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グラフィックデザイナー 桑原のぞみ

2005年02月09日 | Weblog
桑原のぞみ くわばら のぞみ
1964年東京都豊島区生まれ、短大卒業後、グラフィックデザイナー


寄稿 世界漫遊  

私の事情


海外旅行はそう度々行くほうではない。優雅なOL時代がなかった私は(万年徹夜のグラフィックデザイナーだったので)ブランド品を買いあさるでもなく、南国のビーチで寝そべるでもなく、20代(30代も?)はあっという間に過ぎていった。けれどもここ10年近くの間、私は少なくとも計1年余りを海外で過ごしてきた。

15年程前に私の家族は突然カナダに移住してしまった、私を置いて。当時、わが家は東京郊外の一戸建てに住む平凡な4人家族で、20代だった私はまだ親元に住んでいた。近い内に独立したいな、とか仕事で成功したいな、とかその内結婚もするだろうとかいう現実的な夢を持ち、このままゆるゆると平和な日々が続くことを信じて疑わなかった。

「老後は海外で過ごしたい」なんて言う両親の言葉も、現実離れしたたわ言ぐらいにしか思っていなかった。ところが我が両親はあっさりとそれを実行に移したのである。もともとそういう希望があったらしいが、実際のきっかけは弟が高校を卒業してカナダへ留学した事だった。両親はそれを尋ね、すっかり気に入ってしまったのだ。

当時、日本ではまだ老後の海外移住がそうポピュラーではなかったが、カナダの永住権をリタイアメントのカテゴリーで取得するのはそう難しい事ではなかった。ある程度財産があって、健康で多少英語かフランス語ができればいいだけだった。父はそれをファミリークラスで申請し、2年弱でそのビザを取得したのだ。

ファミリークラスと言うのは、その家族全員にビザが下りるという事だ。私も自動的に永住権を得た事になる。ビザを手にした後、「わが家は解散、それぞれ我が道をゆく」宣言を父はしたのっだった。そのビサにはいついつまでに入国しなくてはいけないという期限があって、しかも一旦そのビザで入国すれば、半年間は出国できないというルールがある。それぞれの考えでそれを使ってカナダに行くか、日本に留まるか選びなさいというのだ。

しかしその頃私はまだ青いというか先の事など全く考えられずにただ「人の老後に付きあえるか!」という心情であった。仕事や友達や遊びやモロモロの事柄でいっぱいだったのだ。そういうわけで、私は日本に留まることを選び、両親はとっととカナダ・バンクーバーへ、弟はさんざん迷った末、期限ぎりぎりで日本を去った。こうして、私のある意味苦難の生活が始まり、私のビサはその効力を失った。そして実家はカナダになった。

もともと東京生まれ東京育ち、とくに帰る故郷もない私には、バンクーバーが初めての帰るべき故郷となった。飛行機に乗って、入国審査を受ける事以外は単なる帰省と同じである。私にとってこれはもはや海外旅行ではなくなった。友達も年々増え、(日本では減り…)皆に「お帰り」と言われる。親との関係も、離れる事によって良い意味で変わってゆき、郷愁を伴ってすっかり私の地元になった。

あちらの人々も含め、「カナダの事」が私の心を占めるようになった。両親が引っ越して間もなく、私はフリーランスのデザイナーになったので、年に一度、時には数ヵ月間滞在した。英語を話すようになり自分自身の居場所を見つけると、断然あっちの方が肌に合う気がした。バンクーバーのダウンタウンは、東京に比べればとてものどかで、程よく便利でもあり、居心地が良かった。若い頃には少々退屈かもしれないが、最近はその退屈さもむしろ好ましく思える。あの美しい街への郷愁は益々強くなるばかりだ。

選択権がない、という事はある意味楽なのではないか。比較対象物があるから羨んだり卑下したりするものではないだろうか。

私の人生の中に、「他の国で暮らす」という選択権が突きつけられ、「東京」と「バンクーバー」という比較対象物が現れた。一度は日本で暮らす事を選び(そもそも当然の事だったのだが)それを全うする覚悟でいたはずだが、残念ながら人は変わるものだ。家族とのあり方も変わり、両親も年老いた。

この10年、私にも色々な変化があり、生活も変わった。東京は世界有数のエキサイティングな街だと思うが、20~30代にタップリ遊び、その頃の友人も色々な選択をして離れてゆく。私にとって、一つの時代が終わり、「東京をやりつくした」感もある。

私を日本につなぎ止めていた最後の糸が音を立てて切れた。そして私はついに、カナダに移民する決心をした。

さようなら日本! とは言うものの、個人移民として永住権を取得するのはそうたやすい事ではなさそうである。まず、私の場合はスキルドワーカーというカテゴリーでアプライする事になる。カナダの認める職種の一覧、「ナショナルオキュペイションクラシファイド」というのがある。それに記載された職業で、ある程度のキャリアを持ち、それを証明出来なくてはならない。

まずはパスマークというのがある。日本人が移民を希望する場合、現在はそのパスマークが67ポイン以上なくてはならない。学歴で何点、職歴で何点、語学力で何点、と言うふうに、ガイドに従いながら、自分のパスマークを計算するのだ。それが第一段階。幸いグラフィックデザイナーは登録されていた。私は一応10数年のキャリアがあるので、20ポイントぐらいは稼げそうだ。

しかし、それを証明するには、少なくとも10年分の職歴表を作り、各クライアントにサインをもらい、それによっていくら稼いだかを証拠物件と一緒に提出しなくてはいけない。高校、大学の卒業証明書や成績証明書、銀行の残高証明書、税金の申告書そして、カナダ政府推奨の英語テストのスコアー。語学が占める割合も大きい。スピーキング、リーディング、リスニングがすべてパーフェクトで、20ポイント強か。とても及ばない。フランス語で点数を稼ぐという手もあるが、フランス語などは手に追えるはずがない。

学歴も高ければ高いほどポイントも上がるが、私は残念ながら短大止まりで期待はできない。家族が住んでいるという事は、適性の覧に含まり、5ポイント加算される。たった、5ポイント。年齢は22~49までのポイントが一番高く、私はそうグスグスしてはいられない。

そうして、四苦八苦、パスマークが67ポイントをクリアーしたら、クリミナルレコードと健康診断書を申請書と共に、カナダ大使館に送り付ける。それもなぜかマニラに。数年前から、日本人が日本から申し込む場合、すべてマニラのカナダ大使館か請け負うことになった。マニラは処理能力のなさで有名らしく、今現在では4~5年待ちという現状のようだ。

「2002年以降に申請をされた方の書類は、2006年まで見られません!」というようなステートメントが移民局のホームページに出ているらしい。他の手を考えた方がよさそうだ。そういう訳で、とりあえず、スチューデントビザを取り、カナダに入国し、まともに英語が話せるようになり、カナダでの教育と就業経験というやつをポイントに追加して、ビザの残り期限が1年を切る前に、カナダ国内からなら受け付けられる、アメリカバッファローへ申請する、というのが私の目下のプランである。

バッファローでは2年ぐらいで審査されるようだ。それがすべてちゃんと出来たとして、取りあえず適性が認められれば、初めて面接に呼ばれる。指定の場所に出向き、イミオグラントオフィサーの尋問のような質問の嵐に、まともな英語でしっかりと質疑応答ができ、彼、もしくは彼女の機嫌を損ねなかった人だけが、「おめでとう、カナダへようこそ!」というセリフを聴くことが出来るのだ(聴きたい!今一番聴きたい言葉!)。なんて長く険しい道のりなんだろう、嫌になる。しかし、もしこれを全部きちんとやり遂げる事が出来たら、これからの人生、たいていの事は乗り越えて行けそうではないか。

無謀な賭けのような気もするが、人生の転機と言うのにふさわしい、複雑さと困難さではないか。そう自分を励ましつつ、これで最後になるかもしれない東京生活をシミジミと送りつつ、機会を狙っているのである。カナダで私を待っているであろう、愛情や友情を糧に。

世界がもっと近くなりますように!
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4 コメント

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旧友との再会 (谷道健太)
2005-03-09 14:31:31
 僕が父の駐在に伴って、バンクーバーの小学校に通い始めて3年ほどたったとき、茨城県から転校してきたばかりのF君と仲良くなりました。日本のマンガや流行にすっかり縁遠くなった僕にとって、F君が貸してくれた『ドクタースランプ』やら「イマイチ」やらの新語は、目新しく、刺激的に感じたのを覚えています。中学に入って間もなく、僕は帰国することになり、見送りに来てくれたF君とバンクーバー空港で別れました。F君の一家はカナダに移民していたので、日本に帰る予定はなかったのです。



 いつしか手紙のやりとりも途絶え、僕は20代後半のサラリーマンになっていました。そんなある日、バンクーバーに出張を命ぜられたのです。出発日は3日後。すぐさま取引先にメールを出し、旧友の電話番号を調べてもらいました。F君の番号だけが判明。不思議と彼の住所やお父さんの名前だけは忘れないでいたのです。



 果たして15年ぶりに再会したF君は、別人のようにスリムになって、黒い革のジャケットが似合う物静かな人になっていました。それより驚いたのは、彼が日本語を話さないこと。ギャスタウンの外れの洒落た店で、店に入ってくる客に知り合いを見つけては、気の利いた言葉を交わすF君。その仕草や言い回しは、なにひとつ違和感のないバンクーバーの人でした。



「一度も日本を訪れていない」とF君は言いました。中学時代、駐在員の息子たちが櫛が抜けるように帰国するなか、移民の息子のF君はバンクーバーに留まり、土地の人になっていきました。彼があえて日本に行かない、その思いに想像をめぐらしたとき、自分もこの15年間バンクーバーを訪れていないことに気づきました。



 お互いの変貌に当惑し合いながらも、人は運命に翻弄されて、別人になっていくものなのだと、とめどなくと語り合いました。



 バンクーバーの人になった桑原さんがどんな佇まいをみせているのでしょう。いつかそんな桑原さんをバンクーバーで訪ねたいものです。
返信する
かえっておいで。 (ちか)
2005-04-21 14:15:18
のぞみ、げんきか?

大変そうやなあ。でも、ええお話やった。

深い気持ちで落ち着いているのぞみの姿を初めてみました。いつもいろんな事考え過ぎているのぞみの姿ばっかしやからなあ。文章にするって不思議な魔法みたいなもんやな。そーか、そんなこと考えとったんか。なんて自分でもびっくりするし人にも伝わるもんな。まあ、これからバンクーバーは一番気持ちのいい季節。なにか新しい事を始めるにはもってこいでっせ。また、ハイナンチキン食べにいこ。うちの息子もよだれ1リットルぐらい流しながらまってんでー。とりあえず、今、無理を重ねて体をこわさないようにだけお気をつけあそばせ。それでは。じゃん。

one of your vancouver friends
返信する
ご無沙汰です。 (大将)
2008-08-26 01:26:08
大変ご無沙汰しております。
お元気ですか?

たぶん、クワだよな~?
このコメント見たら、返信頂ければ幸いです。

お山の大将
返信する
連絡ください (noriyuki jimbo)
2012-01-24 01:32:36
ノリユキです
覚えていますか
実が昨日亡くなりました。
もし、連絡が取れるなら連絡頂けますか
返信する

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