goo blog サービス終了のお知らせ 

つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

壁の話

2015-09-04 00:50:29 | 日記
プリンターを買った。
お手本やらなんやら、コンビニのコピーやプリントアウト機能に走っていることが増えたからだ。

大きな機器を家に増やしたくないのだけれど、必要なものは仕方がない。
いろいろと探してみると、スキャンも両面印刷もWi-fi対応も付いているA4サイズの複合機が4000円もしない。

そんなものなのかと、その値段帯のいくつかの中からヒューレット・パッカードのものを早速注文する。
ヒューレット・パッカードがどうとかは一切何もないけれど、amazonの商品検索で一番上に出てきた、から。

電子機器全般に酷くひどく苦手意識がある私だけれど、アレルギー的に自分にバグが起こって、物事が無駄に進まなくなるのは避けたい。
こういう場合、少しでも躓くとその途端に心が折れて、「やっぱり初期不良を引いてしまったか…」と、もしかするとそうではないかもしれないのに、そう結論付けかねない。
事実、過去にはPCの初期不良などには当たったことがあるのだけれど、実際のところそれが“本物の”初期不良であったかどうかは既に闇の中である。

説明書を、一歩、いっぽ、と落ち着いて読み進めていく、丁寧に指示に従う。
最近の機器は、実に懇切丁寧な誘導をしてくれるのでありがたい。

無線接続と、ソフトウェアインストールのCD挿入口が私のPCにないことで少々戸惑ったけれど、HPのHP上からドライバはダウンロードすることができた。
プリントアウトしたかった請求書やお手本のスキャンとコピーまで無事にたどり着けた。
これで良し、と、色々と他の便利な機能がもるだろうけれど、必要事項はHPに書いてあるだろうから保証書と説明書は邪魔なので捨ててしまおうか。

テレビのレコーダーも、クロームキャストも、一応最低限の機能は初期設定から問題なく使えている。
こうして少しずつ機械アレルギーが克服できていくといい。

こういった家電を買うとき、必要性とクオリティの話は別物で話はいささか逸れるけれども、やっぱりBOSEのスピーカーが最近の私の家電の中では断トツに買って良かったものだ。
クロームキャストは買った当初、相当に推していたが、iPhoneを落として端末認識の設定を変えねばならなくなったことと、HDMI端子がテレビのレコーダーで取られているので全く使っていない。


雨空が止まない。
秋のしっとりとした空気は優しいけれど、天高し、といった青空が見たい。

アスパラを塩胡椒で軽くソテーする。
穂先が豆の味がする。

ぐるぐると渦になっている蚊取り線香の匂いは、焚きっぱなしは少し辛い。

寝づらいソファで、それでも数時間も寝てしまうのはどうにかならないものか。

煙草が、美味しい。

どれも、何か特別なところの意味は、ない。

いろんなことが散り散りで、散り散りなのは良いけれど、こじんまりと散り散りだ。


飛びだしてつぐんだ先に小鳥渡る







千の起伏

2015-09-03 02:32:10 | 日記
いもうとの家で食べた切り干し大根の煮物が美味しくて、初めて切り干し大根を買った。
今まで避けてきたのは、私に使いこなせる代物ではないと、なぜか乾燥大豆を水から煮るくらい面倒であるとレッテルを貼っていたからだ。
というのと、ひじきを水でもどすときにザルに目詰まりして面倒を被った学生時代の記憶から、乾物を扱うのを避けてきた節もある。
なんだか今思い出すとよく分からないけれど、そのとき私は何かに怒っていて、ひじきで目詰まりしたざるを確かそのまま捨てたのではないかと思う。

よく、料理番組などのレシピでは、「だし汁1カップ」という表現がある。
出汁をとることというのは、結構繊細な作業というか、工程が大切なように思うのだけれど、それが「だし汁1カップ」という言葉で省略されて良いものだろうか。
まあ、毎度そんなことをやっていては、肝心のレシピが紹介できないということだとは思うけれども。

斯く言う私も、よく使うかつおの厚削りでさえも正しい出汁の取り方はよく分かっていない。
味噌と同じで、沸騰して煮立ててはいけない、と言われると思うが、いつかの「きょうの料理」で小林カツ代さんが、「かつお節は水から入れて、美味しさをぐつぐつ煮出して搾り取ってください。灰汁だけはちょっと丁寧に取ってくださいね。これが美味しさの秘訣です。」と言っていたのがしっくりきて、今も私はそうしている。

かつおの厚削りを水に浸しておく。
厚削りが水分を含んで茶色が少し白くぼけたくらいで中火にかける。
そうした方が、じっくりと旨味を搾り出せるような気がする。
火にかけて10分強、灰汁を少し取って、黄金色になっただし汁を器にあけておく。

切り干し大根を軽く水洗いして、こんにゃくを下茹でする。
こんにゃくは味が染みやすいように表面に格子状に包丁を入れて、サイコロ状に切る。
包丁できれいに切るよりもスプーンで抉った方が味が染みやすい、とこれもどこかの料理番組で見たけれど、スプーンが汚れるのでしない。

私は、生姜が好きで、冷蔵庫にあればかなり高頻度でいろんな料理に入れる。
だいたいすりおろしで使うけれども、今回は千切りにする。

この時点でまだ「切り干し大根の煮物」という構想しかないので、冷蔵庫を除いて入れられそうなものは全部入れる。
シーチキンと、三つ葉と、豆腐と、しめじと。
豆腐は水分がとても多いので安い豆腐は特に一度水切りをして、美味しい水を吸わせると美味しい豆腐になる、と友人が言っていてなるほどと感心したのだけれど、ごった煮を作るのに美味しい水を吸わせなくても良いだろう。

シーチキンをフライパンにあけて、火にかける。
何気なく空き缶を見ると「一缶159kcal」とあって、とても低カロリーな気がして、なるほどノンオイルである。
シーチキンを使うとき、私はたいてい葉物と一緒に煮ることが多いので、どろっとしたコクが欲しい。
ノンオイルは買ってはダメだ。

ごま油を少し足して、三つ葉と豆腐以外をフライパンに放りこんで軽く炒める。
だし汁を戻し入れて、ぐつぐつと煮る。
切り干し大根は甘いのでみりんはやめて、しょうゆと塩で味付けする。

味は冷めるときに入る、これも何かの料理番組でしつこく言っていた。
おでんなども長時間煮込むよりも、一旦火から下ろして冷蔵庫に入れた方が味は染み込む、と。

だから私は煮物を作るとき、たいてい今食べないときに、夜な夜な深夜も深夜に作る。
冷蔵庫に入れはしないけれど、ひと晩というか、ひと朝置く。

豆腐と三つ葉を入れてひと煮立ちさせて、火を止める。

翌日、混然とした感じが出たごった煮を温め直す。

切り干し大根は、滋味深い。


うそみたいなほんとみたいなうそみたいなほんとみたいな、うそみたいな、多肉植物。


ししとうの当たりを引いて夏終わる




メリメリ

2015-08-24 15:40:24 | 日記
ペンケースについて記憶の最後のお店に問い合わせてみたところ、どなたかが拾ってくださったらしく、お店に保管してあります、とのことだった。
良かった、とてもありがたい、頭が下がる。
財布や携帯電話、大切な落とし物はなんだか全部出てくる。
そういう私は何か落とし物を拾うことがほとんど経験がないのだけれど、そして拾って届けてくださった方には何のお礼をすることもできないのだけれど、何か拾った際には落とし主さんへ戻したい。


9月半ばが締め切りの展覧会の作品を書く。

ここしばらく、しかも結構長い間、私は何かとても停滞と諦めのような気持ちを抱いていた。
昨年、同じ展覧会で何か書きたいというあまりにも強い気持ちが持てず、何なら賞を狙ってみようという方針で出品した。
結果、それまでで最も良い賞を獲れたのだけれど、展覧会場で自分の作品を見たときに「あぁこういうことではない」そんな風に思ったことをよく覚えている。

でもやっぱり、良い賞をいただくことは嬉しい、そんな気持ちもあった。
でもやっぱり、賞ではなく自分の納得だ、とそんなきれいごとのようなことを本気で思った。

しかしながらそれからもどうして良いか分からず、とりあえずちょっとした技術の向上だけを積み重ねてきた。
前作については本当に「自問自答」していた感じがする。

今回書いてみて、少しだけ何かが戻ってきたような気がした。
人から見たら何が変わったか全然わからないだろうし、私でさえも何がどのように変わったのかは作品上で的確に言うことはできない。
でも何となく、手触りのような、テクスチャーのような、そんな風合いが違って見えた。

そして、いつまで経っても「自問自答」など終わりはないけれども。

「ひこうき雲」荒井由実
「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」かまやつひろし
「男の子と女の子」岸田繁(くるり)

の3つをとりあえず。
どれも私は書いている途中に泣きそうになってしまう。
「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」以外の2つは過去に書いたことがある。
最近はもう一度、今の私が触れてみることをやってみたい。

一方で、多方面で活躍するある書家の方が「楷書の臨書は難しい」ということを言っていたことにも、改めて考えさせられる。
そう、当然ながら楷書は難しい。
線のブレも空間のブレも許さないから。
私は中国の古典においては楷書体が一番肉迫するものを感じる。


いもうとの第2子が産まれて、その手伝いにと日程を1か月前ほどから予約されている。
いつも比較的つっけんどんなおばさんだけれど、早く会いたいな、なんて初対面の日を待ち望んでいる。

決まっていたはずの名前は、2つの候補で悩んでいるようで、名前なき空白の数日。
いもうとは私の意見に重きを置くような人ではないので、おばさんとしてはこっちの方が、と言ってみる。
名前がないから「赤ちゃん」と呼ぶ。

赤ちゃんの物づくりに精を出している友人に何かプレゼントを作ってほしいなと頼むと、快くオーケーしてくれた。
「赤さんの身長体重、生年月日時を聞いておいて」と、彼女は「赤さん」と呼んだ。

どうか、赤さんの人生が良きものでありますように、と心から願う。


仏間にて扇風機だけ首を振る




ぷんすいとゲリラゴーレ

2015-08-23 12:53:28 | 日記
中学生のときにオーストラリアで買ったカンガルーの皮のペンケースを失くしてしまった。

財布を落としたり、携帯電話を洗濯機で洗ったり、花瓶を割ったり、ペットボトルのお茶がバッグの中で全部こぼれたりと、何かとヒューマンエラーの多い私であるが、最近はそんなことが前にも増しているような気がする。

いつも、なぜそれが起きたのか、そのときの状況をだいたい事細かに思い出せるのだけれど、今回はさっぱり身に覚えがない。
そして、花瓶のように、失くして良かったなどと思えない。
愛用していた花瓶よりもずっと、毎日愛用していたのだ。

あの年でよくあんなものを、というような類の毛皮のペンケース。
動物が座っていてお尻が皺にならないように、皺にもならず、また毛を削がれた皮のように古ぼけた味わいが出ることもなく、いつでも同じ形と同じ風合いをしていたペンケース。
ときどき、無意識に毛並みを撫でたりして、もう20年弱もの間使ってきた。
ペンケースを新しく他のものにしたいという発想すら、抱いたことがなかった。

それを使った記憶の最後であるカフェに電話をしてみるも、生憎定休日。
明日また電話することにするが、なんだかもう遠く手元を離れてしまった心持ちに耐えられなくて、出てこないことを早いところ納得させたくなる。

服や靴などよりも、私は大切にしている雑貨が多い。
服や靴は自分の体に纏うもので、纏う本体が細胞の変化で常に変わりゆくから、それに着せるものも自然と代謝されていく。
自分の外にある物は、物として変わらない限り、またそれに対する自分の精神が変わらない限り、そこにあってほしいと願う。
これは我が儘だなと思う。

自分の外にある物が、壊れたとき、失くなったとき、よくある言い方で、“失くして初めてその重要性に気が付く”、あるいは“重要でないことに気が付く”。
自分の外にある物、だけでなく、環境などにも言える。

しかしながら、とても重要性の高いものでさえも、お腹が空いたり、どうにも眠かったりという本体の生理現象にはかなわない。
重要なペンケースを失くしたところで、私は食べ物がのどを通らなくなることも眠れなくなることもない。


岡本太郎の『今日の芸術』という本が名著であった。
私は本を読むことが得意ではないけれど、食い入るように読めた。
とても現実的で、地に足が付いた芸術論。

私は、芸術、なんて言葉を自分が発することに恐れ戦いているのだけれど、まさにその考えこそゲスであるというようなことが書かれている。
幼い頃にも全く自由に絵を描いた経験など、ただの一度も、本当にないわけで、そして今でさえ全く自由に私は書を書けるわけでもないわけで。

自分のダメさ加減を思い知りながら、まあでもそれがしたかったので書いた。


フォトチャンネルがいっぱいになっていたので、最近のものをまとめてアップしました。
記事にはアップしていますが、よろしければご覧ください。



ユーカリの思うがままの呼吸かな




大丈夫して

2015-08-21 12:52:38 | 日記
京都駅の階段で足を滑らせ、1,2段正座のような状態で転げた。
「キャッッ」と自分でも似つかわしくないと思うような悲鳴を上げて、ほんの一瞬宙に舞った。

寸分の間もなく、ノースリーブの私の腕を温かい手が触れた。
「だいじょぶ?」と片言の声が聞こえて、「すみません、大丈夫です」と振り返ると、タイ人らしき肌のこんがりした若い男性がいた。
正座の私をすくい上げ、タイ人らしき若者は去って行った。
ヒヤッとした後の混乱した頭で、「ありがとうございました」と言った声は届いたのだろうか。

全然大事には至らなかったけれど、足の甲が少し腫れている。
軽い捻挫だろう。


大きなユーカリの葉っぱが重すぎて、不意に触れたら花瓶がグワンとバランスを崩して倒れ、弾けた。
「うわー」という大きな声が出た。
ソファーや墨池に水が掛からなくてあぁ良かった。

あぁ良かったと思ったのはもう一点あって、比較的よく使う花瓶が割れてくれたこと。
最初は「大事な花瓶が!!」と思ったのだけれど。
こうでもならなければ失くせない、そんな風に思った。
考え物の精神性だ。


いもうとがふたり目を産気づいているらしい。
初めて姪が産まれた三年前、私は産気づいたと聞いて、会社の外に出てうろうろした。

今はそんなことはない。
がんばれ、と念は送る。


なんだかいろいろあったような、何も変わらないような、そして何かが分かったような、だからと言って何でもないような。
床に横たわって瞑想する用の布を買った。
瞑想というほどのものでもないけれど、これをするなら溶けそうなくらいに暑い方がいい。

夏が行ってしまう淋しさは、きちんと私のものだろうか。


似ていることや共感はある種の嬉しさを産む。
最大級のそれが欲しいかもしれない。
しかし、それよりももっと、ただそれだけのもの、の方が欲しい。


今日の書は、お名前の漢字一字をLINEなどのアイコンにしたいと依頼されて書いたもの。
その方は、左上が一番自分らしい感じがします、と言っていた。


ミントが、きれい。


姉になるその日に姉にサマードレス