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つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

粉レス

2014-02-26 03:06:23 | 日記
私は比較的「仕事ができそう」ということを他人からよく言われる方だと思う。
どういう意味で、どのくらいのレベルで、「仕事ができそう」と言っているのかは不明だけれど、自分でそう言われることが多いように自覚している。

こういう場合、「仕事ができそうな顔」をしている、というのもどうやらあるらしい。
私みたいな顔の人が「仕事ができそうな顔」とすると、いもうともそう言われるのだろうか。
「しっかりしてそうな」「ちゃきちゃきしている」という印象もあるらしいから、それは私の喋り方にもよると思う。
早口だし声が大きいし、曖昧さは嫌うけれど、言い切れないことを言い切ったりもしない。

私は「仕事ができそう」と言われて、心外だとはもちろん思わないけれど、すごく正直なところそんなに嬉しくはない。
できそう、というただ推測だから特に否定も謙遜もしないけれど、「目が鋭いからですかね」と少し自分でも訳のわからないことを言うようにしている。

そして、実際に「仕事ができる」かどうかは、ある面においてはそうかもしれないし、ある面においてはそうでないかもしれない。
それはみんなそうだ。

しかしなんにせよ、「仕事の声がかかる」ということは当然ながらお金を生むという価値があることで、その仕事をやるやらないは置いておいても、ありがたい話である。
自由業になってなお、そういう話があるのはとてもとてもありがたい話である。

その受ける受けないを私が自分で選ばなければならない。
私の能力でそれができるのか、私は本当にそれをやりたいのか、総合的にお金はどうなのか。
この3つを軸に考えなければならない。

ある仕事の話をいただいて、それは私が自由業でやりたかったこととは全然違う。
全然違う、というよりは、ジャンルはそうだけれど質が違う。
まさに「仕事ができそう」という顔とか雰囲気を見られてのことなのだろうとは思う。

今私は非常に複雑な気持ちでいる。

そのジャンルに携わりたい気持ちはあるけれど、私はそのポジションに就きたいわけではない。
しかし、そういうポジションの仕事を、私はたぶんものすごく頑張れば何とかかんとかできるのかもしれない。
つまり適性がないわけではなさそうということは自分でもわかる。

そして自由業になったことに、今の私はいろんな意味において満足しているけれど、不安がないわけでは当然ない。

私は自分で選んで会社を辞めて、自分が社会において何者であるかを非常に説明しづらい立場にいることに面倒と少しの不安を感じている。
周りに、「自分が何者であるか」を明確に言えた方が楽というのは間違いないことだ。

私はその仕事を断るだろうことは、自分で分かっている。
しかし今の私にとって重要なのは、それなのになぜ複雑な気持ちになったのか、というところだ。

リリーフランキーのように、「ライター、エッセイスト、小説家、絵本作家、アートディレクター、デザイナー、ミュージシャン、作詞家、作曲家、構成作家、演出家、ラジオナビゲーター、フォトグラファー、俳優」という肩書きを見て、しかし別に私が安心できる点は何もない。
リリーフランキーがリリーフランキーであることはすごいことなのだ。

ただ定めないのは良くないことなのか。
定めないことで心配になるのは周りではないのか。
定めないことで自分も心配になるのか。

やるだけだ、具現化するだけだ、とりあえず、何はどうあれ。
進め、小心者。

という現時点の思考。


はだかの血管には、冬の間にもずっと血が通っていた。
血流が漲って、ふくふくと蕾が膨らんで空に昇る。