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つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

キシ、キシ

2014-10-17 19:42:53 | 日記
空気が随分と冷え冷えしてきて、そういえばこの部屋は冬に極寒となることをはたと思い出す。
業務用で馬鹿でかい、電気代が別料金のエアコンを付けるのは、ぎりぎりまで我慢したい。

もっと寒くなってきたら何で暖を取ろうか。
毎年布団乾燥機で温まっていることがよくあるのだけれど、あれはとても乾燥する。

とりあえず、今日のところはフリースの部屋着を引っ張り出して。
要らないコーヒー豆を茶香炉で焚くと、香ばしい香りが漂って少しだけ暖かくなったような気がした。

冷えてくると汁ものが食べたくなるので、また頻繁にお味噌汁をよく作るようになった。
そして昨冬何株食べたかしれない白菜がまた出回るようになってきたので、白菜の煮物もすでに2回作った。

金曜日に八百屋さんのセールがあることを今頃把握して、金曜にはよく八百屋さんに出向く。
ピーマン、かぶ、ねぎ、椎茸、マッシュルーム、白菜、ネギ、春菊、柿、りんご。
これらほとんどが77円のセール。

しなびてしまわないうちに食べてしまうか、火を入れてしまうか、冷凍してしまおう。
食料が家にたくさんあるのは、安心でもあるし、期限を迫られる窮屈もある。

食べるものは限りなく自由でありたいと「孤独のグルメ」風に思うけれど、育ちの関係もあって、あまりそうはいかない。
残念なことに、私は未だひとりで行ったカフェや定食屋などで、シチュエーション全て込みの“ものすごくおいしい経験”というのをしたことがないのである。
そして「おいしいものを食べたい」という欲求より、外出するのが億劫であることが買ってしまうのでやっぱり基本は食料をある程度貯蔵しておきたい。

ごはん、たまご、納豆、お味噌汁、白菜とシーチキンの煮物。
自分で作った変わりばえのしない料理を食べるとき、私は何か体に小さな幸せが満ち満ちてくる感じを覚える。
これはたぶん他人が食べてもあまり劇的においしいものではないんだろうなあと思いながら。
ときどき、肉なんかあればその頼りがいに何度でも感動してしまう。

私にとっての食とはその程度のものだし、しかし、おいしいものは好きだし、外食もしたいし、お酒も飲みたい。

健康に良いから亜麻仁オイルを使うのではなく、亜麻仁オイルが好きだから亜麻仁オイルを使う、というスタンスをとりたい。
ドライいちじくがどっさり入ったカンパーニュも、マーガリンを挟んだホットケーキ菓子パンも同列。
場合によっては、プレミアムモルツよりも金麦。
心とお腹の準備ができていれば、フレンチフルコースを堪能したい。
おいしくなあれと味の素をときどき振りかけるのも良い。


今日も卵を割ったら黄身が2つだった。
ホルモンバランスの不安定な若鶏シリーズなのだろう。


「化粧をしたまま寝ると肌に悪いのか」ということを長らく疑問に思っていた。
もちろん良くなさそうとは理屈で思うわけだけれど、別に特に影響ないのではないだろうか、とそんな気がしていた。

最近は大抵お風呂が起きてからすぐの昼頃で、午後に出かけるために化粧をしてそのまま寝てしまうということが続いて、割に顕著に肌荒れを起こした。
当たり前・・・という話なのだけれど、やはり続くと良くないのだなと体感する。
1日のうち化粧をしていない時間が3~4時間では、肌が休まらず、ターンオーバーがスムーズにいかないのだろう。

ちなみに寝不足はお肌にとても良くないし、昼夜逆転についてはほとんど関係がない、と体感済み。
どこまでやってみないと分からない性質なのだろう。
まあでも、たとえば「化粧をしたまま寝ても肌荒れしない、それどころかむしろ良いくらいである」という体感が出ればちょっとした革命的出来事だなとか思う。

しかし、できる限り、寝る前に化粧は落とすようにしようと思う。

「変」って何?と思う私、「変」になりきれない私の実験。





揺れる倍音

2014-10-14 18:48:49 | 日記
たまごを割ったら、黄身がふたつ。
もしかすると初めて見たかもしれない。

鶏における黄身がふたつというのは、双子に相当するのだろうか。
この場合、たまご自体はひとつだから一卵性ということになると思う。

人間の場合、受精卵が何らかの原因でふたつに分かれたのが一卵性で、排卵がふたつあってふたつとも受精するのが二卵性だ。
ひとつのたまごの中に、黄身がふたつ。
これってどういうことなのだろうか。

気になったので調べてみると、これは「二黄卵」といって若い鶏の生殖器官の未成熟や、ホルモンバランスの不安定によって起こるらしい。
仕組み的には人間でいうところの「二卵性」になるようだ。
しかし栄養分の取り合いになるので正常に孵化することはまずなく、孵化したとしても奇形が生まれる可能性が高い、とあるので、胎盤や胎児への栄養を与える管が複数というわけではないらしい。
これは人間でいうところの「一卵性」の話である。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1078843355
より。
それにしてもYahoo知恵袋の回答者はすごいなあと感心する。
また、本当にいろいろな質問が網羅されていて、私が知りたいことは、誰かが知りたいことなんだなと思い知らされる。
インターネットの情報を鵜呑みはいけないと思いつつ、ウィキペディア同様、結構いろんなことを即時に教えてくれるツールとしてよく見る。
直接意図的にYahoo知恵袋にアクセスすることはないが、検索結果の上位に表示されやすいので見てしまう。

いもうとに食べようとしていたたまごかけご飯の写真を送る。
「身ごもったのかと思った」と返ってきたが、だとしたらなんと偶然的で粋な妊娠報告だろう。
もちろん、そうではない。

双子は遺伝性があると言われており、私たちも双子であって、兄の奥さんの弟さんも双子である。
ちょうどそんな折、兄夫婦に第二子ができたと聞いたけれど、双子ではないそうである。

いやはや、双子とはとても大変だからおすすめしない、というのは、本人たちとしても親としても言えることだろう。
おすすめしない、ということで何かを選べるわけでは全然ないけれど。


飲茶さんの著書「哲学的な何か、あと数学とか」を読む。
これも借り物。
この人は、学問について網羅的に「広く、ある程度深く」学んだ人であろう。

しかし言いたいのは明らかに、学問についての何か、ではない。
学問という体系を使って自分の何かを出したい、つまり表現者なのだという感じがとてもする。

私がこれを読んで数学的なことに何かを掻き立てられることはまずない。
数学的な美しさについては、きっとあるのだろうし、誰かにとってそれは人生をかけるに十分に値する価値のあるものだとも思う。
つまり大切なことは、数学そのものではなく、「誰かにとっての数学的美しさ」なのだ。

しかしそれもきっと、泥のような日々に埋もれてしまうこともあるだろう。
それに「誰かにとっての数学的美しさ」も、その誰かにとって“他の”同じくらいの美しさだって存在するかもしれないという意味でちょっと危うい。

しかしまた、「誰かにとっての数学的美しさ」は「美しい」のだろうと、それはそう思う。





何にもないけれど

2014-10-12 13:56:09 | 日記
友人から小荷物が届く。
結婚式の招待状の宛名を書いて欲しいとの依頼で、その封筒が入っていた。
お互いタダでやるのはあれよね、と金額を決めて、その分を一般的なご祝儀金額から抜くからということになっている。
間柄がしっかりしていないとできないことである。

その小荷物の中に、干し梅とカップスープが緩衝材的に入っていた。
「台風が来るみたいだからこれで凌いでね」とメッセージが入っていた。

昔私の梅干し好きはある友人の中では認知度が高かったので、入れてくれたのだろう。
カップスープは私は好きだと言ったことはたぶん一度もないけれど、なんだかすごく嬉しかった。
くすっと笑わせてもらうには十分だった。

それらは全部5分行ったところのコンビニで全部買えるのだけれど、不意の“おまけ”は何だって嬉しい。
色鮮やかな高級マカロンもいいけれど、干し梅とカップスープの方が少しの笑いの温度感が伝わってくるという意味では嬉しいかもしれない。

そういえば大学1年の頃、私は浪人していたこの友人としばらく文通をしていた。
彼女のお父さんはお茶目な人で、娘の友人への手紙の封筒にこっそり私へのメッセージを書いてきたこともあった。
そのメッセージは、「東京楽しい?おっぺけぺー」みたいなそんなことだった気がする。

私が録り忘れたドラマのビデオを友人に送ってもらったことがあって、私はそれを封筒で送り返すときに何かお礼をと思って、明治のアーモンドチョコレートを一緒に封筒に入れた。
ビデオの質量が倍になって返ってきた!と訳の分からない喜び方を友人ならしてくれるかなと、そんなことを考えていたような気がする。

招待状の仕事は、とりあえずきちんとせねばならない。


先輩にユーカリの葉っぱをもらった。
私がオーストラリアでユーカリをいっぱい見てきたという話をしていたら「家に生えてるから持ってこようか」と言う。
「それはぜひとも」

ユーカリラディアータの精油を持っていて、私はそれをときどき焚いたり掃除に使ったりする。
爽やかなライムのような香りと、緑の青々しい香りのする精油で、私にとってそれは掃除の終わりの合図でもある。

まだ枝を水に浸してある生のユーカリは、もっとずっと湿った葉っぱの香りがした。
白く霞がかった枝葉から、なんとも生々しい積極的な香り。

ちょうど使い道のなかった小さな木のかごにユーカリを切って入れる。
しなやかな枝なのだけれど、硬さは十分にあって、かごからつんつことユーカリの枝が飛び出した。
ベッドボードにかけると、とても女子力の高い空間演出ができたので、写真に撮って先輩に送る。

生々しい香りはベッドに満ちて、私は思わず深呼吸をする。
その日は森の中で眠っているようだった。
しかし森の中で眠るのは、当たり前だけれど違和感があって、寝ぼけ鼻で「なんだこの匂いは?」と夜中に何度か思ったことを覚えている。
このままドライになって、香りはだんだんと薄れていくらしい。

先輩は、「そしたらまたあげるね」と言ってくれた。
「ぜひ。今度は取りに伺います」

“女の子っぽい”柄とか色合いとかインテリアとか、私はすごく好きで、この辺りの嗜好性の性差とはどうやって育まれるのだろうと思う。
そうやって育てられるとか、広い意味でのマーケティングによって取り込まれる以外の部分の性差とはどのくらいあるのだろうか。

よく言う“男の子っぽい”ものの代表格として、戦闘機や車などがあると思うけれど、未だかつてそれらに何か特別な思いを感じたことはない。
それは感じないようにしているということもあるのかもしれないけれど、本当に感じないのかもしれない。

“良いもの”を取りこぼしたくはないので、なるべくそういう基準を外したい。
女子力も男子力も欲しい、というより、“自分力”が欲しい。
それがその後で女子力や男子力と名付けられるのは構わない。

先輩とのLINEの会話の中で、「女子力高し」としようとしたところ漢字の変換ミスで「女子力隆」となってしまって笑ったシーンがあった。
最近、そんなことを書に起こすのが流行り。

ちなみに、1枚目はオーストラリアのユーカリの木。





形の違うナスふたつ

2014-10-07 20:53:20 | 日記
鶏のささみが冷蔵庫で一本腐っていた。
そんなに日数は経っていない、4日前くらいだろうか。
秋の気温でも、肉はこのくらいのペースで腐るのか。

何かを腐らせては冷凍保存、ということを繰り返していて、今ではベーコンもウインナーもきのこ類も溶けるチーズも食パンも皆冷凍保存である。
冷凍すれば賞味期限は半永久、というのも正しくないのだろうけれど、まあ正しいも同様にように思っている。

これだけ家にいても使えないのだから、一人でそんなにたくさん買ってはいけないという結論しか出ない。
肉はそんなに頻繁に買わないので、貴重な動物性たんぱくであるので腐ってしまったことはいささかショックである。

それにしても動物系の腐敗臭というのは、何とも言えない気味の悪い臭いがする。
冷蔵庫の中で冷えたその臭気の霧に、一瞬眩暈を起こすように仰け反ってしまう。
だから私たちは腐ったものを食べずに済むわけである。

賞味期限は安心して食べられる期限のこと、匂いを嗅いで大丈夫なら大丈夫だ、というけいこのもとで育ったので私もあまり賞味期限と言うものを気にしていない。
ヨーグルトとか納豆とかキムチなどは、元々発酵しているのだからなおさら大丈夫だ、というけいこのもとで育ったので私も特に発酵食品の賞味期限はもっと気にしていない。

そういえば昔、友人が賞味期限切れのパンを焼いて食べ、「食べている最中、確かに黒い点々があったのを認識していた。焦げかと思って食べていたけれど今思い出すにあれば確実にカビだった」と、食べ終わってからふと思い出したことがあると言っていた。
少しのカビは臭いは発さないのだろうか。
ちなみに、かなりぞっとしたけれどお腹は大丈夫だった、とも言っていた。

この友人はお腹が弱く、豚カツを食べただけで場合によっては脂分で下してしまうらしいので、カビではなかったのかもしれない。
しかし、なぜか食べているときは気にしながら気にせずに飲みこんだ“確かな黒い点々”は、それがカビであると謎の確信をその友人も、話を聞いた私も持っている。


人にあることを説明していると、それが私の決定的な弱点であるということを思い知ることがある。
他の話題でも私はそういうことばかりを言っている。
弱点の克服、とか、ポジティブな成長、とか、笑わないと言えないようなそのことが、笑えないくらいに私の心に巣食っている。


色々な「サムライ」





ユーミンの歌を

2014-10-03 21:59:41 | 日記
雨ざらしの過酷な環境のせいで、自転車のチェーンが錆付いてしまってペダルをこぐ度にきゅるきゅると音がする。
前の自転車もそれで結局どうにも不具合が生じて今のものに変えている。
雨ざらし環境だとだいたいそれが2年サイクルで起こるようだ。

普段自転車に乗るときは音楽を聴いているのでよく分からないのだけれど、例えば誰かと一緒にいてゆっくりと自転車をこいでいると、その「きゅるきゅる」という音は確かに気になるくらいにうるさい。
スムーズに回っていないということなので若干ペダルも重くなる。
ついでに、これは錆びが原因なのか、倒れたときの衝撃が原因なのか分からないけれど、6段変速機能の5速と6速が利かない状態にもなっていた。

プリントアウトと税金の支払いというコンビニでの用事があったので、ついでに自転車屋さんに寄る。
1時間程度かかります、と言われて自転車を預けて買い物に出る。

つい重たい水やら白菜やらコンタクトの保存液やらを買ってしまったけれど、店を出て自転車がないんだったと気付く。
ああ重たい、ああ重たいと思いながら家に着くと、家の鍵がないことに気付く。

私は自転車の鍵も家の鍵も一緒くたにキーホルダーに付けていて、全てそのまま自転車の鍵穴に差し込んで使っている。
なので、家の鍵も自転車に付けっぱなしで自転車屋さんに預けてしまっていた。

しかしこんな重たいものを持ってもう歩けないので、玄関先に買ったものすべてを置いて再び自転車屋さんに戻る。
チェーンを交換してもらい、変速機能のところも調整をしてもらった。
あらゆる箇所が錆びていたけれど、あらゆるところに油がさされていて、ぬめっとした光を放っていた。

愛車を取り戻して、颯爽と走らせる。
鉄工所の機械が油をさされて潤い、「潤滑油」という字面と、べたつくけれど滑るように動いている機械の映像が浮かんだ。

そう、私の実家は鉄工所だった。
今はその場所に、兄夫婦が住むマンションが建っている。

日本が高度成長経済期だった頃に祖父が作った鉄工所。
死んだ父が後を継いだ頃には、そんな町工場がやっていける景気ではなかった。
しかし父はおそらく経営の才があったのだろう、経営的に上手くやっていた。

「ご両親のお仕事は何?」と聞かれて「自営業で、車の部品を作る会社です」と答えていた。
もちろんそれは正しいのだけれど、「鉄工所」という言葉を自覚的に発したのは今日が初めてかもしれない。

「鉄工所の娘」、あまり直視してこなかったけれど、私は「鉄工所の娘」である。

工場は危ないからあまり入ってはいけないと言われていたが、黒光りしている数々の機会ががちゃがちゃと大きな音を立てて動いていたのをよく憶えている。
独特の油臭さが、そこで働く父や従業員の人みんなに染み付いていた。
事務所も併設してあって、事務所も古びた中華料理屋のように、油感が部屋中に満ちていた。

けいこは会社の経理、総務的な仕事をやっていた。
従業員の給料は給料袋に入れて手渡し、というスタイルを貫いていて、けいこは毎月給料日前になると何百万ものお金を応接間で細かく計算しながら給料袋に詰めていた。
けいこにとって、電卓とそろばんが同じくらいの精度らしく、計算にはすべてそろばんを使っていた。

父が死んで、工場を閉めるとなったとき、祖父は工場を壊すのを長い間拒否していた。
もうどうにもしようがない油まみれの廃工場が取り壊されたのは、つい2年ほど前である。

今実家の居間には、工場の写真と、新しく建てたマンションの写真が、賞状のように、あるいは遺影のように飾られている。