知っても何も変わらないし、それについて好転や解決が望めないことも確かであることを知ったとする。
それは、確かな絶望、と呼べるかもしれない。
「私の気持ちなんて分からないよ」と卑屈になるのは嫌いだし、そういうふうに他人にぶちまけることもしてこなかった。
たぶん、私は人に対してこのようなことを言ったことは一度もないと思う。
それは、そうする以前にそれほどまでの自分の気持ちを知ったことがなかったからでもあるし、「人の気持ちなんて分からない」という大前提の下で暮らしているからでもある。
絶望、というのは言葉としてハードなものだ。
私は何にしても最上級の言葉を使うときは慎重になったりもする。
最上級を使うほどの何かがそれにないと、断定的にそれを使うことはしない。
単発的なものであれ、すぐに変化してしまうものであれ、言葉はいつも、自分にとって真実味があるように発したいと思っている。
だから、絶望、という言葉を使うのはとても恐れ多い。
そもそも、絶望、なんてものがこの世にあるのかと思っていた。
しかし人がそれを絶望と呼ばなくても、それが自分にとって確かなものかどうかは、それだけは、自分で判断ができる。
というか、自分にできると思っていなかったのだけど、できてしまった。
ただ、ある種の絶望に立ち会ったからと言って、案外不思議と、楽しく生きていこうとする姿勢にほとんど悪影響を与えることがない。
絶望、なのだから、それは決して好ましい内容のことではないけれど、その絶望すら私は知りたかったのだと思える。
それは、より自分が本当に思っていることのど真ん中を突いていることに他ならず、良いことも悪いことも、そのど真ん中を知ることはひとつの生の瞬間である。
そうしてなお、私がより良く生きていけたらいいなとまた願う。
私はこの絶望については、誰か、ものすごく特別な誰か、と共有したいと思わない。
ただ内容の理解ではなくて、私にそういうことがあるのだ、ということについて想像してもらえることがあったとしたら、それだけでとてもとても嬉しい。
ある正しい想像の上で、大丈夫と言ってもらえたら、私は溢れてしまう。
人に話しておいて我が儘極まりないかもしれないけれど、想像が正しくない場合に「わかる」とも言われたくない。
慰めも要らない。
一般論だったら今まで自分で自分にかけ続けてきた。
このことはどうやって説明したら良いのか分からないのだけれど、絶望や孤独を、誇張も増幅もしているつもりは毛頭ない。
たぶん私の心に巣食っているその大きさそのものをまっすぐ感じると、こうなるのだと思う。
丁寧に鰹の厚削りで出汁を取ってお味噌汁を作る。
最後に味見して、まあまあおいしい、となってから、最後に顆粒のかつおだしをほんの少し少し入れる。
すると、ウッと思うほどおいしくなる。
おおお、と思う。
私はこれをお味噌汁を作るたびに嬉しんで体感する。
化学調味料のすごさと、自分の舌の素直さに驚く。
具材として肉の力を借りないならば、やっぱり化学調味料の力は絶大なる信頼がある。
刺激物に慣れて麻痺してしまうことを決して良いとは思わないけれど、別に私は自然派でもなんでもないので、おいしい方が良い。
トランス脂肪酸とか臭素酸カリウムがとか、話題になっている物質が入っている食品については確かに避けている面もあるけれど。
いや、トランス脂肪酸でよく言われるマーガリンの「バター風味」などといったよく分からないものは愛用しているけれど。
そんな今日は、マーシーの「アネモネ男爵」
やはりこうして見ると恥ずかしい。
遠目に、風合いだけ見るならまだしも。
まあでも、止めない。
そしてやはり、裏打ちや表装も自分でできるようにならないとと思う。

それは、確かな絶望、と呼べるかもしれない。
「私の気持ちなんて分からないよ」と卑屈になるのは嫌いだし、そういうふうに他人にぶちまけることもしてこなかった。
たぶん、私は人に対してこのようなことを言ったことは一度もないと思う。
それは、そうする以前にそれほどまでの自分の気持ちを知ったことがなかったからでもあるし、「人の気持ちなんて分からない」という大前提の下で暮らしているからでもある。
絶望、というのは言葉としてハードなものだ。
私は何にしても最上級の言葉を使うときは慎重になったりもする。
最上級を使うほどの何かがそれにないと、断定的にそれを使うことはしない。
単発的なものであれ、すぐに変化してしまうものであれ、言葉はいつも、自分にとって真実味があるように発したいと思っている。
だから、絶望、という言葉を使うのはとても恐れ多い。
そもそも、絶望、なんてものがこの世にあるのかと思っていた。
しかし人がそれを絶望と呼ばなくても、それが自分にとって確かなものかどうかは、それだけは、自分で判断ができる。
というか、自分にできると思っていなかったのだけど、できてしまった。
ただ、ある種の絶望に立ち会ったからと言って、案外不思議と、楽しく生きていこうとする姿勢にほとんど悪影響を与えることがない。
絶望、なのだから、それは決して好ましい内容のことではないけれど、その絶望すら私は知りたかったのだと思える。
それは、より自分が本当に思っていることのど真ん中を突いていることに他ならず、良いことも悪いことも、そのど真ん中を知ることはひとつの生の瞬間である。
そうしてなお、私がより良く生きていけたらいいなとまた願う。
私はこの絶望については、誰か、ものすごく特別な誰か、と共有したいと思わない。
ただ内容の理解ではなくて、私にそういうことがあるのだ、ということについて想像してもらえることがあったとしたら、それだけでとてもとても嬉しい。
ある正しい想像の上で、大丈夫と言ってもらえたら、私は溢れてしまう。
人に話しておいて我が儘極まりないかもしれないけれど、想像が正しくない場合に「わかる」とも言われたくない。
慰めも要らない。
一般論だったら今まで自分で自分にかけ続けてきた。
このことはどうやって説明したら良いのか分からないのだけれど、絶望や孤独を、誇張も増幅もしているつもりは毛頭ない。
たぶん私の心に巣食っているその大きさそのものをまっすぐ感じると、こうなるのだと思う。
丁寧に鰹の厚削りで出汁を取ってお味噌汁を作る。
最後に味見して、まあまあおいしい、となってから、最後に顆粒のかつおだしをほんの少し少し入れる。
すると、ウッと思うほどおいしくなる。
おおお、と思う。
私はこれをお味噌汁を作るたびに嬉しんで体感する。
化学調味料のすごさと、自分の舌の素直さに驚く。
具材として肉の力を借りないならば、やっぱり化学調味料の力は絶大なる信頼がある。
刺激物に慣れて麻痺してしまうことを決して良いとは思わないけれど、別に私は自然派でもなんでもないので、おいしい方が良い。
トランス脂肪酸とか臭素酸カリウムがとか、話題になっている物質が入っている食品については確かに避けている面もあるけれど。
いや、トランス脂肪酸でよく言われるマーガリンの「バター風味」などといったよく分からないものは愛用しているけれど。
そんな今日は、マーシーの「アネモネ男爵」
やはりこうして見ると恥ずかしい。
遠目に、風合いだけ見るならまだしも。
まあでも、止めない。
そしてやはり、裏打ちや表装も自分でできるようにならないとと思う。

