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ぴろ姐の「日々是反省」

菊地裕子がお送りする、人生泣き笑いブログ

2016新人公演“私設”応援團員のつぶやき

2016年07月11日 | レポート(公演など)
 7月になってしまったが、とにかくお約束したので、日本フラメンコ協会主催の新人公演(6月17〜19日)で気になった出演者(バイレソロ)へのコメントをつらつらと綴ってみる。

 まずお断りせねばならぬのは、今回、私は奨励賞の選考委員ではなく、また、アクースティカの新人公演応援團も終了したということがあって、ステージをかなり気楽に見ていたということ。
 選考・評価という枷がないぶん、純粋に自分の楽しみのために見ようと思っていた。それが成功したかどうかはともかく、選考委員席に座っている時とはまた別の、というか、昔に戻ったような、新鮮な気持ちで見ることができた。ただ、そもそも評価しようと思って座っていたわけではないので、詳細なメモなどない。
 正直、原稿にするにはかなり気が引けるのだが、とりあえず暗闇で書いた、ミミズが這ったような字の短いメモを頼りに、記憶に刻まれた出演者についてだけ、少しだけ書いておきたい。

<バイレソロ>
 バイレに関しては、今回、様々な面白さを再発見した。乱暴だけど、フラメンコを志す人には、①好きなフラメンコに突き進む人、②フラメンコ的な雰囲気に包まれた舞台を目指す人、③フラメンコっぽいことに携わっていたい人、といった3つのタイプがあるような気がしていた。もちろん、複合的な人も稀にいるけれども、私自身は、年々、①のタイプに目がいくようになっていた。
 ところが今年、「新人公演を楽しむ」というコンセプトで臨んだせいか、どのタイプも面白かったのが意外だった。「フラメンコが面白い」というよりも、「フラメンコをやろうという人々が面白い」みたいな。新人公演は、やはりそういう場なのだと、あらためて思ったりして。それぞれの思いを尊重したいという気になった。不思議だなあ。選考とか評価ということになると、もっと心が狭くなるんだけど(笑)。
 あ、それとは別に、いただいたプログラムに「唄振り!」とのメモが多い。これは多くの方が唄振りになるとテンションが落ちたり、まったく唄と無関係に踊っているケースが多いという印象があったからだと思う。常日頃の稽古はギタリストとだけやっていることが多いからだろうとは思うけれども、唄振りの貧相さをどうにかするには、やっぱり基本的にカンテを聴くしかないのだろうと思います。ええ。それしかないですよ本当に。

 そんなわけで、私の記憶とメモに残った方々について、出演順に書きます。奨励賞やラス・ミナスの選考については触れませんので、悪しからずご了承のほど。

<6月17日>
1.長嶺晴香「ソレア・ポル・ブレリア」
 トップバッターの緊張を感じさせない、堂々とした踊り。体の使い方が上手いが、時々コンパスが乱れるのが惜しい。踊りがダンス的なのが気になる。あと、力配分が平板になりがち。頑張れ!

2.屋良有子「ソレア」
 誰のようでもない、オリジナリティの凄さを感じる踊り。胸がすくキレの良さ。私は大好きだけど、問題は、自らパターン化してしまうこと。自分で自分を超えていく頃合いか。しかし素晴らしい逸材!

8.久保田晴菜「アレグリアス」
 年々、力をつけてきていることを感じさせる。今回が一番良かった。体の使い方も素晴らしい。リズムも心地よい。あとは、あなたが感じる「フラメンコ的」なことを深めていってほしい。

9.本田恵美「アレグリアス」
 フラメンコにこんな色んな面白さが!というぐらい楽しい演目。これでもかというぐらい沢山のフラメンコならではの“技巧”があって、この人のチャレンジ精神は本当に凄い。堪能しました!

13.大塚歩「アレグリアス」
 全体的にとても好い雰囲気。けれども、小粒な印象を受ける。恐がり屋さん? もう少しはっちゃけると、ずっと魅力的な踊りになると思う。色んなアレグリアスを沢山聴いてみて。

16.加藤誠子「シギリージャ」
 厳しさがあって、私は好きだった。でも盛り上がりが今ひとつ。惜しいけど、そういう人は沢山いるのだよ。うんと勉強して、うんと踊って。稽古も勉強も鍛錬も、絶対にあなたに応えてくれるから!

20.松本千晶「ソレア・ポル・ブレリア」
 とてもキレがあって、足のメリハリがgood! 期待して見ていたが、後半、やや息切れの感。力配分がうまくいかなかったかな? 年々成長していると思います。伸びしろに期待!

21.牛田裕衣「ソレア」
 力の使い方がフラメンコ。ブラソ。としかメモがない。けれども、これは私がバイレに対する時に使う、最大級の褒めメモ言葉です。どうぞ自分の感覚を信じて、精進してください。

<6月18日>
10.小西みと「グアヒーラ」
 踊り手として非常にバランスが取れていて美しい。マリリン・モンローがバタ・デ・コーラにアバニコ持ってるような色気があるが、少し安っぽさを感じる。好みが分かれるところかな。私としては、ギリギリな危機感を持ってほしいのだけど。

11.古迫うらら「ソレア」
 大変にフラメンカ。小柄だけどエネルギー大。でも、決めの時にそのエネルギーが逃げていくのがもったいない。大きく見せようとして全部開放してはだめ。もっと深く、もっと重く。期待してます!

12.長本真由「ソレア・ポル・ブレリア」
 力強く、緩急のある踊り。この曲種としてはかなり好い線だった。けれども、惜しいかな、一杯いっぱいの感じになった。もう少し余裕がほしい。ほんと、あともう一歩!

14.黒須信江「ソレア・ポル・ブレリア」
 この方は本当に実力のある踊り手だと思う。メモがぐじゃぐじゃに重なってて読めないけど(汗)、読めるとこだけでも「すばらしい」「コンパス感」「すごい」とある。もう本当にそういうことです。Ole!

19.蜂須夕子「ソレア」
 今回、モイ・デ・モロンの唄で踊った人が沢山いたが、彼女はその唄に負けない踊りをした数少ないうちの一人。だが、まだ足りない。強さが。菊地的には、こんなにバイレに理想的な体型はないと思っている。もっとガスガスやって!我が儘と黒さと温かさと優しさは十分に共存できるのです。

21.漆畑志乃ぶ「アレグリアス」
 メモに「バタが美しい!」と。その言葉だけで思い出すほど、バタ・デ・コーラの美しさに感動した。バタの美しさは扱いの美しさだけでなく、その所作がコンパスに入っているかどうか。いや、彼女は本当に素晴らしかった!

22.藤本ゆかり「シギリージャ」
 非常に厳しさを感じる踊り。コンパス感が素敵。私、大好きなんだけど、惜しむらくは大舞台での見せ方が今ひとつ。もっと見せ方の工夫がほしい。
※そんなこと、フラメンコと何の関係が…と思われる向きもありましょうが、新人公演が大舞台で行われる以上、観客は大舞台でのものごととして見るので、やっぱりそれは舞台に立つ者として意識しなくてはならぬと思うのです。フラメンコであることと、舞台人であることは、決して一緒にはならない、個々人のなかで消化していかねばならぬ問題であろうと、菊地は思っています。かつて、アントニオ・カナーレスやサラ・バラスにも質問したことがあります。「あなたのフラメンコは自由だけど、オブラ(劇場作品)の場合は自由ではないですね?それはフラメンコと言えますか?」。答えがどうだったかは、ここには書きません。あなたが大きな舞台を目指すのであれば、ここは自ら考えるべきところだと思うから。でも、そうでなければ、もっと違うアプローチの仕方がある。あなたがいずれを選択するにせよ、それがあなた自身のうちから出た答えであれば、私はそれで良いと思います。

25.池田理恵「ソレア・ポル・ブレリア」
 コンパス感のある踊り。フラメンコらしさが感じられる。しかし、こういう曲種でこういう振付だと、かなり緩急をつかないと平板になる恐れが。シェネにキレがもう少し欲しかった。

26.黒木珠美「ソレア」
 成熟したフラメンコ舞踊の魅力。踊り巧者だけど、パンチがない。あなた自身を吐露するような瞬間が欲しい。ぐっと心に迫って来る瞬間が。だって、ソレアじゃないですか。怖がらないで。

30.津田可奈「ソレア」
 非常にコントロールの効いた踊り。色々、申し分なし。後は個性を磨くことでしょう。自分の得意なこと、やりたいこと、訴えたいこと、突き詰めたいこと……etc. ともあれ素敵でした!

31.阿部和子「アレグリアス」
 花丸をつけた。待ってました!素晴らしい「おばちゃんフラメンカ」!田舎くさい、でも味のある、好きなことを頑張ってやり続けたら、こんな風に純粋なフラメンコが踊れるという…ばんざーい!!阿部さんは私にとって日本のフラメンコの希望の星です!!

32.永田健「マルティネーテ」
 おお、進化してますね!かなり作り込んでいたけど、今回のマルティネーテはあなたに合っていた感じがしました。地道で非常に好感が持てます。佳き踊り手なり。

34.斎藤克己「タンゴ・デ・マラガ」
 とんでもないベテランが出てきた。こういうチャレンジ魂が見られるから協会の“新人公演”って面白い!私が克己さんの踊りを見たのは20年ぶりぐらいかな?今回はその頃よりもフラメンコ性を感じたけど、驚いたのは身体で作るラインの美しさ。最近の若い男子の踊りにはなかなかない、フラメンコのこだわり。見とれてしまう。大きな舞台での見せ方を心得た、お手本のような踊りでした。

<6月19日>
17.李成喜「ソレア」
 バランスが取れていて、とても良い感じ。ただ、足音がパルマで聞えないので、聞かせたくないのかと思ってしまう。パルマが悪いんじゃない。エスコビージャの時に集音マイクのところまで来れば、普通に足音は聞えるのです。お願いします。

20.末松三和「ソレア」
 大変抑制の効いた身体、その動き。よりフラメンカになって、ああ、とても良かった!成長しましたねえ。こういう、成長していく踊り手に出会うと、本当に新人公演って素晴らしいなと思うんだな。

23.西山依里「タラント」
 なんとユニークな!どなたの振付だろう、ご自分だとしたら、かなりのオリジナリティがあった。いやあ、こんな面白いタラント初めてでした。コンパスも悪くなかったし、やり過ぎの感はありましたが、私は好きでしたよ。ガンガン、自分の方向を突き詰めるといいと思います。

27.大野環「シギリージャ」
 もう小物は使うなと言ったのに、今年はパリージョかいっ!と心の中で突っ込んだ。ところがなんと、このパリージョが素敵すぎた。生きていた。踊りとのバランスも非常に良くて、ちょっと鳥肌が立ちました。もう小物使うなとは言いません。ごめん。

29.松彩果「タラント」
 あはははは!なんと見どころ満載なんじゃ!もう、彼女はサービス精神があり過ぎる!この、やりたいことは全部やります、見せたいものは全部見せますっていう芸風(?)は、踊り手としては損な面があると思うけど、とても愛らしいので放っておきます。あと10年したら、きっと変わると思うし。

30.渡辺なおみ「アレグリアス」
 身体がよく動いて、上手い踊り手の印象。だが、全体にたったひとつの色合いしか感じられない。感情が動いている感じがしないのです。アレグリアスはひとつの感情だけで踊るものと決めないで、もっとよく探ってみて。

31.柴崎沙里「ソレア」
 よく鍛えられた身体で、とても抑制が効いている。なんといっても、全体の流れが良かった。これだけ自分で支えて表現できるのは、質の高い踊り手だと思う。今後が楽しみ。

34.重盛薫子「タラント」
 おそらく相当、踊り込んでいるのだろう、手慣れた感じの踊りに見えた。そうなると驚きがない。舞台とはいえ、そこは生き物なのだから、ギリギリの挑戦を持ち込んで自分を追い込まないと、見ている人にライブの感動は与えられないと思います。踊り手としてはかなりの高得点なので、心の向きを変えてみて。

35.近藤綾香「タラント」
 ストリート系?みたいな?オリジナルな振付のフラメンコ。ひんしゅくものだったかもしれないが、私は面白かった。「めっちゃかっこええ!」とメモにある(笑)。わくらばのような衣装も新鮮でした。おそらく若い方だと思うが、どんどん挑戦を続けてください。Ole!









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美しいコンパスが快感を呼ぶ

2015年06月18日 | レポート(公演など)
 なんという感動だっただろう。
 6月14日の日曜日、北千住のシアター1010でのラファエル・カンパージョ公演「Tres tiempos」。フラメンコ舞踊の劇場公演にこれほど心動かされたのは、本当に久しぶりだった。



 舞台装置も何もないステージに、出演者は踊り手=ラファエル・カンパージョ、ギタリスト=フアン・カンパージョ、歌い手=ヘロモ・セグラの3人だけ。派手な衣装もパーカッションもバイオリンもない。
 しかし、シンプル極まりない編成の彼らが共鳴し合って醸し出すフラメンコの空気の濃密さと気高さは比類なく、静かな幕開きから最後のフィン・デ・フィエスタまで、私は圧倒されっぱなしだった。

 東京公演のプログラムは以下のとおり。

1)ラファエルyヘロモ「マルティネーテyシギリージャ」
2)フアン「ロンデーニャ」
3)ラファエル、フアンyヘロモ「ファルーカ」
4)ヘロモyフアン「マラゲーニャyブレリア」
5)ラファエル、フアンyヘロモ「ベルディアーレスyタンゴス」
6)ラファエル、フアンyヘロモ「ソレア」
フィン・デ・フィエスタ・ポル・ブレリアス

 通常の公演なら、ハイライトはこの曲だと目星がつくものだが、この公演に関しては、特にラファの踊りは全てがハイライト、全てが見どころだったと言ってもいい。
 たとえば幕開き。暗い舞台にラファとヘロモが客席を向いて立っている。ヘロモが静かに歌い出すと、やがてラファの両腕が静かに上がってくる。劇場の空気が徐々に凝縮され、フラメンコに染まっていくのが感じられる。ラファの足音は時に繊細に、時に大胆に、時に巧妙に、しかし何時の時も確実に美しいコンパスを刻みながら、ヘロモの唄に呼応してラファ自身のフラメンコを表現する。
 ここで断っておかなくてはならないのは、「確実に美しいコンパスを刻む」というのは、何もメトロノームのような機械的正確さを言っているわけではない。コンパスには体温が、人の息遣いが必要だ。
 けれどもラファの足音を聞いていると、美しいコンパスであるためには、まず、足音を入れるべき厳密なポイントを寸分たがわず押さえ、なおかつ名人の唄のように自然な息遣いで表現豊かに打たねばならぬのだと思えてくる。一流のフラメンコ舞踊手というものは、かくも肉体をコントロールし、感性の扉を開け放っているものか。そして確実に美しいコンパスが刻まれると、人はこんなにも快感に酔いしれるものか。
 ラファの踊りは私の信じるフラメンコ舞踊そのもので、私は心のうちで「やっぱり、真のフラメンコ舞踊はこんなにも素晴らしい芸術だった!」と何度も叫んだ。
 彼の踊りの振付は非常にシンプルに見える。実は随所に超絶技巧がちりばめられているのだが、ストイックなまでに抑制が効いているため、これ見よがしな風情がない。見るだけの舞踊ではなく、感じるもの、体験するものとしての舞踊がここにある。

 ラファの踊りは全てがハイライトだったと書いたが、いま最も印象に残っている踊りはというと、彼のタンゴだ。
 もう10数年前だと思うが、野村真理子さん主催の公演にラファと妹のアデラが出演した時、インタビューをしたことがあった。その時ラファに、自分が踊るとしたらどの曲が好きかと尋ねたら、最初に「タンゴかな」と答え、その後あわてて他のいくつかの曲種をあげて「どの曲も好きだよ」と言ったので、ははん、おそらく本当はタンゴが一番好きなんだなと思ったのだった。
 今回、そのタンゴを観ることができたわけだが、これが予想を遥かに超えて面白かった。シギリージャの厳しさ、ファルーカの男っぽさとは打って変わり、滑稽味のある振付、楽しげな表情。
 それはまるで、小さい頃から年配者の踊りを見よう見まねで踊ってきたオジサンのようでもあり、彼のフラメンコへの深い思いが感じられる踊りで、私は思わず声に出して笑ったりしながらも、胸の中に熱いものがこみ上げてきて困った。フラメンコは愛と精進だよ、うん。
 この1曲が観られただけでも、この公演に行った甲斐があったとしみじみ思ったが、その後に深いソレアを踊るとは、いったいどれだけ体力があるのだ!

 カーテンコールではほぼ全員の観客が彼らをスタンディングオベーションで称えた。フラメンコ以外の何も混じっていない、息の合った3人の素晴らしいステージ。ああ、夢のようだった!
 皆様、ラファエル・カンパージョは今、本当に本当に凄いことになっていますぞ。観られた我々は幸運だった。見逃した方も多々いらっしゃるだろうが、次の機会があれば、ぜひぜひご覧いただきたいと切に思う。どうぞ皆様、常々ネットでフラメンコ情報をご確認くださいまし。

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恒例・新人公演応援團合評に思う(1)

2011年09月10日 | レポート(公演など)

さて、アクースティカのHPに掲載された、新人公演応援團合評の件だ。
(トップページ下方の最新情報から入れます)
ギター、カンテ、バイレ群舞、バイレソロの各部門について、
それぞれ数人ずつの応援團による原稿がすべてアップされている。

私は例によって、バイレ群舞とソロについて書いた。
いつものことながら、バイレは出場者が多く(群舞3組、ソロ65名)、
全員について書くのは、なかなかに骨の折れる作業だった。

しんどいのが分かっていながら、何故、毎年これを引き受けるのか。
それは、ここの「応援團」という姿勢と「合評」というシステムが、
新人公演の出場者に対する自分の思いを吐露するのに、
とてもしっくりくるからだ。


日本のフラメンコ舞踊について、また、それをやろうという人々に対して、
私には個人的な思い入れがある。
フラメンコそのものに対しても、ある。

個人的な思い入れを客観的なレポートの中に入れ込んでしまうと、
これはいかにも鬱陶しいが、
「応援團」という姿勢であれば、多少は許される(と思う)。
また、「合評」というシステムによって、
私の思い入れが他の誰彼の思い入れと並ぶことで、
それぞれの偏りが多少は中和される(と思う)。


私自身、書いている時は他の方々の原稿は目にしていないので、
アップされた合評を読んで、
「へえ、こんな感じ方があるのか」と思ったりする。
感心したり、驚いたりはするけれど、
結局、「でも私はやっぱりこうだな」と思う。
当たり前だ、自分が心底思ったことを書いているのだから。
それに、感じ方や意見が異なる人が書くからこそ、合評の意義がある。

だから、読む方も書かれた方も、
いろんな感じ方や意見があるんだなァぐらいの気持ちで、
斜めにお読みになればよいと思う。
「厳しい」という感想を時々いただくけれども、
この合評は決定的な評価ではなく、ただの讀物なのだ。


とは言いながら、書いた私は「しんけん」である。
いつも、まるっきり「しんけん」に書いている。
吐きそうになったり、胃痛やら頭痛やらを起したりしながら書いている。

こんなことを書いたら、書かれた方が傷つくんじゃないか、
自分の無知がさらけ出されるんじゃないか、
あれを観たすべての人とまったく違う意見なんじゃないか…。
そんな不安がいつも拭えない。

けれども、どうしても書かねばならぬと思ってしまう。
やむにやまれぬ思いが湧いて止まらなくなる。
加部さん(アクースティカの社長)に頼まれたからではなく、
舞台に立つ人々それぞれが、皆、「しんけん」であるからだ。

「私の感じるフラメンコはこれです!」
「私の考えるフラメンコはこれです!」
「私の理想のフラメンコはこれです!」
「私の想像するフラメンコはこれです!」
「これが私です!」

どうであろうと、皆、「しんけん」なのには間違いない。
その「しんけん」さに向かい合った時、適当なことなど書けるわけがない。
だから、あれが愚にもつかぬ文章に見えたとしても、
ひとえに私の「しんけん」さの不器用な表れだとご理解いただきたい。


そういう自分の文章を、しかし、私は恥とは思っていない。
フラメンコについて書く時にはこれしかない、いたしかたない。
そのいたしかたなさをさらけ出す勇気を教えてくれたのは、
ほかならぬフラメンコだったのだから。


続く(2)では、新人公演における評価の基準について書いてみたい。

今日はこれから、セルバンテス文化センター。
“唄うげーじつか”の個展で松丸百合さんのソロを観る予定。
いってきまーす!

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自分を超えようとする人たち

2011年07月21日 | レポート(公演など)
7月18日(月・祝)に行われた、プリメラ主催「フラメンコのニューウェーヴ」。
今年も、日本のフラメンコって、ますます多彩になっているなと思わせた。
一度のステージでそれを観られるというところが、やっぱ興行的には面白いところだ。

でも、私自身が感じた面白さを一言で言うなら、
それまでの自分を超えようとする人や、深化しようとしている人を発見できたことだった。

まず、河野睦のソレア。
震災後のチャリティで、彼女が踊るのを2回観た(曲種は違うけどね)。
その記憶からすると、このソレアは一皮向けた踊りだと感じた。
もともと美しい人だけど、ことさらに美しい。
見た目も、その解釈も。
身体の中に溜め込まれている色とりどりの涙が、
かすかな按配ではあるけれども(だから美しいのね)、あちらこちらに噴出していた。
あー、いい踊り手だと思った。
ただ中盤以降の展開にあんまり意外性がなくて、もったいなかったな。
出だしの立ち居地も、バックとかぶってしまって損じゃなかったか。
そういうステージングや、構成としての力の配分を練り直したら、
もっと観客を虜に出来るんじゃないかなと。

屋良有子のシギリージャ。
彼女のこの演目は何回か観ている。
最初に「やっぱ、すごいな、この人」って思ってから、
でも、ここをどうやって突き破るのかなと、ずっと気になっていた。
たまたまだけど「東仲カルメン」で一緒に仕事をし、
そのさなかに、見る見る変わっていく有子を見て、驚嘆した経緯があった。
この人は、吸収したくて、出したくて、目指すところに行くためには、
何も構わんちう人かもしれんとね。
で、今回のシギリージャは、後半部分に、それまでとは違うニュアンスが見えたのだ。
有子って、怖ろしいわっ。
人によっては、有子はフィジカルなことに秀でた踊り手だとしか思っていないようだけど、
私はまったくそうは思っていない。
フィジカルを追求しているかのように見える有子の根っこには、
フラメンコのお馬鹿さ加減がちゃんとある(←なにそれ)。
たくさんの喜怒哀楽が、あのシャープでスタイリッシュな踊りの中に込められていると感じる。
でも、それが多くの人に分からないのは、彼女のナニカが足りなかったのかもしれず。
それがさ、今回のシギリージャの後半で、私はぶっちゃける有子の萌芽を見たのです。
日高川に飛び込んで、鬼か蛇に変わる清姫みたいな雰囲気。
あくまでも萌芽だけれどもね。
もうね、わくわくわくわくしたよ。
んー。これ以上は書かない(笑)。
有子はまだまだ化けるぞー。ってか、化けろー!

さて今回、わたくし個人の一押しはね、福山奈穂美のグアヒーラでした。
あはははは(←なぜ笑う)。
もうね、愉快でしょうがなかった。
まだ作品としては完成されていないけれども、
っていうか、完成なんかしなくったっていいんだけれども、
こういうことをしようと思った彼女にオレー!です。
この人はほんとに華がある。
美しく踊ろうと思ったら、それも出来る。
これがまた艶っぽいんだわ。
いや、作った色気じゃなくて、にじみ出る女っぽさね。
人間っぽさっていったほうがいいのか、素直さといったがいいのか。
いやいやいや、ほんっと、いいねー。
そうやって踊り始めていって、素敵ねーなんて思ってると、段々壊れていくんですな。
どんどん奈穂美節になっていく。
でもって最後は、グアヒーラだから夜叉まではいかないけど、
「ねえさん、何もそこまで」ってとこまでいっちゃってさ、
これは以前の奈穂美さんにはなかったことだと思います。
すごいよ。オレ!だよ。
この落差を創れるのがフラメンコの踊りの醍醐味のひとつでしょ?
むろん、さじ加減は難しいところだけど。
私はこれを観て、今日、来た甲斐があったと思った。
んー。最高だね。

次、浅見純子のシギリージャ。
彼女のこの演目もここ数ヶ月で何回か観た。
私が一番、感動したのは、実は最初に観たタブラオの時だった。
その時はたぶん、持っているものを全部さらけ出したか、ぶつけたかしたのだろう。
それまでの純子のイメージをぶち破るような激しいものが刺さってきた。
純子すごい!と思った。
けれども、成功体験は必ずしもその後によく作用するわけではないのだな。
その後、別のタブラオで観たシギリージャは、それを超えるものではなかった。
要因はいくつか思い当たるけれども、それについては書かない。
で、今回、劇場でのシギリージャ。
出だしから、「おお!」と思った。
まさしくシギリージャたる存在感と空気感だった。
ほんと、底力のある踊り手ですな。
唄とのからみも抜群によかった。
しかーし!
惜しむらくは後半に集中力を欠いたのか、死ぬことを恐れたか。
ずっと続いていた緊張感が途切れてしまった。
残念至極。
けれども、純子のシギリージャは本物になる!
ぜひぜひ極めていただきたい。
ぜひぜひ死む覚悟で踊っていただきたい。
純子、死ぬのだー!
むむむむー。

最後は杉本明美のマルティネテ。
日本のフィジカル系フラメンコ(いま勝手に作った)の、最先端にいる人かもしれない。
私がそんなふうに書くと、キクチはこういうのは嫌いなんだなと思う人がいるんだが、
ごめん、そんなことはないのよん。
明美さんの踊りは、20年近く前から観ているけれども、
常に憧れを持って観に行って、その気持ちを裏切られたことがない。
もちろん、純粋なフラメンコを云々すると、それは非常に限られたものであって、
フィジカル系フラメンコは否定的にとらえられがちだ。
いや、純粋なフラメンコにこだわりだすと、どんな舞踊でも「要らない」ってことになるんだが。
けれども、純粋フラメンコを頂点とする山を登る時に、
実は登山道ってのは色々あるはずだと私は考えている。
明美さんはフィジカル系フラメンコをもってフラメンコを追求していると、私は思う。
実際にどこに行こうとしているのかは、聞いたことがないのでこれは憶測でしかないが、
きっと彼女は彼女の方法で、フラメンコの山を目指しているに違いないと思うのだ。
そして今回、彼女のストイックな追求のさなかにあるひとつの実りを、
私は観たと思った。
踊りを極めようとする、その真摯な姿勢が、ある種のフラメンコに通じるものとして映ったのだ。
明美さんは、もっともっと評価されていい踊り手の一人だと思う。
大輪の花だ。


他にも収穫がいっぱいあったけれども、
今回のテーマ(?)に沿って書きたいことは以上なり。

最後に、毎夏の恒例になったプリメラの「フラメンコのニューウェーヴ」が、
今後もずっと続きますように!






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フラメンコ×フラメンコ

2010年09月22日 | レポート(公演など)
あのREINE山たんがスペインに行ってしまったので、
うっかりしてたけど、実はスペイン語圏の映画が多数上映される、
ラテンビート映画祭が今年も開催されている。
事後報告で申し訳ないけど、友人に誘われて20日に、
オスカル・サントスの『命の相続人』とカルロス・サウラの『フラメンコ×フラメンコ』、
2本のスペイン映画を観てきた。

どちらも面白く、ことに『フラメンコ×フラメンコ』は、
構成が『カルロス・サウラのフラメンコ』と変わらないだけに、
今どきのフラメンコやアーティストの成長・変化ぶりが如実にわかって、
全く飽きることがなかった。

イチ押しは『シレンシオ』という作品を踊ったイスラエル・ガルバン
タイトルそのままに、唄もギターもない無音の中での独り踊りは、
典型的なフラメンコ舞踊の概念を覆す、独自の世界観を持った芸術作品だ。

彼がその昔、私の「あなたにとってフラメンコとは?」という通俗的な質問に、
真面目な顔で「エンターテインメントです」と答えたことを思い出す。
これがエンターテインメント?…と思わないではいられない。
最高に刺激的で完成度の高い舞踊作品であることは間違いない。

他にも、見所はいっぱいあるんだけど、
とりあえず東京(新宿バルト9)での上映は明日の23日(午後1時半~)を残すだけなので、
記憶に残っているアーティスト名だけ記して、急ぎアップします!


イスラエル・ガルバン、サラ・バラス、エバ・ジェルバブエナ、
ミゲル・ポペダ、ニーニャ・パストーリ、ホセ・メルセー、
パコ・デ・ルシア、マノロ・サンルーカル、エストレージャ・モレンテ、
ハビエル・ラトーレ振付の群舞、ファルキート……etc.
名前を失念したけど、初めて観た10代そこそこと思われる男の子のバイレ・ソロ!
これがもう、笑っちゃうぐらいカッコいい!必見です!

なお、東京だけでなく、京都でも開催されている模様。
また、横浜では10月に開催予定なので、お近くの方はぜひぜひ!

ラテンビート映画祭スケジュール



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芯の通ったひと

2010年04月23日 | レポート(公演など)


4月1日のブログで触れた「公演レビュー」、
アクトシティ浜松で行われた浜松ゆかりの芸術家顕彰記念事業、
『大塚友美フラメンコリサイタル~祭練りを迎えて』についての原稿が、
このほど、浜松市のHPにアップされた。

  ■公演のプログラムと写真
  ■レビュー

公演そのものについてはレビューに書いたとおりだが、
いま読み返すと、私にとっても感慨深い公演だったという思いを強くする。
大塚友美というアーティストに出会ってからの、
この公演に至るまでの10数年が凝縮されているように感じるのだ。

大塚友美は「芯の通ったひと」だ。
フラメンコに関してはほとんどブレない。
最初に出会ったときから彼女は言っていた。
フラメンコは踊り手だけがメインになるのではない、
少なくとも自分たちはそう思ってやっていると。

当時、フラメンコの舞台といえば大半が踊りメインだった。
いや、それは今でもそうだけれども。
踊りの練習生からフラメンコの取材記者になった頃の私の認識も、
「フラメンコ=踊り」の図式が基本にあったと思う。
友美さんの言うことが理解できなかった。
ただ、これほどの踊り手がそんなことを言う真意を、
知りたくてたまらなくなった。

浜松公演の第2部の幕開きはレビューにも書いたとおり、
舞台にヘレスのフィエスタの映像が映し出され、
やがて舞台上に出演者が現れて生のフィエスタを繰り広げる。
これとほぼ似た手法を、友美さんは10数年前、
エル・フラメンコで行った「アルサ イ トマ」の公演でも使っていたが、
当時の私には、その面白さがいまひとつピンとこなかった。

だが、今回の舞台では、広いホールにもかかわらず、
舞台上のフィエスタの温かさや楽しさに包まれ、
フラメンコの素晴らしさを十二分に味わった。
思うに、友美さんと鈴木尚さんを筆頭に、
出演者の多くが家庭を持ったり親になったりしている。
スペインから遠く離れた日本では、
「生活に根ざしたフラメンコ」の素地は、
アーティストとしての修業を積むだけでは培えないが、
彼らは家族や意を同じくする仲間と、
日常的にフラメンコを共有する時間を積み重ねてきた。
その蓄積が、自然に湧き出るリアリティを生み出しているのではないか。


そう思うのには理由があった。
この公演に先立つ昨年10月、エル・フラメンコで友美さんたちが開催した、
『フラメンコ熱風一夜 '09 ~Okonomi Engeikai Flamenca』を観たのだ。
これは「大衆芸能として栄えた、古き良き時代のフラメンコに迫る!」が謳い文句。
どんな公演だったか、この舞台の様子が少しだけ収録されている、
パセオの大塚友美レッスンドキュメントDVD、
『自宅でクルシージョ9 大塚友美 踊りは“○”(まる)でできている』の拙著ライナーから、
ちらっと引用しておく。

「大塚は古風な振付のカーニャを踊ったかと思えば、
一方でヒターナ風のルンバを踊り、たくさんのハレオ(かけ声)と拍手を浴びた。
これに加え、生徒2人(土屋香・三原孝美)が踊る土臭さ満点のアレグリアス、
フラメンコ通で知られる博多のスペイン・レストラン「ロス・ピンチョス」のシェフたちの
粋なブレリアやセビジャーナスにも拍手喝采。
子供たちの熱演も会場を沸かせた。
石塚(隆充)Jr.の驚異的な唄やロボットダンス、
鈴木(尚)Jr.の何とも味のあるブレリアのひと振り……など、
いま思い返しても笑みがこぼれてしまう。
何しろ見応えのある演目が目白押しで、満員の観客はすっかり興奮状態」

正直、かつてこれほど心から楽しめるフラメンコの舞台があったかと思った。
その楽しさがどこから来るのかといえば、
出演者が皆、同じフラメンコ観を共有し、お互いを認め合う空気の中で、
ムイ・フラメンコな瞬間を次々に生み出したということに尽きる。


浜松公演といい、お好み演芸会フラメンカといい、
また、パセオのレッスンドキュメントといい、
大塚友美というアーティストが長年抱いていた思いが、
ここへきてようやく様々な形で芽吹き、花をつけてきたものに相違ない。
そんな瞬間に立ち会えることが、
私は嬉しくてしょうがないのである。

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あまりにも人間的な

2010年04月15日 | レポート(公演など)
柳家小三治の「ま・く・ら」をあっという間に読み終え、
続編の「もひとつ ま・く・ら」に突入。

2冊読了し、たしかにカンテフラメンコに通じるところもあると思ったが、
それよりも、「まくら」とはいえ、
よくまあ高座でこれだけのことを喋るなあと思うものが結構あって、
ただもう、小三治という芸人の潔さに唸ってしまった。


もひとつ ま・く・ら (講談社文庫)
柳家 小三治
講談社

このアイテムの詳細を見る



これら2冊に収録されているのは、多くは彼の独演会のときのものだ。
この独演会では小三治は、高座にかける本編の古典落語も、
何をやるかあらかじめ決めることはしないし、
「まくら」に至っては、その時その時の話題をとりあげながら、
客席との空気をはかりながら膨らませていくという、
いわば即興性に満ちたやり方をとっている。

なにしろ話題が豊富だ。
趣味のオートバイや音楽、スキー、ゴルフ、俳句から、
英語修行、塩、ハチミツなど、
大変な凝り性である自身の体験を踏まえての話だけに、
ただの薀蓄よりも説得力がある上に、
「まくら」の前にさらに「まくらのまくら」を持ってくるなど、
噺し家ならではの構成の妙があって、実に面白い。

それだけではない。
たとえば時事的なネタや教育に関することなど、
小三治はドキッとするほど辛口な内容の話でも、対象の実名を挙げて喋る。
潔いと思ったのは、それらの噺を本にするに当たっても、
彼が喋った対象の実名を伏せることをせず、
また、自身の言い間違いや文法の間違いなども含め、
すべてそのままに印刷物にしている点だ。
これはおそらく、客席との間でその高座が成立した空気というものを、
彼が何より大切にしているからではないかと想像する。
たった一度の舞台にかける意気込みというものが、
そんなところにも感じられた。

個人的には、終戦直後の小三治幼少の食卓風景を点描した「玉子かけ御飯」、
自身の借りている駐車場に居ついたホームレス男性との経緯を描く「駐車場物語」、
(以上は「ま・く・ら」収録)
若かりし頃に大事な一言を言ってくれた娘との切ない再会を描く「笑子の墓」、
カメラ好きの小三治がデジカメに手を出したばっかりに悲惨な目にあう「パソコンはバカだ!!」、
(以上は「もひとつ ま・く・ら」収録)
これら4作がかなりツボに入り、できれば生で聴きたい!と思った。

また、「もひとつ ま・く・ら」にはひとつだけ、高座の「まくら」ではなく、
ある教師の集まりで講演された「わたしの音楽教育」が収録されている。
講演とはなっているが、「まくら」同様、あらかじめ話が決まっているわけではない。
教師たちとの質疑応答をはさみ、話題は思わぬ方向に展開し、
自身の親(教育者)や子供の例を出しながら、
かなり辛口の教育批判が飛び出してくる。
まさかこんな話を教師の集まりでやったのかと、心底、驚いた。
これって本音じゃん!と。

まあ、文字だけだから、これは想像が大部分だけれども、
私はこの辛口の底に本当の怒りがあると感じたのだ。
かつて、あるアーティスト(フラメンコではない)が私のインタビューに応えて、
「僕の演奏の原動力は怒りです」と言ったことがあった。
(記事の抜粋はココ
その怒りが何に対するものかについては答えてもらえなかったのだが、
いま小三治の本を読んで、それは、

人間らしさを封殺しようとするものに対する怒り

だったのではないかという気がしている。
もちろん、怒りは芸にそのままの形では出てこない。
生の感情は昇華され、優しさや温かさをもかもし出すかもしれない。
そして昇華するのには多くの修練を必要とするだろう。
だが、芸が丸みを帯び、味があると言われるようになっても、
おそらく底辺には、常に怒りがしっかりと存在する――。
そんなことまで考えた。

てな具合で。
文字だけでは彼の口跡や間の取り方、人物の描き分けなど、
芸としての冴えを本当に実感するには至らないけれど、
何人かの知人に言わせると小三治の独演会は人気が高く、
なかなかチケットが取れないことで有名だそうな。
となれば、こうした本で、彼の芸の一面…
というより人間性に触れるのも一興ではないかと。
うん、見かけに寄らず、刺激的な本ですよ。

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落語で花見

2010年04月06日 | レポート(公演など)
     

誘ってくれる人がいて、日曜日に柳家小三治の独演会に行った。
この日、東京の桜は満開で、会場のアミュー立川の近辺も、
見事な桜の大木が立ち並んで壮観だったのだけれど、
お花見にはちょっと肌寒い陽気で、宴会やってる人の姿とてなく。

ところが、落語を聞いているうちに、すっかり花見をした心持ちに。
というのも、この日の小三治の演目のひとつが「長屋の花見」。
ご存知、貧乏長屋の面々が、
大家に言われて上野のお山に花見に繰り出す話で、
見せかけだけの「酒」や「かまぼこ」や「卵焼き」を口にしては、
嫌々ながらに盛り上がっている風情をかもし出す長屋の住人たちが、
小三治の肩の力の抜けた名演で、やけにリアルに浮かんできた。
聞いているうちに、なんだか自分までもが、
大勢の人で賑わう桜の山の中にいて、
彼らのバカバカしい騒ぎを隣で見ているような気分になったのだ。

落語を生で聞いたのは、まだこれで2度目だけど、
ラジオやテレビやテープでは何度も聞いている。
小三治の独特の間の取り方は、まったく名人の域だ。

もうひとつの演目は「品川心中」で、
この話のマクラは、本編より長いんじゃないかというほど長かった。
けれども、これが実に面白いのだ。
話の中身はどうってことないのだけど、
つまりはこれが話芸ということですね。
本編も含めて、実に贅沢な時間を堪能させてもらった。
いや、ほんと、私はすっかり小三治の世界にハマりました。

終演後は立川でおなかをこしらえてから、
国立の桜を見に行った。
こちらも見事な咲きっぷりで、
寒くて小雨もパラパラきてるというのに、
宴会をしている人の姿もちらほら。

すっかりいい気分になって調子づき、、
新宿のナナに行ったら、
カウンターの上に満開の桜(ヤマザクラかな?)が!
きゃー、素敵すぎる。

で、たまたま隣にいたカンタオーラのAちゃん(仮名)に、
「今日、小三治の落語を聞いてきたの」と言えば、
「えー、いいですねえ。
私も一度、聞いてみたいんですよ。
あの人のマクラの話を集めた本があって、
それがすごく面白かったんです。
なんだか、古典落語ってカンテフラメンコにも通じるなあって思って」

え。
あ、そうか!
そういえば、通じるところは多々あるかも。
というわけで、早速、注文しましたよ。
早く届かないかなー、わくわく。

ま・く・ら (講談社文庫)
柳家 小三治
講談社

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で、ググってたら、ドキュメント映画があるのを発見。
タイトルはそのまま「小三治」
しかし、もう関東では千葉県でしか上映されないみたい。
ユーカリが丘か…遠いな…どうしようかな。
うー、悩ましい!


         

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秋のまとめ(2)

2009年11月28日 | レポート(公演など)


「秋」とか言ってるうちに、東京もすっかり晩秋じゃないですか。
今朝は気持ちいいぐらいの秋晴れ。

で、朝といえば谷朝子。(←強引)
8月に、水曜のエルフラでの日本人の日に、
先輩格の森田志保をゲストに迎えてライブを行った。

◆8月26日(水)谷朝子『 A su puresencia 』en 新宿エル・フラメンコ

 踊り:谷朝子、森田志保(ゲスト)
 カンテ:石塚隆充、阿部真
 ギター:柴田亮太郎
 パーカッション:今福健司
 バイオリン:SAYAKA

ゲストといっても、森田が単に1曲踊るのではなく、
オープニングには谷と森田の2人で1曲をソロパートを交えて踊り、
ほかに、フラメンコのヌメロ(ナンバー)をソロで1曲ずつ、
さらに、創作系の実験的なソロを1曲ずつ踊った。

谷と森田とは、以前から踊りの方向性が近いような気がしていた。
どちらも高い舞踊センスをもって、
既存のフラメンコ舞踊に切り込むという印象。
踊りに気品があるというところも、共通している。
だが、そこはフラメンコ。
個々の個性の違いは2人一緒に踊る時にも顕著に表れ、
豊かな時間を堪能できた。

それとは別に、このライブで最も刺激的だったのが、創作系の踊りだ。
カンテやギターと共に踊るのではなく、
谷はパーカッションと中東風のエネルギッシュな創作ダンスを、
森田はバイオリンとのからみで洗練されたグアヒーラのアレンジを踊った。
この2つの演目を観た時、
やっぱりこの2人は似ているようでも違うのだなと思った。

パーカッションやバイオリンと共に創作系の踊りを披露すること自体は、
フラメンコ舞踊の世界で必ずしも目新しいことではない。
ただ多くの場合、フラメンコの舞踊手は、
あくまでフラメンコ舞踊で異ジャンルの人とコラボレートする。
だが谷と森田とは、舞踊自体を新しい自分のものとして創っていく。
両者はそこまでは似ているのだが、おそらくは創っていく過程が違う。
コラボレートするにあたり、
森田が自ら培ったフラメンコの“回路”に則っているのに対し、
谷はフラメンコとは限らない別の“回路”に則している印象なのだ。
私自身はこれらの演目自体よりも、
こうした実験的な試みから何が生まれるのか、
そのほうに興味が湧いた。

日本人がフラメンコを極めるには様々なハンデがあるが、
逆にスペインよりも自由に表現できる強みがあるのかもしれない。
多くのフラメンコの舞踊手が前述の実験的な試みをしている。
だが、たとえば森田のように、
独自の回路に基づいた試みを劇場作品(『はな』シリーズ)にまで高め、
成功させている例はまだ少ない。

谷が今から12年も前に、新人公演でGパン姿の画期的な踊りを披露し、
フラメンコ舞踊に新しい切り口を見せてくれたことを、
私は今でも鮮明に覚えている。
その後も、フラメンコの踊り手として成長を続ける彼女の踊りには、
いつも少なからず驚かされてきた。
今回の試みが、彼女の“回路”を刺激し、どんな舞台へと発展していくのか。
それを目にする日が待ち遠しい。


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秋のまとめ(1)

2009年11月07日 | レポート(公演など)
すっかり秋深し。
予告どおり、夏からのフラメンコ公演&ライブの感想をひとつずつ。

◆8月9日(日)『鈴木敬子フラメンコライブvol.11』 en 新宿エル・フラメンコ

 踊り:鈴木敬子
 カンテ:アギラール・デ・へレス、ファニジョロ
 ギター:高橋紀博、矢木一好
 パーカッション:海沼正利
 バイオリン:平松加奈
 ピアノ:進藤陽悟

 鈴木敬子のこのライブシリーズ、もう11回目にもなるのかとびっくり。
 私は全部とはいかないけど、結構、観ている。
 今回の興味は、アギラール、ファニジョロといったヘレスの唄い手と、
 急進的技巧派(?)ギタリストの矢木がどうからみ、
 鈴木がどんなふうに踊るのかということだった。

 音楽に関しては、唄い手がおとなしくまとまってしまった感あり。
 ヘレスの唄い手、特にファニジョロなどは、
 やっぱりヘレスの弾き手がいないと底力が発揮されないのかな。
 逆に矢木はバリバリ飛ばして、それはそれで面白いのだけど、
 ベテラン高橋が橋渡し役でなかったら、全体の調和は生まれなかったのでは。

 音楽やカンテソロをはさんで、鈴木は1人で4曲踊った。
 ブレリア、アレグリアス、タラント、シギリージャ y マルティネーテ。
 この人は、まるで息をしているように踊る。
 日本人がフラメンコを踊る時につきまとう、
 どこか無理をしているような気配や力みがほとんど感じられず、違和感がない。
 自然なのだ、フラメンコとして(だからこちらも自然に「オレ!」が出る)

 それがあまりにも自然なので、私は彼女が舞踊家・鈴木敬子であることを忘れる。
 目の前で踊っている人は、個人的に知っている敬子さんその人であって、
 私はバックの音に感応して踊ってしまう敬子さんの人生を観ている気分になる。
 バイレ(フラメンコ舞踊)というのは、
 踊り手の感応という、フラメンコ音楽のひとつの解釈を表現する方法だと、
 私は思っているけれど、
 彼女の踊りは、すぐれて即興の私小説のようだなあと思う。
 そしてその私小説は、
 題材が同じでも書かれるたびに磨きがかかっている種類のものだ。

 そういう意味で今回、最も印象に残ったのは、
 シギリージャ y マルティネーテだった。
 彼女のシギリージャは、もう何度も観ている。
 大事にしてきた曲種に違いなく、かつては珍しく気負いが見えたこともあった。
 だが、今回は気迫が勝った。
 敬子さんの中にいる鬼が、ちょっとだけ顔を出した。
 そうだ、これが見たかったんだ! 
 黒い淵を覗き込むみたいな踊り。
 敬子さんは、そんなふうに踊った。

 これから2年後、いや5年後に、
 彼女のシギリージャがどんなことになっているのか、
 これは確かめずにはいられない。

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