱」があります。

当時のポルトガルの戦略は、宣教師を介して通商を行うというもので、キリシタンを禁止している幕府としては日頃苦々しく思い、また、裏で隠れキリシタンと繋がっていると見ていました。

そこへ勃発したのが「島原の乱」で、この戦闘でのキリシタン(とは限らなかったんですが)の戦い振りは凄まじく、幕府を驚愕させました。

この「島原の乱」以降、幕府はキリシタンを危険きわまりないカルト教団とみなし、徹底的に弾圧して行きます、同時に裏で繋がっていると見ていたポルトガルに対しても、日本国内の拠点を全て閉鎖して追放しています。

でも、これが直接の原因で戦争状態になったわけではないんです。

ポルトガル人を追い払うだけなら、ポルトガル人に「日本に出入禁止」と通告すれば事は足りるわけで、戦争なんて大ごとにはなりません。

じゃあ何だったのかというと

この「島原の乱」の翌年に幕府は「ポルトガル船の来航の禁止(ポルトガル船打ち払い令)」を発布して西日本の防衛体制を固めていますが、この前後に幕府内部でこのポルトガルに対する警戒心が明白な敵意へとエスカレートしてしまったフシがあるんですね。

1640年にポルトガルの使者団が、本拠地マカオから貿易再開の交渉にやって来たんですが、幕府はこの使者団に対してヤッちまったんです。

何をやらかしたかというと、この使者団全61人を捕らえて全員処刑してしまった。

そして船に残っていた非キリスト教徒の黒人水夫達13人だけを助けて「何があったのか、マカオに帰って報告しろ」と言って乗って来た船で帰らせています。

使者団全員を皆殺しなんて、古今東西、これは宣戦布告以外のなにものでもありません。

事実この後、幕府は当然予想されるポルトガルの報復攻撃に備えて、九州の各大名に命じ「遠見番所」という外国船の監視所を各地に造らせ、西日本の諸大名には臨戦体制を取らせるとともに、万一に備えて大阪の武器庫も整備しています。

また初動体勢や指揮系統も明確に確立し、ポルトガル船が来襲した時には、状況によって姫路藩主松平忠明が防衛軍最高司令官として軍を率いて九州に赴くことも決められていました。

バリバリ、ヤル気満々だったってことですね。

じゃあここまでやって何で実際の戦闘が行われなかったかというと、理由は簡単

戦国時代の最終勝利者である幕府も世界最強を豪語していたポルトガルも、どちらも戦争のプロだったからです。

つまり、プロ同士どちらも同じことを考えた、

「こちらから攻めて行ったら補給線が伸びきってしまって不利になる、相手に攻め込ませて補給線を切断し、弱ったところを袋叩きにすれば最小限の損害で絶対勝てる…だから体勢を整えて待っていよう」

…300年ほど後のどっかのイケイケの軍隊のバカッタレの将軍閣下やアホ参謀殿にこれだけのセンスがあれば…

で、戦争状態でありながら一度も戦闘は行われず、また和平交渉も行われないまま何代も経つうちに、お互いにお互いの国のことを事実上忘れてしまった…というナントも不思議なことになっちゃいました。

以下 次回


歴史の中の??? 何をもって鎖国という? 2

2008-09-10 15:11:40 | Weblog
前回、「鎖国」という言葉自体の疑問を書きましたが、今回は「いわゆる鎖国令」というものについて書いてみたいとおもいます。

前回でも触れましたが、幕府が「鎖国令」という通達を出したことは一度もなく、以下の五つの通達をもって後世「いわゆる鎖国令」と呼ばれています。

 1. 奉書船以外の船の海外渡航禁止(1633)
 2. 海外往来通商制限(1634)
 3. 日本船の海外渡航および帰国の全面禁止(1635)
 4. ポルトガル人の子孫を追放(1636)
 5. ポルトガル船の来航の禁止(1639)

この項目だけ見てると、なるほど幕府は段階を経て鎖国体制を布いていったんだな…って思いますよね。

でも、これって一つ落とし穴があるんですよ。

それは、この通達を幕府がどこに出したかってことなんです。

正式な通達なんだから、当然通達を受ける相手がいるわけで…

あなたは、初めからこの通達は全国の大名に出されたものという前提で見ていませんか?

私はそうでした。

でも実際は全国の大名に出された通達は五番目の「ポルトガル船の来航の禁止(ポルトガル船打ち払い令)」だけなんです。

一番目から四番目までは、実はあくまで長崎奉行に対してのみに出された通達であって、ほとんどの大名はおそらく知らなかったでしょう。

なぜなら、この四つの通達は長崎奉行が新たに任命されて長崎に赴いたり、また一旦江戸に帰っていても、ポルトガル船が寄港して来る時期に合わせてまた長崎に赴くたびに出されていた、行政や通商の指示にすぎないのです。

また、一番目から四番目まではタイトルだけ見るといかにも国を閉ざそうとしているように見えますが、実はこれはキリスト教の侵入を防ぐという目的のものなんです。

つまり、一番目から四番目までと五番目とは性格が全く違うものなんですね。

1639年に全国の大名に向けて発布された、この五番目の「ポルトガル船の来航の禁止(ポルトガル船打ち払い令)」という通達は、

実は「ポルトガルの船が来たら追い払え」なんて生易しいものではありませんでした。

全国…特に西日本…の大名に対する対ポルトガル防衛システムの構築命令だったんです。

…これ、SFやifをテーマにした小説や歴史の秘密暴露的な読み物じゃありませんよ。

普通に図書館なんかの歴史資料で確認できる、歴史的事実なんで誤解しないでくださいね。

対ポルトガル防衛システムの構築なんていうと日本とポルトガルとが戦争でもしてたの?

って思われるでしょ?

そう、実はこの翌年からの日本とポルトガルは戦争状態にあったんです。

以下 次回

歴史の中の??? 何をもって鎖国という? 1

2008-09-06 16:37:02 | Weblog
「日本は江戸時代に鎖国をしました」って小学校で習いましたよね。

そのことに全く何の疑問も持たずに、常識として今まできたんですが。

でも、図書館などで色々な歴史の解説書なんかを見ているうちに「???」となってきたんですね。

こういう事は一度にまとめては書けないので、複数の視点から何度かに分けて書いてみようと思っています。

まず一番最初に「鎖国」という言葉そのものからいきましょうか。

「鎖国」則ち、国を閉ざし、必要とあれば武力を持ってしても諸外国との交流を断つ。

この「鎖国」という言葉自体が、始めて世に出たのはナント1801年なんですよ!

つまり19世紀…

当時オランダ通詞をしていた志筑忠雄という人が、17世紀の末に日本にやって来たケンぺルというドイツ人医師が著した「日本史」の中の一節を訳して「鎖国論」という本を出版しました。

… 一説には、志筑忠雄は蘭学者で、訳したのはオランダの軍学書だとも言われています…

この時、始めて「鎖国」という言葉をこの著者の志筑忠雄と言う人が造語したんです!

つまりそれ以前には「鎖国」という言葉そのものが無かったんですよね。

概念だけあって、それを表す言葉が無い?

普通はそんなことはないでしょう?

もちろん、「海禁」という言葉は当時からありましたが、「鎖国」と「海禁」とでは概念が似て非なるものですし、

もし江戸幕府が「海禁」のつもりでいたのなら、はっきり「海禁」と言っていたでしょうが、そんな形跡は全くありません。

江戸幕府が鎖国を完結させるために色々出したっていう通達や政令も、「国を閉ざす」ためって見るよりも「キリスト教の流入を防ぐ」って軸線で見た方がよっぽど自然だし…

「キリスト教の流入を防ぐために鎖国をした」なんて書き方をしている本もありますが、それじゃ本末転倒、国家の宗教に対する敗北宣言に等しい。

それに、中学校(高校だったかな?)の歴史の教科書なんかの記述では「いわゆる鎖国令」という呼び方をしますね。

江戸幕府が「鎖国令」という名前の通達を発布した事は一度も無く、1633年の「奉書船以外の海外渡航の禁止」から1639年の「ポルトガル船の来航の禁止」に至る五つの通達をひっくるめて後世、「鎖国令」と呼んだ…

って歴史の時間に教えられますが、それってつまり、その時点では江戸幕府は鎖国なんて言葉も知らなかったし、鎖国という概念も持ってなく、ましてや国を閉ざすなんてつもりはさらさら無かったってことじゃないのかな?

だいたい、後世っていつよ?

以下 次回

家紋の話 最終回

2008-09-01 00:31:24 | Weblog
これまで何回か書いてきました「家紋の話」も、一応今回で終了させてもらいます。

っていうか、実はネタが尽きたっていうのが本当のところなんですが…ハハ

いままでご覧いただいてありがとうございました。

一つ一つの家紋の由来等の話なら、専門の家紋サイトの方でものすごく詳しく調べられて説明されていらっしゃいますので、

とても私のように、単にビジュアルとしての家紋の美しさに惹かれて描いているだけの者の知識なんて及びも尽きませんしね。

家紋の話の締め括りとして、家じゃなくて国の紋…国章の話を書いてみます。

なにを今さらって感じの話なんですが、

日本の正式な国章ってなんだかご存知ですか?

「菊の紋章」、「桐の紋章」

頭にパッと浮かんで来るのはこのどちらかですよね。

でも、このどちらも「法令」で定められた「日本国の正式な国章」ではないんです。

っていうか、日本国は法令で「正式な国章」というものを定めていない、世界でも珍しい国なんですよ。

外国で正式な国章を定めていない国としては、フランスもそうですね。

「菊の紋章」「桐の紋章」はどちらも「国章に準じる」紋章であって正式な日本国の国章ではありません。

慣例的に天皇家の家紋である「十六弁八重表菊花紋」が国家の紋章として使われ、

同じく慣例的に中世より為政者のシンボルであった「五三桐紋」が政府の紋章として使われています。

これって、べつに昭和20年に戦争に負けたからそうなったんじゃなくて、はじめからそうだったんですよ。

ちなみに、パスポートの表紙に付いている菊花紋は「十六弁表菊花紋」であって、八重ではありません。

わりと、ここんところ勘違いされている方が多いんです。

また、「十六弁八重表菊花紋」は「天皇家」の紋章であって、

他の皇族の方々の紋章は「十四弁一重裏菊花紋」と、そのバリエーションです。

面白いことに、こっちの方は明治2年(1869)に、皇室の菊花紋使用に関する太政官布告ではっきりと定められています。

ここらへんの「紋」というものに対する感覚というのも、いかにも日本的だと思いません?




次回からは、歴史の定説になってることで」「???」って自分で疑問に思ったことを、自分なりに調べて書いて行こうと思っています。

名付けて「歴史の???(マンマだわ)何をもって鎖国という?」(どっかで聞いたようなタイトルなんですが)

それと、自分の生活の折々の自分なりのエピソードの駄文(どっちも駄文ですが)なんかも混ぜながら、アップして行きます。

べつにキチンと歴史を学んだわけでもないんで、勘違いしてる部分もあるでしょうけど、

「このバカ、何をあさっての方にカッ飛んでんだ」

なんて思っても、そこはご愛嬌で勘弁してくださいね♪(って早くも予防線張ってる…ハハ)

家紋の話 7

2008-08-26 15:28:13 | Weblog


私は家紋を…に限らず全てのものをですが…パソコンで描いています。

こう言うと、あまり(というかほとんど)そういう事を知らない人から

「じゃあ凄く簡単ですね、画像を取り込んで変換すればいいんでしょ?」

なんて、時々言われます。

何かをパソコンで変換するってことだけは、知識としてインプットされてるんですね。

で、この場合「ビットマップデータ → ベクターデータ変換ソフト」を使って変換することを指してるンだなって推測はできるんですが。

ムキになって説明してもしょうがないので、

「だったら良いんですけどね」って苦笑するしかないんですね…

でも最近、けっこうネットでそういうことを言ってこられる方がいらっしゃって、私もいささかムカつきましたので、今回はここで言わでもの事を承知で説明させてもらいます。

これって、デザインやWeb、DTPといったクリエイティブ関系の仕事をしている人にとっては、あたり前のことなんですが

画像として取り込んだものを、「ビットマップデータ → ベクターデータ変換ソフト」を使って変換してみても、ラインが汚くて、余程小さくして使うか単なるワンポイントのどうでもいいようなものに使うかぐらいしか使い道がありません。

たしかに私もその手のソフトは持っていますし、家紋ではなく本業のデザインの方では使ったりもするんですが、上記のような使い方以外はしません、というより、使いようがないんですね。

画像=ビットマップデータであり、ビットマップデータとはビット(点)の集合体で成り立っているデータです。

画面上で写真画像をどんどん拡大していけば、様々な色や濃淡の点が集って画像を形成しているのが判りますね、それがビットマップデータです。

それに対して、ベクターデータ(ラスタデータとも言います)はAdobe社が開発したPS(PostScript)技術を用いた、通常一般にラインデータとも呼ばれるデータ形式です。

で、このビット(点)の集合体であるビットマップデータをラインが基本であるベクターデータに変換するということは、

ビットの濃淡の任意の濃度をしきい値として設定し、そのしきい値の濃度以上の濃度を持っているビットの輪郭をライン化して行く。

つまり日本語で言えば、ギザギザの点の輪郭を忠実になぞってるんです。

ギザギザの輪郭をなぞっているものが、滑らかなカーブやシャープな直線などになるわけがありません。

しきい値をあげれば、より細かいところまでトレースできますが、それだけギザギザもより多く拾うということで、ラインも当然、より汚くなります。

かといってしきい値を下げれば、下げれば下げるほどラインはそれだけ滑らかにはなりますが、逆にトレースはどんどん甘くなっていって、「ナンジャ、これは?」というようなものになってしまいます。

で、この間のどこかでバランスをとってしきい値を設定して変換するのですが、どこで設定しようともラインのギザギザ、ガタガタの差は単なる程度問題でしかありません。

しかも、「ビットマップデータ → ベクターデータ変換ソフト」で変換したデータは例外なく「塗り」という形で変換されますので、一本の線のように見える絵柄でも実は外側と内側の二本のラインで構成されています。

こんなもののラインをチマチマ修正するなんてできませんし、そんなことするぐらいなら、パソコン上で一から描いてしまったほうが、よっぽど速くて楽に、きれいなものが描けるんですよ。

ついでですが、私は全てのイラストをマウスで描いています。

よく「イラストを描くのはペンタブに限る」なんて前提で話し掛けられたりするんですが、これって正直イラツキますね。

ペンタブもたしかに便利で以前は使っていたんですが、何とはなしに今はまたマウスに戻っちゃいました。

なぜかというと、どうということもなくて、製図の世界からこっちの世界に入った人間の単純に好みの問題でしかないんですが…ハハ

要するに、自分が描きたいものが描ければ、そのための道具なんぞは自分が使いやすければ何でも良いんです。

格好や道具でモノが描けるわけじゃありませんからね。

掲載した家紋は「変り飛桔梗蝶」
なお、掲載した家紋と記事本文とは何の関係もありません。

家紋の話 6

2008-08-23 01:44:00 | Weblog
前回冗談で

…「ベンツ紋」とか言って、ひょっとしたらあるかもしんない…

なんて書きましたが、冗談ではなく本当に在るかも知れませんね。

というのは、今でも新しい家紋は創られていますし、なにも家紋だから伝統的な和風の模様にしなければならない、なんてことは全然ありませんからね。

要は、最終的にその家紋の持ち主がいかにそのデザインを気に入り、それを自分の家紋として認知するか、ということだけなんです。

けっこう有名で、私もインターネットでですが、見た事があるものに

野球のボール:「野球鞠紋」って呼びます。

サッカーのボール:「蹴球鞠紋」って呼びます

というものがあります。

また、私は見た事がないのですが、ペンギンやパンダの模様を使った家紋もあるそうです。

この伝で行けば、ゴジラやガメラの家紋も出て来るかもしれませんね、「ゴジラ紋」とか「ガメラ紋」とかいって…ハハ … 私は個人的にはキングギドラが好きなんですが …

閑話休題

家紋の種類の複雑さの一つの原因として、

「同じ絵柄を描いても、その絵柄は描き手によって変わる」

というのがあります。

私は、自分の手持ちの紋帳を基にして描いていますが、描き上げた家紋は紋帳に掲載されている家紋の忠実な複製には決してなりえません。

それは当然のことで、紋帳の家紋自体が手描きの、悪く言えばかなりいいかげんなもので、

円は歪み、ラインは歪み、左右対称の図形や角度を振る図形などは大きさを変えるなどして無理矢理辻褄合わせをしているといったものがほとんどで、

甚だしい場合は、潰れたりかすれたりして一部判別不能なんてのもあります。

これはつまり、描く側が自分で判断し、計算して描かねば、仮に紋帳の絵柄を単純に上からトレースして描いても、まったく使い物にも何にもならないということです。

自然、描いた家紋は全体としては紋帳と同じ絵柄のように見えても、絵柄の個々のパーツの大きさ、角度、ラインの伸び、ラインの太さ、ラインの角度また振れ、末端の処理など多くの部分が違ってきます。

ましてやこれが描き手が異なれば、その人の絵柄の解釈またその人の持つ技術によって異なってくるのは当然のことで、判で押したように同じものができたりする筈がありませんよね。

この場合基になった家紋は一つでも、その二人の人物が描いた家紋を一つの家紋とみなすかどうかは微妙なことになってきます。

なぜなら、別の種類とみなしたところで、家紋の呼び名などは後からいくらでもつける事ができますし、同じ呼び名でも絵柄は全く別のものという例も珍しくはありませんから。

事実私自身の経験でも、あるお家で「応接間に飾りたいので、家紋プレートを作って欲しい」という注文をいただき、「では見本となる家紋をお預けください」とお願いしたところ、

見本として出して来られた冠婚葬祭用の紋付、幕、提灯、食器、はてはお墓の写真に至るまで、どれも家紋の形が少しずつ違っていて

「いったい、どれが本当の我が家の家紋だ?」と出して来られた当家の方達が首をひねっておられた、という経験があります。

このケースでは、明らかに一つの家紋をそれぞれ描いておられるのですが、描いた時期も異なれば、業者さんも異なり、また描かれた素材も異なるため、絵柄の形が少しずつ違い、上下で「これは別の家紋だろう!」っていうぐらい差が出てしまった、ということなんですね。







掲載した家紋は3点とも「丸に梶葉」です。

これは私が持っている資料の中から同じ名前の家紋を集めてみたものです。

記事本文で言っている家紋とは絵柄も全然違うし全く無関係なんですが、どの家紋でも条件によればこれだけ違ってしまうという見本に掲載しました。


家紋の話 5

2008-08-19 18:18:46 | Weblog


よく人から「家紋って全部で何種類ぐらいあるの?」って聞かれます。

この答は、「誰にもわかりません」が正解です。

ホント、家紋の種類の総数なんて誰にもわからないんです。

もともと、家紋が貴族によって使われ始めたごく初期の頃はせいぜい数十種類程度だっただろうといわれていますが、

時代が下がるにつれてどんどん増えて行き、江戸時代になると爆発的に増えていったものですから。

実際、私が持っている資料だけで、約5000種類の家紋がありますし、

インターネットや図書館で調べてみても、8000種類から28000種類、

甚だしきは十数万種類と記述されている資料もあります。

つまり、「誰にもわからない」んですね。

でもこれは日本の家紋の性格上当然のことなんです。

と言うのは、日本の家紋は諸外国の家紋にあたるものよりも、はるかに自由なんですね。

家紋の英語訳は、「Clan's crest」「Family emblem」「Family coat of arms」「Family crest」といったところが一般的ですが、

実はこれらの言葉の内包している概念は日本の「家紋」の概念とはかなり違いがあるんです。

日本以外の多くの文化では、自分の家、または一族の紋章を持ち、かつ開示することが許される階層と、

そういうことが許されない(または、しても嘲笑の対象にしかならない)階層とは厳然と分かれています。

また、紋章そのものにしても、その属する文化によってそのデザインやバリエーションにおいて、文化の常識としてのルールが一定程度は定まっているんですね。

しかし、日本の「家紋」においてはそういったルールは一切ありません。

家紋が要るのならば、自分で好きなデザインで描いたものを(または誰かに描いてもらったものを)あるいは、紋帳などに掲載されている紋を

「これウチの家紋!」

ということにすればそれで良いんです。

会社や商店のマークに使うのであれば、商標登録の問題が出て来ますが、

個人で使う以上、別にどこの許可が要るわけでも、登録する必要があるわけでもありません。

といっても、まさかベンツやBMWのマークを自分チの家紋にする人もいないでしょうけどね。

イヤ、「ベンツ紋」とか言って、ひょっとしたらあるかもしんない…なんて

★ 一族、一家、個人を問わず、どのようなデザインの紋をいくつ持ち、

かつ、使ってもよい ★

紋章というものに対して、こんなに自由でありながら、しかし決して、いいかげんでもでたらめでもない。

このような感覚を持っているのは、日本の文化だけではないかと思うんですよ。

それが、総数を把握しようにも調べようもない…といったことの原因だと思うんですね。

掲載した家紋は「根引き杜若」
なお、掲載した家紋と記事本文とは何の関係もありません。