雨ざらしの過酷な環境のせいで、自転車のチェーンが錆付いてしまってペダルをこぐ度にきゅるきゅると音がする。
前の自転車もそれで結局どうにも不具合が生じて今のものに変えている。
雨ざらし環境だとだいたいそれが2年サイクルで起こるようだ。
普段自転車に乗るときは音楽を聴いているのでよく分からないのだけれど、例えば誰かと一緒にいてゆっくりと自転車をこいでいると、その「きゅるきゅる」という音は確かに気になるくらいにうるさい。
スムーズに回っていないということなので若干ペダルも重くなる。
ついでに、これは錆びが原因なのか、倒れたときの衝撃が原因なのか分からないけれど、6段変速機能の5速と6速が利かない状態にもなっていた。
プリントアウトと税金の支払いというコンビニでの用事があったので、ついでに自転車屋さんに寄る。
1時間程度かかります、と言われて自転車を預けて買い物に出る。
つい重たい水やら白菜やらコンタクトの保存液やらを買ってしまったけれど、店を出て自転車がないんだったと気付く。
ああ重たい、ああ重たいと思いながら家に着くと、家の鍵がないことに気付く。
私は自転車の鍵も家の鍵も一緒くたにキーホルダーに付けていて、全てそのまま自転車の鍵穴に差し込んで使っている。
なので、家の鍵も自転車に付けっぱなしで自転車屋さんに預けてしまっていた。
しかしこんな重たいものを持ってもう歩けないので、玄関先に買ったものすべてを置いて再び自転車屋さんに戻る。
チェーンを交換してもらい、変速機能のところも調整をしてもらった。
あらゆる箇所が錆びていたけれど、あらゆるところに油がさされていて、ぬめっとした光を放っていた。
愛車を取り戻して、颯爽と走らせる。
鉄工所の機械が油をさされて潤い、「潤滑油」という字面と、べたつくけれど滑るように動いている機械の映像が浮かんだ。
そう、私の実家は鉄工所だった。
今はその場所に、兄夫婦が住むマンションが建っている。
日本が高度成長経済期だった頃に祖父が作った鉄工所。
死んだ父が後を継いだ頃には、そんな町工場がやっていける景気ではなかった。
しかし父はおそらく経営の才があったのだろう、経営的に上手くやっていた。
「ご両親のお仕事は何?」と聞かれて「自営業で、車の部品を作る会社です」と答えていた。
もちろんそれは正しいのだけれど、「鉄工所」という言葉を自覚的に発したのは今日が初めてかもしれない。
「鉄工所の娘」、あまり直視してこなかったけれど、私は「鉄工所の娘」である。
工場は危ないからあまり入ってはいけないと言われていたが、黒光りしている数々の機会ががちゃがちゃと大きな音を立てて動いていたのをよく憶えている。
独特の油臭さが、そこで働く父や従業員の人みんなに染み付いていた。
事務所も併設してあって、事務所も古びた中華料理屋のように、油感が部屋中に満ちていた。
けいこは会社の経理、総務的な仕事をやっていた。
従業員の給料は給料袋に入れて手渡し、というスタイルを貫いていて、けいこは毎月給料日前になると何百万ものお金を応接間で細かく計算しながら給料袋に詰めていた。
けいこにとって、電卓とそろばんが同じくらいの精度らしく、計算にはすべてそろばんを使っていた。
父が死んで、工場を閉めるとなったとき、祖父は工場を壊すのを長い間拒否していた。
もうどうにもしようがない油まみれの廃工場が取り壊されたのは、つい2年ほど前である。
今実家の居間には、工場の写真と、新しく建てたマンションの写真が、賞状のように、あるいは遺影のように飾られている。

前の自転車もそれで結局どうにも不具合が生じて今のものに変えている。
雨ざらし環境だとだいたいそれが2年サイクルで起こるようだ。
普段自転車に乗るときは音楽を聴いているのでよく分からないのだけれど、例えば誰かと一緒にいてゆっくりと自転車をこいでいると、その「きゅるきゅる」という音は確かに気になるくらいにうるさい。
スムーズに回っていないということなので若干ペダルも重くなる。
ついでに、これは錆びが原因なのか、倒れたときの衝撃が原因なのか分からないけれど、6段変速機能の5速と6速が利かない状態にもなっていた。
プリントアウトと税金の支払いというコンビニでの用事があったので、ついでに自転車屋さんに寄る。
1時間程度かかります、と言われて自転車を預けて買い物に出る。
つい重たい水やら白菜やらコンタクトの保存液やらを買ってしまったけれど、店を出て自転車がないんだったと気付く。
ああ重たい、ああ重たいと思いながら家に着くと、家の鍵がないことに気付く。
私は自転車の鍵も家の鍵も一緒くたにキーホルダーに付けていて、全てそのまま自転車の鍵穴に差し込んで使っている。
なので、家の鍵も自転車に付けっぱなしで自転車屋さんに預けてしまっていた。
しかしこんな重たいものを持ってもう歩けないので、玄関先に買ったものすべてを置いて再び自転車屋さんに戻る。
チェーンを交換してもらい、変速機能のところも調整をしてもらった。
あらゆる箇所が錆びていたけれど、あらゆるところに油がさされていて、ぬめっとした光を放っていた。
愛車を取り戻して、颯爽と走らせる。
鉄工所の機械が油をさされて潤い、「潤滑油」という字面と、べたつくけれど滑るように動いている機械の映像が浮かんだ。
そう、私の実家は鉄工所だった。
今はその場所に、兄夫婦が住むマンションが建っている。
日本が高度成長経済期だった頃に祖父が作った鉄工所。
死んだ父が後を継いだ頃には、そんな町工場がやっていける景気ではなかった。
しかし父はおそらく経営の才があったのだろう、経営的に上手くやっていた。
「ご両親のお仕事は何?」と聞かれて「自営業で、車の部品を作る会社です」と答えていた。
もちろんそれは正しいのだけれど、「鉄工所」という言葉を自覚的に発したのは今日が初めてかもしれない。
「鉄工所の娘」、あまり直視してこなかったけれど、私は「鉄工所の娘」である。
工場は危ないからあまり入ってはいけないと言われていたが、黒光りしている数々の機会ががちゃがちゃと大きな音を立てて動いていたのをよく憶えている。
独特の油臭さが、そこで働く父や従業員の人みんなに染み付いていた。
事務所も併設してあって、事務所も古びた中華料理屋のように、油感が部屋中に満ちていた。
けいこは会社の経理、総務的な仕事をやっていた。
従業員の給料は給料袋に入れて手渡し、というスタイルを貫いていて、けいこは毎月給料日前になると何百万ものお金を応接間で細かく計算しながら給料袋に詰めていた。
けいこにとって、電卓とそろばんが同じくらいの精度らしく、計算にはすべてそろばんを使っていた。
父が死んで、工場を閉めるとなったとき、祖父は工場を壊すのを長い間拒否していた。
もうどうにもしようがない油まみれの廃工場が取り壊されたのは、つい2年ほど前である。
今実家の居間には、工場の写真と、新しく建てたマンションの写真が、賞状のように、あるいは遺影のように飾られている。

