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刑法論点

刑法論点

2006年03月03日 | 刑法各論ー総則
「人」の始期
1 人の始期は出生である。母体に宿された胎児は、母体の陣痛を経て次第に母体の外に出されて、やがて完全に母体と分離し、最後には独立して呼吸をするにいたる。この過程のどの時点で、刑法上、胎児から人に変わることになるかが問題となる。すなわち、どの段階にいたったらその生命体に対する攻撃が堕胎罪でなく人に対する殺人罪になるのかという問題である。
  生命・身体の罪は、独立の生命を有する個体の生命・身体を保護法益とするものであるから、「胎児」が母体から独立して直接に侵害の対象となった以上は「人」として保護に値するものと解する。
  よって、母体から一部でも露出した時点に「人」になると考える(一部露出説、判例に同旨)。
  この点、一部露出説には、いったん露出後に母体内に戻ってしまったら、人でなくなってしまうとの批判がある。しかし、そのような特殊な場合の不合理よりも、母体からほぼ全身が露出した嬰児を惨殺するのが堕胎であること(全部露出説)の不合理の方がはるかに大きい。
2 では、母体から一部露出すれば、全て「人」になるのであろうか。母体外では生存可能性のない段階の生命体の生命を絶つ行為も殺人なのであろうか。
  思うに、独立の生育能力を欠く以上は「母体による保護」が刑法で守るべき法益であり、堕胎罪の対象となるべきである。
よって、「人」に当たらないものと解する。
3 次に、人の終期は、死亡である。人は、死亡によって生命を失い、その身体も死体となり死体損壊罪の客体となるに過ぎない。そこで、死亡の時期の確定が重要な問題となる。
  思うに、心臓が停止し、全身の細胞に酸素が供給されなくなったら細胞が死滅するので死亡と考えるべきである。
  とすれば、自発呼吸の停止、脈の停止、瞳孔反射機能等の停止の3点から心臓の死を判定すると解する(三兆候説、判例に同旨)。
  この点、いくら心臓が動いていても脳の機能が失われたなら、死亡と考えるべきだという脳死説も臓器移植法の制定により有力化しつつある。しかし、脳死に関する国民の規範意識は明らかではないこと、また、血液が循環しまだ体温の温もりの感じられる生命現象の残った個体を死体と割り切るには、まだ抵抗感が残るため、この説は採れない。