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雲のベッドで寝てみたい

時間だけは売るほどある閑な自由業者が、ちょこっと自分の作品や日々のつれづれなんかを書いています。

いやぁ~久しぶりだわ~

2011-04-04 16:42:57 | Weblog
いやぁ~久しぶりだわ~気が付きゃ2年以上もこのブログ放置してたな~

ぶっちゃけ忘れてたんだけど…ハハ

体調崩して仕事辞めちゃって家でブラブラしてて、暇だからパソコンのデータ整理をしてたらひょっこり出てきて「あ~こんなブログやってたんだ」ってまた復活させたよ。

とりあえずネタが思いつかないから、家でTV観てて「!??」って思った事を後先考えずに無責任に発信させてもらうよ。

今回の震災の被災者に対して、政府やマスコミの対応はあんまりだと思うよ。

だいたい、はるか遠くの県が被災者を受け入れるために、県営住宅なんかを提供したなんて話をいかにも「美談でしょ」なんて発表はして欲しくないよ。

行かされる方にしてみれば、誰一人知り合いもいない全く知らない土地に行政や政府のお情けで住まされる事になる訳で、周りの住民達からも「おかわいそうな被災者」という目で憐れまれるという屈辱に晒される訳でしかない。

オレが以前働いていた老人ホームでは部屋を代わった入居者のおばあさんが、ただ部屋が2階から3階に移ったというだけで認知が来ちゃって、毎晩自分の部屋を探して施設内を徘徊してたっけ。

ましてや、あんな大災害をくぐり抜けて九死に一生を得て、帰る家は目の前で津波に流されちまって、全く知らない土地に住まなきゃならなくなっちまった高齢者の方々が現実を受け入れられずに、認知症を発症しない方が不思議だね。

そうなりゃ一体誰が面倒を見るんだい?

それに、政府にしたって今回の災害でいち早く中国政府が中国海軍の持ってる病院船を被災地の沖合いに派遣してくれようとしたのに、「法的な問題があるから受け入れられない」なんてバカな意地張って断っちまった。

そんで今になって「医師が足りない」「施設が全壊してしまって適切な治療ができない」「薬が無い」なんて…

今更そんな泣き事言うぐらいなら、あの時つまらん意地を張らずに素直に隣国の好意を受け入れてりゃ良かったんだよ…バカヤロウ。

原発事故にしたってそうだよな、政府もマスコミもどうでも良い情報をぼろぼろと出し過ぎるよ。情報過多もいいところだ。

TVを点ければ必ずと言って良いほど、どっかのチャンネルでいわゆる専門家って奴を呼んで来て「エライこっちゃショー」をやってる。

なんぼネタが無いからと言って素人に専門知識の解説なんてするなよな。

そんなことでどっかの大学の貧相な貧乏教授の小遣い稼ぎなんぞに利用されちゃ堪らんわ。

素人には原発のシステムや放射線の単位なんてどうでもいいんだよ。

興味があるのは「福島が第二のチェルノブイリになるかならないか」ってことだけなんだよな。

それに日本広告機構もワザとらしいどうでも良い善意や白々しい励ましの広告ばっかり流すなよ。

今度の事で元阪神タイガースの赤星なんてひどく割食ったと思うよ。

本人は善意でしてる事をあれだけ美談美談でじゃんじゃか広告を流されちゃ逆効果もいいところで、もう顔も見たくないってことになっちまうよ。少なくともオレはそうなった…

なにかと言やあ「頑張ろう」「ガンバレ」なんて…

何もかも無くしちまって絶望の淵に立って鬱状態に陥ってる人に対して、そんなワザとらしい励ましがどんなに残酷なことか…

鬱状態の人に対して「ガンバレ」って言うのは「死んじまえ」って言ってるのと同じ事なんだよ。

とにかく、マスコミも政府も行政もワザとらしい白々しい言葉をあんまり軽々しく使って欲しくないな。

歴史の中の??? 何をもって鎖国という? 13

2008-11-04 08:51:55 | Weblog
今回は「四つ口」の最後の一つ 「松前口」 を見てみたいと思います。

この 「松前口」は北海道の松前藩がアイヌの人達を使って、主に沿海州で行っていた山丹交易のルートのことです。

このルートを取り仕切っていた松前藩というのは、江戸時代の各大名の中でも異色の大名で、別名 「エゾ大王」 と呼ばれ、北東アジアに大きく門戸を開いていました。

いま 「大名」 と書きましたが、大名とは米の生産高一万石以上の領地を持っている領主のことをいいます。

しかし、当時の北海道では米はとれず、したがって田の面積からの石高の算出のしようがありません。

また藩士も松前藩よりそれぞれに個別の交易地を割り当てられ、直接アイヌの人達と交易を行っていました。

このような事情から、幕府は特別に松前藩に一万石の格を与えて諸候の列に加えています。

また江戸への二年に一度の参勤交代も、松前藩に限って五~六年に一度で良いなど、幕府から特別扱いを受けていました。

どうも幕府は同じ日本国内ながら、北海道を松前氏が支配する 「異域」 として見ていたようですね。

松前藩が取り仕切っていた 「山丹交易」 とは、松花江流域の三姓やフルカ江流域のニンクタといった、清が朝貢物の受取り拠点に定めた場所にアイヌの人々が高価な黒貂の毛皮などを朝貢品として持ち込み、

お返しに清からは錦などの絹布類や靴鞄などを 「烏林(賞与)」 として受取る 「朝貢貿易」 のことです。

といっても、実態はアイヌの人達が山丹人 (厳密に言えばオルチャ族だけですが、通常はギリヤーク族も含みます) より山丹品 (主に錦などの絹布) を購入して持ち帰ってくるというのが普通でした。

この錦などの大部分は、形式だけのアイヌの人々との交易、または 「ウイマム」 という体裁で松前藩のもとへ集められた後 「蝦夷錦」 などの名前で全国各地に送られ、莫大な利益を松前藩にもたらしました。

… 「ウイマム」とはアイヌの人達が土産を持参して松前藩主に謁見し、その代償として贈り物を受取るという儀礼行為のことで、中国が行っていた 「朝貢貿易」 のミニチュア版です …

しかし松前藩の、自藩にとってこのように重要な交易を担ってくれていたアイヌの人々に対する態度は徹底して非情極まりないもので、

アイヌの人々に松前藩から借金をさせて山丹人から山丹品を購入させ、借金が払えなくなると容赦なく山丹人に 「奴隷」 として売り払ってしまう … というものでした。

これはどういうことかというと、松前藩が直接山丹人と取引すると松前藩の支出となってしまうため、アイヌの人々を前面に立てて彼等を犠牲にして、松前藩は無傷で利益だけ得ようということなんです。

… ここまで非道なまねをして、果たしてこれが交易の名に値するのか?とも思いますが …

18世紀後半になるとロシアの南下策が本格化し、18世紀の末頃にはたびたびロシアの船が北海道周辺に姿をあらわすようになり、

危機感を持った幕府はロシアの蝦夷地介入を防ぐため、それまで 「異域」 として扱って来た北海道を内国化しようと急ぎます。

北海道の幕府直轄化やアイヌ民族への (弾圧に等しい) 同化政策の過程で、山丹交易は終息に向い 「松前口」 も消滅しました。

以下 次回


歴史の中の??? 何をもって鎖国という? 12

2008-10-29 13:36:52 | Weblog
今回は 「四つ口」 の 3 番目 「薩摩口」 を見てみたいと思います。

「薩摩口」 は別名 「琉球口」 とも呼ばれ、薩摩藩が実質支配していた琉球王国を通じて中国との交易を行っていたルートです。

よく時代劇で 「薩摩藩の密貿易」 なんて言っていますが、薩摩藩は幕府公認で堂々と交易をしていたんで、決してコソコソと密貿易なんかしていたんじゃありません。

ま、お話としては密貿易の方が面白いでしょうけどネ。

徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって断絶した明国との関係を、明国と良好な関係にあった琉球王国を仲介者として修復したいと考えていました。

そしてその講和交渉を幕府の思惑通りに導くためには、まず琉球王朝を江戸幕府に服属させるのが先決と考えていたようです。

そして慶長11年(1606)徳川家康は薩摩藩主 島津家久からの琉球侵攻の願いを許可しました。

慶長14年(1609)薩摩藩は琉球に侵攻して首里城を電撃的に占領し、与論島以北の五島を島津家の直轄地としてしまいます。

琉球王朝は薩摩藩の管理下におかれ、薩摩藩より派遣された代官が琉球王を通じ、琉球を間接支配する体制が出来上がります。

こうして体制を整えた慶長19年(1614)いよいよ明国との講和交渉を行うために、琉球の北京進貢使節に対明講和と貿易復活を求める書状を持参させるのですが、明国側は断固として拒否してきました。

幕府が提示した一切の条件の拒否という明国側の強硬な態度にアテが外れてしまった幕府は、次善の策として琉球を交易窓口として使おうと方針を転換します。

そのためには琉球は日本ではなく、琉球王国という別の国であるということを意図的に強調しなければならないと幕府は考えました。

琉球占領当初は薩摩藩は琉球の人々に日本同化政策をとっていたのですが、ここに至り、方針は180°転換されます。

元和3年(1617)琉球人が日本人の髪型をしたり、日本の衣装を着ることが禁止され、

寛永元年(1624)奄美大島を除く首里王府領に限って、琉球王朝に役人の扶持給与権、裁判権、祭祀権が認められ、また琉球人が日本名をつけることが禁止されました。

幕府はこのように意図的に日本との違いを琉球人に強いることによって、琉明貿易を良好な関係で維持させようとしたんですね。

ここらへんの論理っていうのは無茶苦茶勝手なんですが…

その後、正保元年(1644)に明朝は滅亡し、清国が興ります。

この時、明国の遺臣達が福州で唐帝を立て南朝政権を建てたんですが

その南朝政権の唐帝即位式に赴いた琉球使節団五十余人が、福州の陥落に伴い清軍に捕らえられてしまいました。

… 実は琉球の使節団は即位式が終わってすぐに一度琉球に帰ろうとしたんですが、途中で海賊団に襲われ、命からがら福州に逃げ帰り次の船の用意ができるのを待っていたんです …

清国はその使節団を、正保6年(1649)に清国の使節とともに琉球に帰還させています。

そして、時の琉球王 尚賢が上表文を上げ宗主国を明から清に改めました。

この後、幕府が恐れたように清が琉球人に弁髪や清朝の風俗を強制して日本の支配下から奪うこともなく、

承応3年(1654)琉球と清の冊封関係(中国の庇護を保証される関係)は正式に成立し、以後幕末まで安定した交易口として琉球は機能しています。

余談ですが、現代の沖縄料理に昆布は欠かせませんし、沖縄県は昆布の消費量日本一の県です。

北海道で採れる昆布が何故沖縄で大量消費されるのかというと、

江戸時代日本の主要な輸出品の一つであった昆布が、中国や東南アジアに輸出される中継点が 「琉球口」 だったからなんです。

以下 次回



誰もがあえて見ない、考えないようにしていること …

2008-10-25 11:04:52 | Weblog

今回はかなり毒のある嫌なことを書きます。

誰もがあえて見ない、考えないようにしていること …

読んだ後、かなりの方は不快になられると思いますので、もし私のブログに笑いや元気の種を求めて来られた方は、ここまで読んだ時点でスルーしちゃってください。

さて、本題ですが、

私は副業で、あるケアハウス(昔で云うところの養老院)の夜間臨時職員として、月によって違いますが、十日から半月ほど勤務しています。

こういう福祉施設に勤務する者は医療施設に勤務する人たちと同じで、傍目にどんなに冷たいと見られても必ず入居者と距離を置かなければならない … そうしないと、自分が精神的に潰れてしまう。

そんなことは基本中の基本で百も承知しているんですが、時には自分が経験することでホントにブルーになってしまうことがあります。

私の勤務している施設には90歳以上のご高齢の方もたくさんいらっしゃいます。

そして90歳以上の大半の方はひどく足腰が衰え、器具や介助なしで移動することは常に転倒の危険と隣り合わせの行為となります。

でもプライドがあるんですね、ほとんどの方は車椅子や歩行補助器具を使っての移動や職員の移動介助を拒否されます。

また個々の居室内においての日常生活に、ただでさえ人数が足らず一人で何役もかけもちしている職員が常駐して介助なんてできる筈もありません。

またたとえ職員の常駐が可能だったとしても、病院ではなく日常生活の空間に常時他人が居られる訳もありません。

必然的に、居室内での転倒事故が絶えません。

転倒しての怪我というのは案外少ないのですが、問題は転倒した時間帯なんです。

足腰が衰えてしまわれた方は、転倒すればまず、ご自分では起き上がることはできません。

 若い方でも試しに、倒れた状態から上半身だけで何かを支えにしてでも起き上がろうとしてみれば実感できますよ。

昼間なら要注意の方の居室を複数の職員が交代でわりとまめにのぞいたり (もちろん、事前に本人の許可は得てあります)、また隣室の住人も起きていらっしゃるので 「隣の部屋で音がした、ちょっと見てあげて」 などと知らせてくれますが、夜間は宿直員一人で全てを賄わなければなりません。

規定では夜間は 23:00・2:00・6:00 の3回、施設全館 (かなり広いです)と施設前の道路を巡回し、その際に要注意の方の居室をのぞくことになっているのですが、その巡回の直後に転倒された場合は次の巡回までそのままの状態になってしまうので、実際にはもう 2回、0:00過ぎと4:00過ぎぐらいに要注意の方の居室だけをのぞいています。

だから宿直とは云えほとんど仮眠する時間はありません。

そしてこの時間帯に転倒される場合、例外なくトイレに立とうとしてしての転倒です。

もちろん、ベッドの横にはポータブルトイレを置き、心配な方には紙パンツを穿いてもらってあるので、わざわざ居室内のトイレに立って行く必要など全くないのですが、やはりみなさんどうしてもちゃんとしたトイレで用を足そうとされます。

その気持ちは良く分かります、私も同じ状況になればやはりそうするでしょう。

しかし、トイレに立とうとして転倒すればほとんどの場合、パジャマと床を汚してしまいます。

夜間巡回時に転倒されているのを発見し、抱き起こして怪我や異常がないか確かめてベッドにお連れすることはよくあることなのですが、この時はほんとうに辛い。

私は警備担当なので、本来は業務として汚れた衣類を着替えさせたり、体を拭いたり床を掃除したりする義務はないのですが、目の前で体を汚してしまった人を見て 「オレの仕事じゃない、朝になればヘルパーさんが来るから、その人にしてもらいな」 なんて割り切れるほど神経は太くはありません。

そして、衣類を着替えさせたり体を拭いたりするとき、私よりももっと辛いのは当の本人だということも痛いほど分かるんです。

多くの方はただ 「すみません」 と言って後は顔をそむけて、中には静かに涙を流している方もいらっしゃる。

肉体が衰えてしまったからといって、頭脳まで衰えている訳ではないんです。

どれほど惨めな恥ずかしい思いをしていらっしゃるか …

耳が遠くなっている方が大半ですが、中には耳がしっかりしている方もいらっしゃいます。

だから私はこういった時は、ほとんどの場合できるだけ顔を見ません、また、必要最小限の言葉しか口にしません。

相手の気を楽にしようとしての軽薄な饒舌や励ましはかえって相手を傷つける。

人生の大先輩の方々です、私ごとき若輩者が何を言えましょうか?

このケアハウスに入居しようと思えば月々の支払いとは別に、普通の人の年収の何年分といった額の入居費用を一括して先払いしなければなりません。

つまりそれが可能な経済力のある、ある意味で社会的にそれなりに成功した、またはポジションにあった方々ばかりだということです。

一生懸命に働いて、また必死に家族を守り、子供たちを育て上げて … ここで孤独に、私という他人に、一番見せたくない姿を晒さなければならない。

ある時、やはり夜間にトイレに立とうとして転倒された方で、私が発見して世話をしている時にろれつのよく回らない口で搾り出すように仰られた言葉が耳に残っています。

「ここまで生き恥を晒してまだ死ねぬ、この我が身のあさましさよ … 」

… … …

この方は翌週、持病の心臓疾患で永眠されました。… 享年95歳でした。

… … …

「生ずる時は一人 されば死する時もまた一人 共に添い果つる人の無きが故なり」

… … …

よく行政の長や議員さんなどがご長寿のお祝いと称して施設の介護ベッドに寝ていられるお年寄りに、にこやかに花束などを手渡してる写真が新聞などに載っています。

キャプションはたいてい 「これからもお元気で長生きしてください」

もちろん偽善であり、社交辞令の決まり文句ということは誰でもわかっていることなんですが …

でも、施設の介護ベッドに寝ていられるお年寄りに対して

「これからもお元気で長生きしてください」

 … これが当人にとって何を意味するか …

この人達は本当に考えてみた事があるのだろうか?

いやそれ以前に 「身体機能の低下 = 知能の低下」 と無意識の内に前提としているのでは?

こういう白々しいことを臆面もなく写真に撮らせる人達、またそれに迎合して提灯記事を掲載するマスコミ、こういった事を美談として要求する社会 …

こういったものを目にするたびに、やり場のない怒りや悲しみが自分の中に湧いてきます。

… … …

人間の幸福って何なんでしょうね?

… … …

長寿っていうのは本当に良いことなんですか?

良いことだとしたら、それは誰にとって良いことなんですか?

… … …

こういう答えの出しようもない思考を自分の中で堂々めぐりさせていると、確実に自分自身を蝕んでいってしまうのはよくわかっているんですが、最近どうにもこういう思考を払拭できず、はけ口としてこのブログに書きました。

こういったことを書くとこの仕事が嫌なのかと思われそうですが、全然逆で、私はこの仕事が好きなんです。 好きだから、色々と割り切れなくて考えてしまう

… … … …

長々と嫌なことを読まされて不愉快な思いをされた方 ごめんなさい。

次回からは、また無害な記事を載せて行きます。


歴史の中の??? 何をもって鎖国という? 11

2008-10-20 14:12:45 | Weblog
今回は「四つ口」の2番目「対馬口」を見てみたいと思います。

豊富秀吉の二度に渡る朝鮮出兵により、当然のことながら朝鮮、明国からの交易は途絶えました。

実際は密貿易船やポルトガル船などから、細々と物資は入って来てはいたんですが。

しかし、江戸幕府としてはこのままでは困るわけで、なんとか朝鮮や明国と関係を修復して貿易を再開しなければ、幕府としての体面も保てません。

また交易品もさりながら、中国大陸の情勢の情報が入って来なくなるというのは、国防上由々しい事態となるわけでこれを放ってはおけません。

そこでなんとか明国と関係を修復しようとしたのですが、明国側は頭から受け付けませんでした。

しかし、朝鮮の方はまだかすかながら希望はありそうだったので、幕府は仲介者を介して朝鮮との国交回復を図ることに方針を変更しました。

そこで仲介者として浮上してきたのが対馬藩だったんです。

この対馬藩は非常にユニークな藩で、中世より代々朝鮮とは貿易を通じて特別な関係を持ち、歴とした日本の大名でありながら朝鮮から通行権を付与され、朝鮮の通行秩序にも従っていました。

つまり、ナント対馬藩は朝鮮王朝にも朝貢し、名目上とはいえ臣下の礼をとっていたという摩訶不思議な存在だったんです。

… 現在、韓国の一部の人達が 「対馬も韓国の領土だ!」 なんて訳わからんこと言ってるのは、ここらへんを根拠にしてるんかな? …

また幕府もこのことは承知の上で黙認していたんですね。

そして対馬藩は対馬藩で幕府に言われるまでもなく、日本軍の朝鮮撤退の翌年(1599年)より独自に朝鮮との講和のための使者を粘り強く何度も送り、ついに1606年に朝鮮より講和のための条件を提示させることに成功しています。

… この日本と朝鮮の講和の顛末は、江戸幕府と対馬藩と朝鮮王朝、三つ巴の「いずれが狸か狐か?」というほどのダマし合いダマされ合いで 「これがいわゆる高度な政治的判断による決着というものか」 というほどのものなんですが、本題とは関係がないので割愛します…

またこの時、日本と朝鮮との国交の正式な窓口として対馬藩が任命され、朝鮮王朝の正式な外交使節である朝鮮通信使の招聘も対馬藩が窓口となっています。

それに伴い対馬藩は朝鮮に倭館を堂々と再開することができ、

… 倭館とは中世以降貿易の便のため朝鮮王朝の承認の下に設けられた日本人居留地のことで、規模も所在地も時代により様々でした …

ここを拠点に大量の生糸や磁器、朝鮮人参といった物資を続々と輸入し、莫大な利益を上げることができました。

最盛期には対馬口より入る生糸の量は、長崎口より中国、オランダ船がもたらす生糸の量の二倍以上となり、朝鮮の釜山にあった倭館の規模も敷地十万坪(長崎の出島は四千坪)常住人口四~五百人という規模になっています。

しかし、この繁栄は長続きはしませんでした。

元禄期(1688~1703)に幕府は金銀貨幣の悪鋳を行い、これが原因で対馬藩に対して朝鮮商人の貨幣受取り拒否のトラブルがあいつぎ、

また、明に変わった清が日本との貿易を解禁したため、対馬口の交易量は急激に落ち込んでしまいました。

しかし、それから後も対馬口は朝鮮通信使の招聘の窓口としての地位は変わらず、また交易量も最盛期とは比ぶべくもないながら、朝鮮との交易口として倭館ともども江戸時代全期を通じて存続しています。

… 正式に国交を結んでいる国に居留地まで持っていて鎖国?…

以下 次回

歴史の中の??? 何をもって鎖国という? 10

2008-10-15 07:38:20 | Weblog
「鎖国下の日本で、唯一開かれていた長崎港に輸入物資は集中し、そこから日本各地に流通して行った…」

これ、ほとんどの人は 「そんなことは常識だ」 って言うんですが、実は間違いなんです。

幕府が貿易ルートとして正式に認めていたのは、長崎だけではありません。

実は長崎を含めて四つあったんです。

これを 「四つ口」 と呼びます…まんまですね。

私が学校で教わったころは 「長崎だけ」 と教わったんですが、今はきちんと 「四つ口」 と教えているようですね。

もちろん、 「四つ口」 の筆頭は 「長崎口」 です。

なんといっても最大の貿易拠点であり、中国、朝鮮、オランダ、そして国内の流通を担う日本の船が出入りし、また、物資調達や情報収集のための西国大名の出先機関も集中していました。

幕府直轄地であり、統治している長崎奉行の持つ権限は絶大で、必要とあれば大名に命令を下す権限も持っていましたし、

同時に外交の玄関口も兼ねていて、外交使節は(といっても、当時正式に国交を交わしていたのは朝鮮だけでしたが)必ず長崎に上陸しなければなりませんでした。

19世紀に国交を求めて来航した、イギリス、フランス、ロシアの船も全て 「長崎の港に入れ」 と指示されていますね。

もっとも、指示を無視して強引に浦賀港に乗り込むような礼儀知らずのあつかましい国もありましたが…

またこの長崎港に入港して来る外国船なのですが、中国、朝鮮、オランダと国で言えば三つなんですが、実際には乗組員はほとんど世界中の人種が揃っていたようで、

正保4年(1647)から元禄13年(1700)の間に来航した唐船 (中国船) 延べ2874隻のうち、583隻は中国、台湾以外の東南アジアから来た船でした。

また寛文年間(1661~1673)には多くのイスラム商人も東南アジア人とともに渡来したという記録も残っています。

で、上記の数字を見て 「?」 と思うことがありませんか?

「正保4年(1647)から元禄13年(1700)の間に来航した唐船(中国船)延べ2874隻」

53年間で2874隻ということは年間約54隻 … 週に約1隻のペースでしか来てないんです。

唐船(中国船)ですらこれなんで、オランダ船の数は十分の一以下ですから、せいぜい年に4~5隻…

ところがまだこれは貿易枠の制限がなかった古き良き時代の数字で、

日本の金や銀がどんどん海外に出て行ってしまうのに危機感を持った新井白石が、正徳5年(1715)に定めた 「海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)」 では年間の貿易枠を

清:船数 年間30隻、取引額 銀6000貫

オランダ:船数 年間2隻、取引額 銀3000貫

と定めています … ちなみに隻数の桁は間違えてはいません、たしかに三十隻と二隻です。

江戸時代の長崎といえば、漠然と中国やオランダの船が始終出入りし、港はムンムンした活気に溢れ … ってイメージがありますが、実態はこんなものだったんです。

それは同時に、当時の日本の海外との貿易規模ってのはせいぜいこの程度のもんだったってことで、これじゃ鎖国がどうのっていう以前でしょ?

以下 次回





歴史の中の??? 何をもって鎖国という? 9

2008-10-10 16:12:51 | Weblog
今回はまた少し視点を変えて見て行きたいと思います。

東アジアの国々は日本ももちろん含めて、どの国も巨大な隣人中国を抜きにしては語れません。

世界の中心と言う意味の「中国」って呼び方は個人的には好きじゃないんですが、たしかにそう豪語できるだけの歴史や文化を彼等は持っているのもたしかですからね。

現代でこそ日本は技術的に中国を凌いでいますが、17世紀頃の日本から見た中国は、文化、技術、資源、三拍子揃った超大国もいいところでした。

生糸や磁器などはまだ質・量ともに満足なものは日本で作ることはできず、また、漢方薬の原料や大量に必要とされていた漆なども日本で調達できる量ぐらいではとても間に合わないため、多くを輸入に頼っていました。

長崎港に入港してくる貿易船の積み荷は、朝鮮、ポルトガル、後にはオランダを問わず、ほとんどは中国の製品でした。

ということは、極言すれば日本は日本で入手できない品物は、中国とだけ貿易していればみんな入手できるということですよね。

事実、日本から見て朝鮮やポルトガル、オランダの最も大きな役割は、中国の物資を安定供給するための保険であり、また情報の供給者であって、けっしてそれ以上ではなかったんです。

17世紀前半の頃の日中間の関係は、豊富秀吉の朝鮮出兵の後遺症で日本と中国 (明国) は絶縁状態でした。当然、中国から直接物資や情報は入って来ません。

設立間もない江戸幕府が、躍起になって朝鮮や明国と国交を回復しようとしたのは、物資もさりながら、国家の死活問題に直接関わる海外 (特に大陸) の情勢についての情報が極端に不足していたからなんです。

… 実際には中国の密貿易船は日本に来ていたんですが、それとて大した数ではありませんでした…

幸いにも朝鮮とは江戸幕府は早期に講和し、朝鮮を通じた貿易ルートが確保されました。

そしてこの朝鮮からのルートを通じて入って来る物資の量は、最盛期にはオランダ船や密貿易の中国船が長崎に運んで来る物資量の合計の2倍という大きな時もありました。

そして明国が倒れ清国になり、日本との貿易が解禁されると、日本にやって来る中国船の数は一挙に十倍となり、中国の物資の安定供給という問題は解決されたんです。

しかし幕府は明国が倒れ清国になる時に、明国の支援要請を受けて明国側についた経緯もあり (もう少しで明国支援軍を大陸に派遣するところだった!)清国と正式に国交を結ぶことはありませんでした。

末期の明国は国が分裂してしまって、誰が見てもどうにも救いようの無い状態は歴然としていたのですが、大陸の情勢についての情報がちゃんと幕府には届いていなかった事がこの一事をもってしても伺えます。

また話は変わって、中国人やヨーロッパ人の感覚と当時の日本人の感覚の大きく違うところなんですが、

当時の日本は基本的に自給自足の社会構造を持っていました。

そして、貿易で入って来る様々な品物も、その多くは武士や富裕な人々の間で贈答品などに使われるもので、一般庶民が必要とするものはそう多くはありませんでした。

ということは、もともと必要な絶対量というもの自体があまり大きくはなかったんですね。

また、何かを必要以上に大量に生産し、それを外国にどんどん売るということもしていませんでした。

だから、港を他に開かなくても長崎の港だけで充分間に合ったとも言えるんです。

もちろん、管理の面でも一つにまとめておいた方がなにかと便利ですものね。

そういう状況で、あっちこっちの港に貿易船を分散して受け入れて、わざわざ仕事をややこしくしようなんて誰も思いませんよね。

以下 次回



歴史の中の??? 何をもって鎖国という? 8

2008-10-06 12:23:05 | Weblog
前回は世界地図のことに触れました。

今回はその続きなんですが、頭の中に世界地図をイメージしてみてください。

北から、シベリア、沿海州、日本列島、朝鮮半島、中国、台湾、ベトナム、ラオス、クメール(カンボジア)

そこから東南に行ったら、フィリピン、ジャワ(インドネシア)

西へ行ったら、シャム(タイ)、ビルマ(ミャンマー)、天竺(インド)

どうです、イメージできましたか?

では、これらの国や地域の中で17世紀前半当時に日本に交易船を派遣することができた国や地域はいったい幾つあるでしょう?

また、日本の朱印船が行っていた国や地域は?

交易船が来ていたのは、朝鮮、中国、ポルトガル(マカオ)、イスパニア(マニラ)、オランダ(ジャワ)

朱印船が行っていたのは、朝鮮、中国、ベトナム、シャム(タイ)、ジャワ(インドネシア)

一部は、沿海州、ラオス、クメール(カンボジア)、天竺(インド)

いかがですか?イメージできましたか。

これが17世紀前半の日本から見た世界なんです。

もちろん、他の世界を知らなかったなんて意味ではありませんよ。

でも、具体的な交易という形での付き合いの対象というのはここまでだったんです。

後イギリスもありますね、ポルトガルとたもとを分かつと決めた幕府は、当時の新興国家であるオランダとイギリスにポルトガルの代わりができるかと問うています。

この時イギリスは、インドからマラッカ海峡を通って日本まで行くのはとても採算が合わないという理由で、幕府の申出を断っています。

つまり、降りたのはイギリスの方だったんです。

で、これらの国々や地域の中で日本が門戸を閉ざしたのは…ポルトガルだけですね。

イスパニアはイエズス会の布教活動が主でしたから、日本がキリスト教を禁じた時点ですでに手を引いていますし、

日本の朱印船が行っていた地域は、幕府が朱印船を廃止したため、付き合いも自然消滅しただけですね。

しかし朝鮮、中国とは普通に交易していますよ。

要するに、日本に交易船を送っても採算が採れる国はちゃんと来ているし、日本も拒んだりしていないんですよね。

ついでにこの時代の世界地図では、北アメリカはイギリスとフランスの植民地があるばかりでアメリカ合衆国なんて影も形も無く、ロシアは略奪団が黒龍江目指してシベリアで薮漕ぎしてる最中、フランスはアフリカ大陸に目が向いていてアジアは興味の対象外、ドイツは小さな国に分裂していて未だ統一国家には程遠い状態。

この17世紀前半の世界で一国とトラブって出入り禁止にしただけなのに、それが世界中に門戸を閉ざしたことにされるなんて…そりゃないでしょ!

以下 次回


自分の事を少し…

2008-10-02 15:43:17 | Weblog

いつも歴史だの何だのと固いネタばかりなんで、今回は少し自分の事を書いてみます。

私は本業とは別に、月に10回ほどのケアハウスの夜間宿直員と、数カ月に一度の行政の統計調査員の二つの副業をやっています。

それぞれに自分の性分に合っているのか、ともすれば本業より身が入ってしまって、本業の方のお客さんに怒られたりしてしまうなんてことも、時たまあるんですが … ハハ

でもこの二つの副業とも自分で 「副業」 として探したわけではなく、近所の人の紹介で始めたんですよ。

この紹介してくれた人というのが、ま~、調子が良いっていうか食えないジイさんで、でも妙に憎めないところがあって気が合うんですよ。

いつも、「よ~閑人、今日も閑そうじゃの~」 なんて庭先から呼びかけるので、こっちも 「や~ジイさん」 なんて、他の人間が呼んだらタダではすまないような呼び合いをして、二人でバカ話なんかしてるんですが。

その人の仕事の誘い言葉というのがふるっていて、

「実は信用できる人間を探しとんじゃがの、アンタなら絶対信用できるから、どう、この仕事引き受けんか? ( と、まず持ち上げといて )
どうせアンタひまじゃろ?

「ウン、仕事が無うて毎日ヒマで …」 ってホットケ!

… でもしっかり当たってる …

この二つの仕事とも私自身が引き受けてから判ったんですが、実は両方ともこの人が自分でやっていた仕事だったんですよ。

「もう年金と恩給 (信じられんけど、この人は元公務員!) で収入は充分だから、自分は悠々自適でリタイアしよう、ついては自分の身代わりを …」 ってとこで、

近所でいつもヒマそうな私に目を付けたらしい …

そんな必要は無いのに、自分の代わりを紹介しようなんてトコは妙に律儀な人なんですよね。

「ジイさん、ヤリおったわ …」

でも苦笑が出るばかりで、不思議と全然腹は立たないんですよ。

ここらへんが人徳ってものですかね?

で、ヨメさんの方はと言うと、収入不安定のグータラ亭主にいくばくかの安定収入の道が開けたと、手放しの喜びよう♪

「この仕事以外にもう一つ軽いバイト紹介してもらいなよ♪、そしたら本業の仕事が無くなっても食べていけるよ♪」

って、オイ! なんちゅうことを!

亭主捕まえてバイトで稼げとは何事じゃ!? だいたいオレはいつ寝るんじゃ?

無茶苦茶言いよる… 

とまあ、そんなこんなでワイワイと楽しくやってるんですが、年に1~2度は困ったことが …

本業と副業二つの全部のタイミングが合ってしまうことがあるんですね。

こうなったら時間の割り振りがドエライことになってしまうわけで …

それが今回 …

現在、統計調査の仕事の真最中で、今日と明日、明後日は三日連続の宿直勤務、明日の朝から本業の仕事が入って来て … って …

ヒェ~

数日後は、睡眠不足でフラフラになっていることでしょう … ハハ

オ~イ、ジイさん!何か手伝え!


歴史の中の??? 何をもって鎖国という? 7

2008-09-30 10:26:13 | Weblog
「江戸幕府は本当に国を閉ざしたの?」 ということを今回から少し視点を変えて考えて行きたいと思います。

まず、「鎖国」という言自体が始めて使われたのが (造られたのが) 1801年だと以前書きました。

これは18世紀の末頃に出版されたオランダ語の本を (執筆者はドイツ人) 日本語に訳した時、書かれている言葉の概念に対応する日本語がなかったので、「鎖国」 という言葉を訳者が新たに造語したものでした。

このことは 「歴史の中の??? 何をもって鎖国という? 1」 のところで書いていますので、この項で論ずるつもりはありません。

論じたいのは、この本を書いた執筆者や訳者の頭の中にあった世界地図のことなんです。

江戸幕府は1639年の 「ポルトガル船打払い令」 によって鎖国体制を完成させたと云われています。

では、17世紀前半の世界地図で本当にそうだったのか考えるべきですね。

上記の執筆者や訳者は果たしてそうしたでしょうか?

おそらく彼等の頭の中にあった世界地図は、今まさに自分が生きている18世紀後半の世界地図だったんではないでしょうか?

また、私達自身も無意識に19世紀の世界地図でイメージしていませんか?

17世紀前半と18世紀後半では、100~150年の開きがあります。

島や大陸の形は変わらなくても、人間の勢力分布図が変わるのには充分な時間ですよね。

また、自分が属している集団によって同じ地図を見ても見え方も異なってきます。

18~19世紀頃のヨーロッパ人は、まるで熱に浮かされたように植民地獲得に狂奔していました。

また、ヨーロッパ内部の情勢も不安定で大小を問わず紛争が起こっていました。

その一員である執筆者が、ヨーロッパ人の基準で勝手に断定した見方を、断定された方がなぜすんなりと受け入れたのですかね?

18世紀頃の東北アジアの情勢はすごく安定していて、ヨーロッパ人と同じ基準なんかで考えようもなかったんですが…

もっと云えば、その当時の日本人は自分達が国を閉ざしているなんて本当に思っていたんでしょうかね?

日本人が開国ウンヌンってワアワア言い出したのは19世紀になってからで、それ以前はそんなこと言って騒いだ者はいませんでしたよ。

もし鎖国しているなんて本当に思っていたんなら、スグ乗せられて騒ぎたがるお調子モンじゃなくて、しっかりした大人がそれなりのコメントを日記にでも残していそうなもんですが…

以下 次回