こんぱんは、先ずは、次のメルマガ二本を読んでいただきたい。
①美濃口担氏のコラム:「外から見る日本のイジメ」
②成田好三氏のコラム:「いじめ根絶キャンペーンのまやかし」
~このコラム、二本共、日本という国での<子供>の定義にある独特のファンタジー
や特殊性に触れている。【因みに、このコラムは、両方共、私が愛読している萬晩報のものである】
言われてみれば、確かにそうだ。
戦後日本は、アメリカからの半ば押し付けの「民主主義教育」を導入し、アメリカ
様式の暮らしを手に入れるため、キャッチアップを目標に、「平和なファミリー」を
基軸とした穏健教育に大きく舵を切った。
すなわち、父も母も先ずはファミリーありき…の立場で、父は家庭を経済的に支え
るべく「企業戦士」と化し、母は家庭の中で主に子供たちの世話をするために「家政
婦」のような振る舞いをすることを奨励された。父系社会から母系社会へ…さらに、
子供は<子供界>の良き住人であることを期待する有形無形のプレッシャーがあった
ことも否定できない。
私は、『巨人の星』世代であるが、ある時、亡き父が私に向かって語った言葉につ
いて、決して忘れることはできない。
父は、私の頭を撫でながら言ったものだ。
「なぁ、オマエ…お父さんは、星一徹みたいなことはできない…我が子にあんな過酷
なトレーニングをさせるなんて…ワシには理解できん!」
子供心にも、この言葉を耳にした私は、何か拍子抜けしたような気分だった。
モーレツオヤジを期待していた訳ではないが、昔よく居たような"昭和の頑固オヤ
ジ"の面も見せて欲しかったからだ。
それでも、子供の頃、私は、両親に認められ褒められたい一心で、父と母の言いつ
けを守り、ついには、両親の意を汲み先取りして振る舞う"優等生"を演じるようにも
なった。【心のどこかで、これは本当の自分の姿ではない…と、何となくそう思って
もいた】親は子供のことを常に気にかけ、子供は親の方ばかりに注意が行く。これは
一見、平和的な光景のように見えるが、反面、とても危険なものでもあった。
成田好三氏の指摘にあるように、"優等生"の生活を送ろうとすればするほど、子供
は苦しくなっていく。何故なら、"優等生"であればあるほど、家庭と学校以外の外の
世界との接点がどんどんなくなっていくからだ。例えば、学業成績が学校一になって
も、また、スポーツか何かで学校一になっても、それは、ゴールではないからだ。
"優等生"であればあるほど、次から次へと目標という名の期待をかけられ、続々と
新たなハードルが目の前に設置される。ある意味で、エンドレスの世界なのである。
当時は、「燃え尽き症候群」なんて言葉もなかったから、悩んでいる暇もなかった。
今にして思えば、私はイジメを経験したことはないが、何となく周囲から「浮いて
いる」という感覚はあった。自分が変わり者であることも自覚はしていた。なのに、
「なんでこうも、周りになじめないのか?フィットしないのか?」と、禅問答のよう
な想いが、頭の中を堂々巡りしていた。能天気とも言えるこの性格のお蔭で、私は、
運良くイジメからは無縁だっただけなのかもしれない。けれども、有形無形のプレッ
シャーにさらされるこの<子供界>というのは、「異界」であり居心地のあまり良く
ないものだ…という感慨が途絶えたことはない。だから、私は早く大人になりたかっ
たし、家庭やこの<子供界>から早く自由になりたかった。
さて、現代は、社会で先ず「終身雇用制」が崩壊し、企業戦士としての父親は存在
しつつも、家庭より自らの保身第一(と言っても、父親が倒れたら、結局は家庭運営
もままならなくなるのだが)に勤しむ「企業戦死」と裏腹のリスキーな環境で働くこ
とを余儀なくされるようになった。
一方、母親も、女性として生きることより「社会進出」が顕著になり、先ず自分の
幸せを貪欲に追求する姿勢の人が増えた。ある意味、家庭という器の内部からの人材
流出である。
他方、子供たちは相変わらず<子供界>に縛り付けられたまま。
とっくの昔に<子供界>の内実が空洞化しているにも関わらず、親たちは、それが
未だに存在しているという<共同幻想>に乗っかったままだった。
追い討ちをかけたのは、インターネットの普及だと思う。
私は、インターネット肯定派であるが、あまりにも性急かつ無秩序に普及してしま
ったことの功罪は問われるべきだと考えている。【インターネットの前に携帯電話の
大衆化があったが、あれは前触れだったと言うべきだろう】
そうなのである。
国民の殆どが無限定に信じ込んでいた<子供界>というコンセプトは、社会主義国
のファンタジーにも似た、「甘くとろけるような夢」であったに違いない。
それが、情報の爆発的浸透のお蔭で、呆気なく崩壊した東欧諸国のように、今や、
急に、「蚕のように真綿でくるまれ守られた」温かいものではなく、むしろ、無理や
り封じ込めていた<現実界>の反射像だった…ということが、誰の目にも明らかにな
ってきた。
こう考えれば、昨今の訳の分らない事件も、理解できる気がしてくるから、不思議
なものだ。
だからという訳ではないが、これだけは子供たちに言っておきたい。
今まで、君たちは、<子供界>という、ありもしない空想の世界=誰の耳にも心地
良いファンタジー=の中に縛り付けられ生かされてきたんだよ…だけど、それを守る
大人たちがある時は悪さをし、また、少々疲れてしまい、最早、そのファンタジーを
維持し守ることさえままならない、余裕のない社会になってしまった。私たち大人は
その責任を逃れられないけど、これからは、君たちも自分の目で見耳で聞き頭で考え
自立して生きていってもらいたい…勝手なお願いだけど、これが本当の現実だ。だか
ら、学校や子供の世界が全てだとは思わないで欲しい。ネットとかで見聞きしている
と思うけど、世界には多種多様な「現実」がある。決して、日本だけが現実なのでは
ない。こんな狭い国や社会の中で起こっていることだけに左右されるな。世界は広い
んだよ、地球はとてつもなく大きいんだよ…だから、そんなちっぽけな<結界>での
出来事なんて、君たちの将来の人生時間を考えれば微々たるものだ…ということを、
決して忘れないで。これから、果てしない<可能性>が広がっているのだから。
サッカーのオシム監督が、「ライオンに襲われた兎が肉離れを起こしますか?」と
名言を吐いたけど、君たちも、「<子供界>というまやかしからイジメを受けたから
といって、自分の<実人生>を放り出す…なんてバカなことは考えないよね?」と、
これだけは言っておきたい。人間も動物の一種だから、危ないと思えば逃げればイイ
んだし、嫌なら出て行けばイイんだよ。だって、学校へ行かないからって、命まで奪
われはしないだろ?自分の身を守るための「登校拒否」ならアリだと思うよ、むしろ
自分を正直に見つめないで、ダチョウのように現実から目を背ける【ダチョウは危機
を感じると、砂に頭を突っ込む習性があります】ことだけは止めてもらいたい。この
延長線上にある自殺などもってのほかだ。親兄弟が悲しむから自殺するな…と言って
る訳ではありません。自殺は、君という素晴らしい<存在=命=可能性>に対する、
最大の裏切りであり最高の冒瀆だと思うからです。人として、この世に生まれ出た以
上、必ずあなたならではの場所=存在証明の空間=人間価値がある筈です。君たちは
まだ何も達成していないし得ていないんだから、それを掴むよう追い求めて下さい。
カッコ良いことばかり書いたけど、このオジサン自身、まだ掴んではいません。
情けない話だけど、これが現実なのだから、オジサンは、死ぬまでもがき続けるの
でしょう。でも、必死にもがいている間は、溺れないよね。その時掴んだ藁が黄金に
化けるってこともある。
さあ、君たちと競争だ!
何故だか分りませんが、こんな言葉が迸り出てきました。
とにかく、「学校という異界での自殺」というパラドックスのような事件。
このことは狂おしいまでに悲しいし、胸をかきむしられるように痛ましい。
イジメはこの世から無くならないだろうけど、自殺は無くなるよね。
少なくとも、止められる…とは思いたい。
※これを書いている最中、NHKで「日本の、これから」と題した公開討論番組をやっ
ていた。
主に、ネット社会との付き合い方を論じたものだったが、最も意外に思ったのは、
子を持つ親たちがまだ庇護の下にある子供たちに対し毅然とした態度を取れず、半ば
迷い悩みながらも、手をこまねいて放置=現状維持していることだった。
NHKにも投書したが、ネット社会というのは幻想ではないのだ。
国家なり民間企業が通信環境のインフラを整え、その上に、コンテンツを発信した
い人が自らアクセスし(これにもお金がかかっている)サーバーを介して載せる…と
いう、かなり面倒くさい作業が裏で行なわれている。【これは、PCからのアクセスに
よるものだけど、携帯からのアクセスも仕組みはほぼ同じ】
だから、子供がネットにアクセスする時、そのための通信料金は誰かが=殆どの場
合、親が肩代わりしているのだ。
機器のアナロジーから電話の延長線上で捉えられることが多いが、ネットへのアク
セスという行為は、自動車社会と対比して考えたほうが分りやすい。
いっそのこと、自動車免許と同じように、携帯電話は16歳からPCは18歳から持てる
ようにしてはどうだろうか!?
マ、PCも携帯も電気がないと動かない通信回線上のツールでもあるから、通信料金
を払わなければ簡単に止められるのだけど。
現代の風潮に逆行する…ということなら、せめて、IPアドレスや「識別と認証」シ
ステムによるIDや年齢の公開はすべきだろう。
子供たちに、決して大人だけのものではないが「オトナの世界」であることを自覚さ
せるためにも。
実際、携帯を触りながら道を歩いていたり、自転車に乗っている小中学生は少なく
ない。
真に「子供の安全」を願うならば、これらは即刻禁止すべきなことは明らかだろ
う。【敢て、罰則も設けるべきだ…とも思う】
そろそろ、ネットにコンテンツを載せる発信者に対しても、また、ネットにアクセ
スしコンテンツを閲覧する受信者に対しても、その両者への何らかの「規制」が考え
られて然るべき頃合だと思うが、いかがだろうか!?
PCと携帯とネットの結合によってますます進化するネット社会というのは、あの
「コンビニ騒動」に似ている感すらある。
コンビニの登場で核家族が個人社会に分解され、今、パーソナルメディアとしての
ネットが、さらに、個人個人を分断しつつもあるかのように見える。
今、小中学生の友だちの数が少なくなっているとも聞く。
地域や地元とのつながりが薄れ、家族間でも何かギクシャクした雰囲気があるよう
だ。
これも、ネット社会の<負の遺産>ではないだろうか!?
このままでは、「子供界」という異界とインターネットの共存は永遠に無理だし、
所詮は荒唐無稽な発想だという気もしている。

①美濃口担氏のコラム:「外から見る日本のイジメ」
②成田好三氏のコラム:「いじめ根絶キャンペーンのまやかし」
~このコラム、二本共、日本という国での<子供>の定義にある独特のファンタジー
や特殊性に触れている。【因みに、このコラムは、両方共、私が愛読している萬晩報のものである】
言われてみれば、確かにそうだ。
戦後日本は、アメリカからの半ば押し付けの「民主主義教育」を導入し、アメリカ
様式の暮らしを手に入れるため、キャッチアップを目標に、「平和なファミリー」を
基軸とした穏健教育に大きく舵を切った。
すなわち、父も母も先ずはファミリーありき…の立場で、父は家庭を経済的に支え
るべく「企業戦士」と化し、母は家庭の中で主に子供たちの世話をするために「家政
婦」のような振る舞いをすることを奨励された。父系社会から母系社会へ…さらに、
子供は<子供界>の良き住人であることを期待する有形無形のプレッシャーがあった
ことも否定できない。
私は、『巨人の星』世代であるが、ある時、亡き父が私に向かって語った言葉につ
いて、決して忘れることはできない。
父は、私の頭を撫でながら言ったものだ。
「なぁ、オマエ…お父さんは、星一徹みたいなことはできない…我が子にあんな過酷
なトレーニングをさせるなんて…ワシには理解できん!」
子供心にも、この言葉を耳にした私は、何か拍子抜けしたような気分だった。
モーレツオヤジを期待していた訳ではないが、昔よく居たような"昭和の頑固オヤ
ジ"の面も見せて欲しかったからだ。
それでも、子供の頃、私は、両親に認められ褒められたい一心で、父と母の言いつ
けを守り、ついには、両親の意を汲み先取りして振る舞う"優等生"を演じるようにも
なった。【心のどこかで、これは本当の自分の姿ではない…と、何となくそう思って
もいた】親は子供のことを常に気にかけ、子供は親の方ばかりに注意が行く。これは
一見、平和的な光景のように見えるが、反面、とても危険なものでもあった。
成田好三氏の指摘にあるように、"優等生"の生活を送ろうとすればするほど、子供
は苦しくなっていく。何故なら、"優等生"であればあるほど、家庭と学校以外の外の
世界との接点がどんどんなくなっていくからだ。例えば、学業成績が学校一になって
も、また、スポーツか何かで学校一になっても、それは、ゴールではないからだ。
"優等生"であればあるほど、次から次へと目標という名の期待をかけられ、続々と
新たなハードルが目の前に設置される。ある意味で、エンドレスの世界なのである。
当時は、「燃え尽き症候群」なんて言葉もなかったから、悩んでいる暇もなかった。
今にして思えば、私はイジメを経験したことはないが、何となく周囲から「浮いて
いる」という感覚はあった。自分が変わり者であることも自覚はしていた。なのに、
「なんでこうも、周りになじめないのか?フィットしないのか?」と、禅問答のよう
な想いが、頭の中を堂々巡りしていた。能天気とも言えるこの性格のお蔭で、私は、
運良くイジメからは無縁だっただけなのかもしれない。けれども、有形無形のプレッ
シャーにさらされるこの<子供界>というのは、「異界」であり居心地のあまり良く
ないものだ…という感慨が途絶えたことはない。だから、私は早く大人になりたかっ
たし、家庭やこの<子供界>から早く自由になりたかった。
さて、現代は、社会で先ず「終身雇用制」が崩壊し、企業戦士としての父親は存在
しつつも、家庭より自らの保身第一(と言っても、父親が倒れたら、結局は家庭運営
もままならなくなるのだが)に勤しむ「企業戦死」と裏腹のリスキーな環境で働くこ
とを余儀なくされるようになった。
一方、母親も、女性として生きることより「社会進出」が顕著になり、先ず自分の
幸せを貪欲に追求する姿勢の人が増えた。ある意味、家庭という器の内部からの人材
流出である。
他方、子供たちは相変わらず<子供界>に縛り付けられたまま。
とっくの昔に<子供界>の内実が空洞化しているにも関わらず、親たちは、それが
未だに存在しているという<共同幻想>に乗っかったままだった。
追い討ちをかけたのは、インターネットの普及だと思う。
私は、インターネット肯定派であるが、あまりにも性急かつ無秩序に普及してしま
ったことの功罪は問われるべきだと考えている。【インターネットの前に携帯電話の
大衆化があったが、あれは前触れだったと言うべきだろう】
そうなのである。
国民の殆どが無限定に信じ込んでいた<子供界>というコンセプトは、社会主義国
のファンタジーにも似た、「甘くとろけるような夢」であったに違いない。
それが、情報の爆発的浸透のお蔭で、呆気なく崩壊した東欧諸国のように、今や、
急に、「蚕のように真綿でくるまれ守られた」温かいものではなく、むしろ、無理や
り封じ込めていた<現実界>の反射像だった…ということが、誰の目にも明らかにな
ってきた。
こう考えれば、昨今の訳の分らない事件も、理解できる気がしてくるから、不思議
なものだ。
だからという訳ではないが、これだけは子供たちに言っておきたい。
今まで、君たちは、<子供界>という、ありもしない空想の世界=誰の耳にも心地
良いファンタジー=の中に縛り付けられ生かされてきたんだよ…だけど、それを守る
大人たちがある時は悪さをし、また、少々疲れてしまい、最早、そのファンタジーを
維持し守ることさえままならない、余裕のない社会になってしまった。私たち大人は
その責任を逃れられないけど、これからは、君たちも自分の目で見耳で聞き頭で考え
自立して生きていってもらいたい…勝手なお願いだけど、これが本当の現実だ。だか
ら、学校や子供の世界が全てだとは思わないで欲しい。ネットとかで見聞きしている
と思うけど、世界には多種多様な「現実」がある。決して、日本だけが現実なのでは
ない。こんな狭い国や社会の中で起こっていることだけに左右されるな。世界は広い
んだよ、地球はとてつもなく大きいんだよ…だから、そんなちっぽけな<結界>での
出来事なんて、君たちの将来の人生時間を考えれば微々たるものだ…ということを、
決して忘れないで。これから、果てしない<可能性>が広がっているのだから。
サッカーのオシム監督が、「ライオンに襲われた兎が肉離れを起こしますか?」と
名言を吐いたけど、君たちも、「<子供界>というまやかしからイジメを受けたから
といって、自分の<実人生>を放り出す…なんてバカなことは考えないよね?」と、
これだけは言っておきたい。人間も動物の一種だから、危ないと思えば逃げればイイ
んだし、嫌なら出て行けばイイんだよ。だって、学校へ行かないからって、命まで奪
われはしないだろ?自分の身を守るための「登校拒否」ならアリだと思うよ、むしろ
自分を正直に見つめないで、ダチョウのように現実から目を背ける【ダチョウは危機
を感じると、砂に頭を突っ込む習性があります】ことだけは止めてもらいたい。この
延長線上にある自殺などもってのほかだ。親兄弟が悲しむから自殺するな…と言って
る訳ではありません。自殺は、君という素晴らしい<存在=命=可能性>に対する、
最大の裏切りであり最高の冒瀆だと思うからです。人として、この世に生まれ出た以
上、必ずあなたならではの場所=存在証明の空間=人間価値がある筈です。君たちは
まだ何も達成していないし得ていないんだから、それを掴むよう追い求めて下さい。
カッコ良いことばかり書いたけど、このオジサン自身、まだ掴んではいません。
情けない話だけど、これが現実なのだから、オジサンは、死ぬまでもがき続けるの
でしょう。でも、必死にもがいている間は、溺れないよね。その時掴んだ藁が黄金に
化けるってこともある。
さあ、君たちと競争だ!
何故だか分りませんが、こんな言葉が迸り出てきました。
とにかく、「学校という異界での自殺」というパラドックスのような事件。
このことは狂おしいまでに悲しいし、胸をかきむしられるように痛ましい。
イジメはこの世から無くならないだろうけど、自殺は無くなるよね。
少なくとも、止められる…とは思いたい。

※これを書いている最中、NHKで「日本の、これから」と題した公開討論番組をやっ
ていた。
主に、ネット社会との付き合い方を論じたものだったが、最も意外に思ったのは、
子を持つ親たちがまだ庇護の下にある子供たちに対し毅然とした態度を取れず、半ば
迷い悩みながらも、手をこまねいて放置=現状維持していることだった。
NHKにも投書したが、ネット社会というのは幻想ではないのだ。
国家なり民間企業が通信環境のインフラを整え、その上に、コンテンツを発信した
い人が自らアクセスし(これにもお金がかかっている)サーバーを介して載せる…と
いう、かなり面倒くさい作業が裏で行なわれている。【これは、PCからのアクセスに
よるものだけど、携帯からのアクセスも仕組みはほぼ同じ】
だから、子供がネットにアクセスする時、そのための通信料金は誰かが=殆どの場
合、親が肩代わりしているのだ。
機器のアナロジーから電話の延長線上で捉えられることが多いが、ネットへのアク
セスという行為は、自動車社会と対比して考えたほうが分りやすい。
いっそのこと、自動車免許と同じように、携帯電話は16歳からPCは18歳から持てる
ようにしてはどうだろうか!?
マ、PCも携帯も電気がないと動かない通信回線上のツールでもあるから、通信料金
を払わなければ簡単に止められるのだけど。
現代の風潮に逆行する…ということなら、せめて、IPアドレスや「識別と認証」シ
ステムによるIDや年齢の公開はすべきだろう。
子供たちに、決して大人だけのものではないが「オトナの世界」であることを自覚さ
せるためにも。
実際、携帯を触りながら道を歩いていたり、自転車に乗っている小中学生は少なく
ない。
真に「子供の安全」を願うならば、これらは即刻禁止すべきなことは明らかだろ
う。【敢て、罰則も設けるべきだ…とも思う】
そろそろ、ネットにコンテンツを載せる発信者に対しても、また、ネットにアクセ
スしコンテンツを閲覧する受信者に対しても、その両者への何らかの「規制」が考え
られて然るべき頃合だと思うが、いかがだろうか!?
PCと携帯とネットの結合によってますます進化するネット社会というのは、あの
「コンビニ騒動」に似ている感すらある。
コンビニの登場で核家族が個人社会に分解され、今、パーソナルメディアとしての
ネットが、さらに、個人個人を分断しつつもあるかのように見える。
今、小中学生の友だちの数が少なくなっているとも聞く。
地域や地元とのつながりが薄れ、家族間でも何かギクシャクした雰囲気があるよう
だ。
これも、ネット社会の<負の遺産>ではないだろうか!?
このままでは、「子供界」という異界とインターネットの共存は永遠に無理だし、
所詮は荒唐無稽な発想だという気もしている。
