久しぶりに、ペットボトルのお茶が鞄の中で全部こぼれた。
もう長らくこの現象には出くわしてなかったのだが。
突発性締められない症候群。
とはいえ、2か月で2回、私は派手にすっ転んでいることを思うと、注意力散漫というか意識が手元や足元の安定に及んでいないことは否定できない。
ほぼ500mlすべてが、鞄の中を浅い海と化していた。
鞄の縫い目から滴が落ちていることに気付いたときには、もう、鞄の中で濡れていないものはなかった。
お札もポイントカード各種も金券もしわしわで紅茶色に染まっていた。
新幹線の切符が2枚、もれなく染まっていたが大丈夫だろうか。
ノンシュガーだったことだけが幸いではある。
会社の机上に鞄の中身を全部並べて乾かす。
鞄の中に新聞紙を詰める。
雨天の今日は湿気がなかなか抜けない。
夜になっても皮の財布が乾かない。
そろそろまたワイングラスの水を口につける前に傾けて自分にこぼしてしまうかもしれない。
『重力ピエロ』
私は伊坂幸太郎の原作を読んではいないが、してやられると読める展開も、やはりさすがに突き刺すようなことをしてくる。
伊坂幸太郎と東野圭吾は私の中で似ていて、多くの人に刺さるプロットのうまさと言葉の巧みさを持っていると思う。
それは他の小説原作作品よりも、映画化してもその巧さは割と薄れることがない気がする。
というか映像というよりは、原作ストーリーでもっているのだろうと思われる映画だった。
春の憂いは消えることは決してない。
実の父親を殺してもなお。
生のルーツは、存在そのものにおいてそれ以外になく紛れもない真実で、根源的過ぎる。
本人のそれは確実に不変であることへのどうしようもなさ、苦しさを持っている。
愛された記憶にさえ疑い深くなるはずの事実を、この家族の場合は愛した側の愛情の大きさが勝った。
そして、突こうともせず、こじ開けようともせず、ただ弟を信じる立場で居続けた泉水のあり方が春を救った。
家族それぞれが皆、それぞれの立場の憂いを抱えて補完し合っている。
誰に焦点を当てても、物語は成り立つ。
喜びの分け合いよりも、憂いの分け合いの方がたぶん難しい。
自分で触れるのも嫌な種類の憂いは、本人でさえもよく理解のできないところにあるのだろう。
そしてその憂いは、無意識のうちに関わる誰かを攻撃してしまうことがあったり、他人の目には奇異に映ったりする。
また本人がその憂いを実は手放そうとしていないこともあるかもしれない。
ラッキーにも分かち合い溶けることもあるかもしれないが、多くの場合は家族か家族でないかは関わらずそれをそれとして受け入れ寄り添う誰かの存在でしか救えないようにも思う。
優しさとも少し違う、煙みたいな包容力。
ふわふわのバランス力。
去年の『ケイゾク』のとき以来久しぶりに渡部篤郎を見た。
かなりの悪者としての出演だったがやっぱりかっこいい。
もう長らくこの現象には出くわしてなかったのだが。
突発性締められない症候群。
とはいえ、2か月で2回、私は派手にすっ転んでいることを思うと、注意力散漫というか意識が手元や足元の安定に及んでいないことは否定できない。
ほぼ500mlすべてが、鞄の中を浅い海と化していた。
鞄の縫い目から滴が落ちていることに気付いたときには、もう、鞄の中で濡れていないものはなかった。
お札もポイントカード各種も金券もしわしわで紅茶色に染まっていた。
新幹線の切符が2枚、もれなく染まっていたが大丈夫だろうか。
ノンシュガーだったことだけが幸いではある。
会社の机上に鞄の中身を全部並べて乾かす。
鞄の中に新聞紙を詰める。
雨天の今日は湿気がなかなか抜けない。
夜になっても皮の財布が乾かない。
そろそろまたワイングラスの水を口につける前に傾けて自分にこぼしてしまうかもしれない。
『重力ピエロ』
私は伊坂幸太郎の原作を読んではいないが、してやられると読める展開も、やはりさすがに突き刺すようなことをしてくる。
伊坂幸太郎と東野圭吾は私の中で似ていて、多くの人に刺さるプロットのうまさと言葉の巧みさを持っていると思う。
それは他の小説原作作品よりも、映画化してもその巧さは割と薄れることがない気がする。
というか映像というよりは、原作ストーリーでもっているのだろうと思われる映画だった。
春の憂いは消えることは決してない。
実の父親を殺してもなお。
生のルーツは、存在そのものにおいてそれ以外になく紛れもない真実で、根源的過ぎる。
本人のそれは確実に不変であることへのどうしようもなさ、苦しさを持っている。
愛された記憶にさえ疑い深くなるはずの事実を、この家族の場合は愛した側の愛情の大きさが勝った。
そして、突こうともせず、こじ開けようともせず、ただ弟を信じる立場で居続けた泉水のあり方が春を救った。
家族それぞれが皆、それぞれの立場の憂いを抱えて補完し合っている。
誰に焦点を当てても、物語は成り立つ。
喜びの分け合いよりも、憂いの分け合いの方がたぶん難しい。
自分で触れるのも嫌な種類の憂いは、本人でさえもよく理解のできないところにあるのだろう。
そしてその憂いは、無意識のうちに関わる誰かを攻撃してしまうことがあったり、他人の目には奇異に映ったりする。
また本人がその憂いを実は手放そうとしていないこともあるかもしれない。
ラッキーにも分かち合い溶けることもあるかもしれないが、多くの場合は家族か家族でないかは関わらずそれをそれとして受け入れ寄り添う誰かの存在でしか救えないようにも思う。
優しさとも少し違う、煙みたいな包容力。
ふわふわのバランス力。
去年の『ケイゾク』のとき以来久しぶりに渡部篤郎を見た。
かなりの悪者としての出演だったがやっぱりかっこいい。
