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つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

0.1%の切なさ

2014-01-21 23:04:13 | 日記
とある写真を探していて、過去の写真を見返していた。
本当に狂ったように花の写真を撮っていて、少々驚く。
その花たちは紛れもなく私の目線で収められていて、花はそこに存在していたけれど、それらは“私が見たいように見ている花”だ。

表現とはそういうものだ。
イメージ、イメージ、イメージが大切だ。
あと必要なのは、“私がしたいように出す”という技法。

しかし、私は自分で撮った花の写真がやっぱり好きなんだなとしばし見入る。

撮っていたときに本当に夢中になっていることや、それに対する熱情がひしひしと伝わってくる。
何せ花の中に入れるのなら虫になりたいと思っていたくらいである。

それにしても、自分で創ったものが好き、というのは本当に世話のないことだと思う。
今も花の写真は撮るけれど、1時間も2時間もものすごい体勢で、確かに今はもうあそこまで夢中にはなれない。
私の中の花のイメージを私は勝手に撮り尽くして満足したのかもしれないし、イメージはもう膨らまなくて枯渇してしまったのかもしれない。

何事も飽きるまで、それに尽くし続けた方がいい。
何かわかるかもしれない、何にもわからないかもしれない。
それでも。

ある人が言っていた、「死ぬときに幸福な絶望を味わいたい」と。
そんなものはどうなるか分からないけれど、本意を見て見ぬふりをするのは人生に失礼なのだと思う。

私はたくさんの幸福感を花たちからもらったと、そのことに感謝して次に気になることに邁進せねばならない。
変わってしまうことから逃げることでは良いものは得られないだろう。
請け負わねばならないのは、自分の心だけだから。


アコースティックギターが急に、そして猛烈に欲しくなった。
線にとらわれないギター。

御茶ノ水に見に行こうと思っていたのにこんな時間になってしまった。
きっと外は寒いだろう。

起きるのが昼過ぎだと、世間の活動にほぼ間に合わない。
起きてお昼ごはんを食べて少し仕事をしたら夜なのである。
午前から仕事をすれば、夕方くらいには外に出られて、書道博物館にも行けるし、楽器屋さんにも間に合う。

しかし真夜中の高揚は、昼下がりの気怠さとは雲泥の差があって、とても大袈裟に言って“生きてる感”が大きいのである。
真夜中には、孤独が楽しい。
そして、皆が活動を休止する真夜中は正々堂々と孤独でいることを許されている気になる。

夏になればまた分からないけれど、仕事などで縛られない限り私はしばらくこの生活を止めないだろう。

アコースティックギターはまた今度見に行こう。
昨日よりも熱は落ち着いたけれど、きっとまた再燃するだろう。


けいこから送ってもらったみかんがいくつか腐っている。
ちょうどちびまる子ちゃんが青ざめたときのような、あの青さで。





レタスの正座

2014-01-19 18:12:22 | 日記
誕生日の夕方、仕事がひと段落したお風呂上がりに突然友人から連絡をもらった。
今から飲もう、と言う。
誕生日に私がひとりでいることに気を使ったのか、そうでないのか、たぶん後者だと信じているけれど、誕生日かどうかはあまり関係なく友人に会えるのであれば、と軽く化粧をして出かけた。

誕生日プレゼントに、ノエル・ギャラガーモデルのユニオンジャックのギターの小さなレプリカをくれた。
先日友人と行ったカフェにもっともっとミニチュアの5センチほどのギターの置き物がかわいくて、2人で「いいね」と眺めていた。
プレゼントしてくれた20センチ大くらいのそれは、弦も張ってあってシールドをさす穴も開いていてよくできている。
ギタースタンド付いている。

自分がギターを弾くようになって、しかし未だに、テレ・キャスターやらレスポールやらストラトキャスターやら、そんなギターの種類の名前やそれらの形や違いはさっぱり把握していない。
マーシーがどれで弾いているかも何度も聞いたことがあるけれど、よく憶えていない。
そろそろそういうことにも広げて知ってみてもいいかなとは思っている。

しかしともあれ、ギター、という楽器は何か良くわからないけれど大好きだし、ただそのものがそこにあるだけで何だかとても嬉しいくらいなものだ。
だからおもちゃのレプリカも、すごくすごく嬉しい。
そして、それにNoel Gallagherと書いてあるなんて、最高ではないか。
私のテンションがぐわんと上昇したことはたぶん友人にも伝わっていただろう。

誕生日だけれど、いつもと同じようなとりとめのない話をして、とりとめのない話の中にも、私たちのそれぞれの師匠のような人の話はどうしても避けられない。

家に帰って、よく見える場所にギターのレプリカを飾る。
こんなものが嬉しいのは私が欲しい男子感みたいなものの象徴かもしれない。

2つのパンで既にお腹がいっぱいだという友人に大きなハンバーガーを食べさせてしまったことは今になって申し訳なく思ってきた。

真冬の早朝の風は、おでこが凍るほどに冷たかった。
かき氷を食べなくても、おでこは凍りそうになるのだなと思った。

と、年末に思ったことをまたそのまま思いながら自転車を走らせていた。

朝、というか昼下がりに起きて、お好み焼きのようなものを作って食べ、友人からもらったお菓子を食べた。
つけっぱなしだったコンタクトレンズを外して、窓を開け放って、敷物の埃を窓からはたき、その辺に出ていた衣服を洗濯機の中に放り込み、ローリングストーンズをかけて、掃除を始める。
いつものように要らないタオルを切って、水拭きを2回通りして、玄関まで拭いて捨てる。
お風呂もトイレも磨いて、排水溝にカビキラーを吹きかける。

私の部屋は、トイレが一番日当たりが良い。
なぜここがトイレなのだろうというほどの、トイレの幸せな陽だまり感。
冬の柔らかな光がさんさんと降り注ぐ小窓を開けると、きんきんに冷えた冷気がなだれ込んできた。
妙にそれが気持ち良くて、暖房を切って部屋の空気を入れ替える。

部屋にはイランイランの香りで清浄感が満ちた。
掃除はてっとり早く気持ち良さを得られる。

ローリングストーンズは、明るい曲も切ない曲も、何だかとても壮大で規模間が大きく聴こえた。

自由業になって、平日と休日の境目が曖昧になっているために、土日に掃除をするという習慣が崩れてしまった。
掃除はたぶん10日に1度程度に減って、その分「掃除しなければ」ではなく、「掃除したい」という思いになって掃除をするようになった。
また、お風呂も別にいつ入ってもいいじゃないか、というようなことを半ば実験的に夕方に入ってみたりしているので、おそらく週に6回くらいになったと思う。
眠るのと食べるのは、それなりの規則を持って生活しないと不調をきたすだろうからと、一般的な時間とは異なるだろうがおよそ規則正しくしている。

習慣なんてぶち壊してやる、というようなことは露も思っていない。
体に支障をきたさない範囲で良さそうなことは習慣を壊してもやってみたいと思うけれど、まあそんなに大したものではなくて自分のささやかな本能に従いたいだけだ。

ちなみに、自分の今の状態のことをフリーランスだとただの語感の問題でかっこよすぎる気がして、フリーターと称していたけれど、自由業という言葉を知ってただの語感の問題でとてもしっくりきたので、これからは自由業と称することにした。

掃除をしながら、何か物を持ちすぎているような思いに駆られて、久しぶりに服を大量に処分することにした。
持っていたら着るかもしれないけれど、しばらく着ていないし、既に着るとしっくりこないものに手をかける。
45Lのゴミ袋一杯分、とてもいい気になったけれど、ごみの日は水曜だ。


今日の書は、教室の毎月の課題の楷書。
様々に模索中。





テレビマン

2014-01-17 17:18:20 | 日記
生卵を電子レンジで加熱すると爆ぜる。
というのは知っていた。
だから黄身にぷすぷすと適当に穴を開けてラップもせずに加熱した。
このとき私は、確かに、大丈夫だろうか、という一抹の不安は持っていた。

まあでもだからと言って、途中で恐る恐る電子レンジを止めたりはしない。
爆ぜるまで。

案の定、なのか何なのか、電子レンジの小さな庫内で黄色い爆発が起きた。
小規模、だけれども、確かな爆発。
見事なまでに庫内は、黄色いペンキがたっぷりついた刷毛を振り回したようにどろどろの惨状。
四方八方、放射状に飛び散った半熟卵はそのときの私の様々なやる気を剥いでいった。

しばらく呆然として、爆発の悲劇を真正面から眺める。
しかしこのままでは黄色いまま固まってしまうと、意識を取り戻して一生懸命に片づける。

こんなことでも起こらないと電子レンジの庫内を一生懸命掃除することはないので良かった、というのは必至過ぎる精一杯の言い訳である。


携帯電話の登録情報を変更しようと思って、ID/PASSを入れようとしたのだが、何度やってもログインできない。
私はパスワードは3つほど持っていてそのどれかを入れるようにしているのだが、最近は登録の時点でセキュリティ強化のためにややこしいものしか設定できなくなっているものも多い。
数字だけでも(それが例え自分の誕生日でも)よかったものが、英字と数字が混じらないと登録できない、英字と数字と記号が入らないと登録できない、英字も大文字と小文字を混ぜて更に数字と記号を入れないと登録できない、というふうにどんどんと複雑化している。
しかもパスワードだけでなく、IDも同様になっているものもある。

セキュリティを強化するのは良いのだけれど、これは本当に覚えられるはずがない。
いや登録している最中は、これであれば数度試せば当たるだろう、と思って登録しているのだけど、ほぼ100%の確率でいつもの3通り以外でイレギュラーで登録したものは思い出せない。

次回にログインするときにさんざん試した挙句、どうにもならないのでパスワードを変更せざるを得ず、パスワードの再登録で新しいものを入力してみると「過去1年間に使用した同じパスワードは使用できません」となる。
やれやれ、だ。

だから、ブラウザがID/PASSを記憶してくれているのはとても助かる。
端末を盗まれない前提で全部そうしておきたいが、さすがに銀行は危険だと思うし、各銀行ともID/PASSはブラウザ保存できないようになっていてセキュリティは何重にもかかっている。

たぶんまた、今回変更したパスワードも思い出せずに再登録になるのだろう。
しかし紙に書き留めておくこともどうかと思うので、そうなったら素直に再登録の手続きを踏もう。


さて今日は誕生日である。
最近、この日で自分が28なのか29なのか30なのか、本当にわからなくなる。
「20代最後の年だね」とメッセージをもらったりするわけだけれど、「そうか、そうなのか」と、しかし「ふーん」と思う。
なんだろう、本当に「ふーん」と思う。

学年で言う「今年○○歳」と言うことばかりで、同学年の多くの人たちは既に29歳を過ごしているわけで、しかし大学や会社は同期と言えども年齢にはばらつきがあって、「○○年入社」「○○年卒業」という様々な括りをしているうちに、その細かなカテゴライズが面倒になってしまったのかもしれない。
だったら、「真島37年」のように軸は自分1本で持てばいいではないか、と思う。
またこの話をするとぐるっと回って、いや本来そういうものでしかないか、というふうにブーメランが戻ってくる。

まあ「真島37年」というのは、紛れもなくどう考えても「真島37歳」のことなのだけれど、「がたがた言うな、俺は真島年しか生きてはいない」という聞き分けの悪い子供のような屁理屈みたいな真実が、私は大好きなのである。

ともあれ、29歳、どこかへ行ける一年であるといいなと思う。

今日の書はニーチェの言葉。





つないで

2014-01-16 16:07:10 | 日記
仕事中にジャニス・ジョプリンの新しく借りたアルバムをかけてしまったらどうにも引っ張られてしまった。
借りたのがライブ音源だからか、iPhoneから小さく流していただけなのに飛び出てきそうなくらいの圧力を私にかけてくる。
仕事の途中だというのに、一通りジャニス・ジョプリンについて調べ直してしまったではないか。

ジャニスの声ももちろんそうだけれど、啼いているような、叫んでいるような、ギターも良い。
こういうのはジャニスの想いを忠実にギタリストが代弁しているものなのだろうか、それともギタリストの想いが主体なのだろうか。
どちらなのだろう。


朝方、と言っても時間的には完全なる朝というか9時くらい、夢を見て目が覚めた。
夢なのか現実なのか、夢なのか、現実なのか、と現実に引き戻されて定まらない思考回路をうろうろする。
夢で取り乱すなんて、と思うけれど、私はよく夢で取り乱す。

よくドラマなどで悪夢を見て冷や汗をかいて、がばっと飛び起きるシーンがあるけれど、ああいうふうになる人は実際にはいるのだろうか。
いるのだろうから、ああいう行動が悪夢の象徴的なシーンとして成り立っているのだと思うけれどあまり聞いたことがない。

私はそんなに頻繁に夢を覚えているタイプではないけれど、良い夢も悪い夢も、よく分からない夢も見る。
悪い夢を見たとき、それが正夢になったらどうしようとか、何かの知らせかもしれないと思うけれど、正夢になったことも現実を予見されたことも一度もない。
夢は、ときどきあり得ないほどに優しくて、吐き気がするほど残酷でもある。
現実は、厳しくも優しくも、現実だ。

しかしながら、私の場合幾度か同じような内容の夢も見るのであって、それは私の深層にこびり付いているとしか思えない。
子どもが泣き疲れて眠るように、痛みの波が引いていくように、夢に疲れて再び眠るのは少しだけ心地よかったりもする。


実現したいことがある。
今のところ、それに触れようとしてみて、それが計り知れない巨像だということを知ったに過ぎない。
私の心に火がついて、目が輝くことをしてみたい。
いつかどこかにたどり着きたいけれど、たどり着けないかもしれない。

感情とは唐突なもので、それを感じている一瞬だけが本当で、もう一度自分でリアルタイムに再現することはできない。
それを説明することさえ危ういものだ。

けれど、そんな幻のような感情の振れに立ち会いたいと思ってしまったこの道だ。
どこかたどり着きたいその場所に、少しでも、遅々とでも、進めている感覚さえあればいい。


谷川俊太郎の「せんはうたう」
友人からもらった少し早めの誕生日プレゼントの最新詩集。

こちらも紙が大きすぎてどうしていいやら。





はくたかさん

2014-01-13 17:55:10 | 日記
どうしても派手な原色しか塗れなくて、服装によってはゴテゴテになってしまう私のマニキュアに新しい風を取り込む。
コンクリート色、血豆色、小豆色のどれかにしようとマニキュアを探しに行く。
買ったのは、スモーキーなベージュと、ふんわりしたすみれ色。

ベージュを塗ってみて、それだけでも十分に新鮮な感じがして随分嬉しく、デザイン的にプレーンにしておくべきだと思った。
しかしデザイン的にではなく、手持ち無沙汰という意味で何か上塗りしたくなってすみれ色を各爪にランダムに塗る。
ベージュとの境い目が微妙な感じになったので、境い目にラメを塗ってカモフラージュ。
いつものように、左手はギターを弾くために爪が短いので上塗りしても映えない。

完成した控えめ色のネイルは何だがとても手の馴染みが良くて気に入った。
10日間ほどしかもたないマニキュアだけれど、乾くまでの時間行動が制限されることを除けば楽しいものだ。
爪は直に色が付けられて、且つほぼ思い通りの発色が得られる唯一の場所だ。


夜型の私は朝まで寝られず、結局1時間だけ寝て飛行機で金沢に向かう。
体がぼわんとしていて、あくびばかりして飛行機に乗ったら直ぐに寝てしまいふと気がついたら小松空港の離陸直前だった。
バッドランディングであった。

金沢に来たのは、21世紀美術館で柿沼康二さんの個展を見るためだ。
岡本太郎の言葉を書で書いたり、最近はメディアにも露出されているので作品を見ることも多く、気になっていた。

友人と現地で待ち合わせていたけれど2時間遅れると言うので先に見て回る。

まず、圧巻の大きさ、恐ろしいまでの。
小学校の体育館の3分の2くらいの超大作がいくつかあった。
全体的に龍のような字を書く人だなと思った。
爆発的な波動がある。
矢沢永吉みたいだ、とも思った。

私は彼の作品集をもっているし、風信帖の臨書風景もYouTubeで見たことがあったので細字もとても上手な人だということは知っている。
それであの超大字なのである。

すごかった。
十分過ぎるほどに柿沼さんのエネルギーを感じた。
創作過程のDVDも流れていて、自分と同じくらいの大きな筆を振り上げたり振り下ろしたり、気合いを入れるために叫んだり。
柿沼さんの後ろにマグマが噴き出る活火山でも見えそうだった。

確かに、それはそうなのだけれど、“恥ずかしさ”を感じることがなかった。
今の私は“恥ずかしさ”があるものが見たかったりする。
その“恥ずかしさ”は技術不足の拙さという意味ではなく、創り手の血が滴るくらいの生々しい思い。

恐らくだけれど、柿沼さんは身体的なトランス状態から創作をする人なのだろうと想像する。
また、身体性が強いだけに表現の手法としては彼にとっては書でなければならないのかもしれないとも思う。

私の言う“恥ずかしさ”の正体とは、改めて何なのだろう。

ともあれ、今後も見て行きたい書家である。

石川に来たからにはと、兼六園に行って、夜はお酒を飲みながら魚を食べる。
新鮮な魚や海産物を売っている市場にも行って、彦摩呂の言うところの海の宝石箱もざくざくだったのだが、私はこういうものに全然テンションは上がらない。
海のものはさほど好きではない。

帰りは新幹線で。
前日1時間しか寝ていなかったとことが功を奏し久しぶりに12時に就寝することができたのだけれど、終始眠たくて金沢からの特急列車はほぼ寝ていた。
時々目を覚ますと、外は真っ白で雪深い道を進んでいた。


「ロックンロールは君の悩みを解決するものではない 悩んだまま踊らせるのだ」
これはザフーのピートタウンゼントが言った言葉らしい。
好きな言葉というよりは、芯に響く言葉。