珈琲貴族の文学と仏教のブログ^^
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数日前から、また「枕草子」を読み出した。言わずと知れた清少納言の作である。
いろいろな書物に読み飽きると決まって「枕草子」か司馬遷の「史記」を読み返している。
こんなに読んでも、飽きたことがない。そして、いつも新鮮なのである。
平安文学の中で、清少納言と和泉式部の二人は、特に愛しては止まない好きな作家である^^。
清少納言と恋をしてみたいと思うし、和泉式部と一夜を過ごしてみたいとも思うくらい好きである^^。
紫式部の「源氏物語」は、ベストセラー&ロングセラーであるが、この「枕草子」も負けずのロングセラーである。初稿が996年と言うから、すでに1000年を超えている。
もし、当時の出版から現在まで有効な印税というものがあれば、二人とも京都御所を凌ぐ、大邸宅を構えていたに違いない^^。琵琶湖が、邸宅の池になっていたかもしれない^^(おいおい^^、そんな馬鹿な^^!)!
学校では、第一段の「春は曙、夏は朝青龍・・・・」(おいおい^^!)でなくって、「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、・・・・・」だけを教える。それで「枕草子」総じてしまう。面白いわけがない。この「枕草子」は、そんな叙情の随筆ではないだけに、そこだけに集中する現在の国語教育がとても残念である。
その「枕草子」に、清少納言が男性論を書いている段がある。
男をばっさりと切り捨てる清少納言の切り口が、実に小気味いい^^!
今も昔も、女性に掛かると男はバカに見えるらしい^^。
第268段(大系)・・・原文
男こそ猶いとありがたく、怪しき心地したるものはあれ。いと清げなる人をすてて、にくげなる人をもたるもあやしかし。おほやけ所に入りたちする男、家の子などは、あるが中に、よからんをこそは選りて思は給はめ。及ぶまじからん際をだに、めでたしと思はんを、死ぬばかりも思ひかくれかし。人のむすめ、まだ見ぬ人などをも、よしと聞くをこそは、いかでとも思ふなれ。かつ女の目にも、わろしと思ふをおもふは、いかなる事にかあらん。
かたちいとよく、心もをかしき人の、手もよう書き、歌をもあはれに詠みておこせなどするを、返事はさかしらにうちするものから、寄りつかず、らうたげにうち泣きて居たるを、見捨てて往きなどするは、あさましうおほやけはらだちて、眷屬の心地も心憂く見ゆべけれど、身のうへにては、つゆ心ぐるしきを思ひ知らぬよ。
↓
現代語訳
男というものは、何とも類なき奇妙な心を持っている。たいそう美しい女を捨てて、醜い女を妻としているのもおかしなことだ。朝廷に出入りする男やその一族などは、数多くある女の中からとくに美しい女を選んで愛されたらよいのに。相手が自分には及びもつかない高貴な身分の女であっても、すばらしいと思うのなら命を懸けても強く懸想するのがよい。どこかの息女とか、まだ見たこともない未婚の女などでも、美しいと聞けば、どうにかしてわがものにしたいと思うものだ。それなのに、女の目から見てもよくないと思う女を愛するのは、どういうわけなのだろう。
顔かたちがとてもよく、気立てもよい女の人で、字もきれいに書き、歌も趣豊かに詠み、手紙などで恨み言を言ってきても、男は、その返事はうまくするものの女の許へは寄りつきもせず、女がいじらしく嘆いていても、見捨てて他の女の所に行ったりするのは、あまりのひどさにあきれて、人ごとながら腹が立ち、傍目にもわびしく見えるのに、男は自分自身のふるまいについて、少しも相手の女の辛さなど意識していないものよ。
あははははは、清少納言!万歳かな^^!!
「夏は夜 秋は夕暮れ 本を読み 冬は早朝(つとめて)枕抱きしめ」(おいおい^^)
「千年の 時を超えたる 女の記 打てば響いて 今も聞こえん」
「男とは 心もとなき ものなれど 女の内は 恋しきものかな」