最近あまり音楽を積極的に聴くことがなかったのだけれど、SEKAI NO OWARIやRADIO HEADを借りて、すごく好みというわけではないけれどもとても“本物感”を感じたりする。
言っていることがどうかというよりは、作り手が作り手として立っている感じというか、立とうとしている感じというか、どうにもしようがない“それ”だったり、音楽的な世界観としての“それ”だったり。
ついでに久しぶりにギターを手に取って、かねてより気になっていて、しかし相当の期間放っていたトライアドを再度やってみる。
トライアドは、三音で成り立つ和音。
何だかよくわからないけれど、私は和音の世界が好きだし、コード理論が好きだ。
まあでも、好きだ、というほど私の頭は数学的にできていないので、半歩の理解を進むのに、うううううう、とじりじりしか進めないのだけれど。
ギターにおいて、何ひとつ、弦が6本あることも爪が長いと弾けないことさえも知らずに始めた私が、「同じ手の形でそのままずらしていくことができるのね!」「ここにもこのコードがあってここにもあるのね!」「ルート音ってそういうことなのね!」ということの理解にギターを持って至ったとき、私にとっては革命的な感じがした。
それを知ってキーを自分でずらすことができるようになったし、ベース音だけ鳴らすということもできるようになった。
もうそれで、マーシーのギターソロが弾けなくても、コードを弾いて歌ってしまえば、何とか曲になるので十分だった。
だから長らく、自分がやることにおいては音楽的にもギター的にもストップしてしまっていた。
私は自分が音楽に触ることについて、とても引け目を持っている。
全然分かりません、という大きなコンプレックスの下に始まっている。
それでも気になります、音楽さん、という思いは拭い去れないので、折に触れて熱量が上がったタイミングでまた考えたり触ってみたりするのである。
聴くことと弾くことは別物だし、理論と音の体現も別物である。
多角的にコードをギターにおいて考えていくと、あれとこれとそれが時をずらしてピタリとリンクしたりして、「おぉ!」とか「あぁ!」とかなったりする。
そしてまたそれが音として出るわけであって、それは嬉しいに決まっているではないか。
多角的に、と言ってみるものの、コード理論の全体像からすれば超一側面しか見ていないと思うけれど、コードの組み合わせはメジャースケールとかダイアトニックコードだけを基点として考えても恐ろしくたくさんのことが考え得る。
「音楽は思いなんだよね」とか言う前に、とりあえず、基礎的なスケールと各弦における基礎的なコードのポジションを丸覚えすることはとても重要であることが分かる。
コードの世界はきっとものすごく広くて豊かに広がっていて、でもきちんとした理解さえすればとても汎用性が高く、とても安定した音楽のひとつの土台になり得ることが少しの深度と体感を持って分かって、私はギターに再びポッとした。
その世界の広さや無限さについて、私はまだ正しく認識できないので下手に肝を冷やすこともない。
何事も、物事を体得するのに「思い」だけでできるはずがない。
理解と練習しかない。
いきなりできるようになる魔法なんてない。
そしてまた、スケールを知って、コードを知って、練習して、しかし、当然ながらそれだけで何になるということもない。
ギターという楽器は、面倒くさくて愛おしい。
私は書のレッスンにおいても「汎用性」という言葉を多用するけれど、どんな物事であれ「汎用性」の高いことを知ることは、世界が広がったり、バラバラに見えていたものが統合されるということでもある。
物事を体得するのに、それとは別のことが役に立つことも大いにある。
結局出品しなかった「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」
花や写真に以前ほどの興味がなくなってきた。
好きは好きだけれど。
床磨き終えて艶増す栗羊羹
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/fb/c823a112e71f135374185523aad1cb3a.jpg)
言っていることがどうかというよりは、作り手が作り手として立っている感じというか、立とうとしている感じというか、どうにもしようがない“それ”だったり、音楽的な世界観としての“それ”だったり。
ついでに久しぶりにギターを手に取って、かねてより気になっていて、しかし相当の期間放っていたトライアドを再度やってみる。
トライアドは、三音で成り立つ和音。
何だかよくわからないけれど、私は和音の世界が好きだし、コード理論が好きだ。
まあでも、好きだ、というほど私の頭は数学的にできていないので、半歩の理解を進むのに、うううううう、とじりじりしか進めないのだけれど。
ギターにおいて、何ひとつ、弦が6本あることも爪が長いと弾けないことさえも知らずに始めた私が、「同じ手の形でそのままずらしていくことができるのね!」「ここにもこのコードがあってここにもあるのね!」「ルート音ってそういうことなのね!」ということの理解にギターを持って至ったとき、私にとっては革命的な感じがした。
それを知ってキーを自分でずらすことができるようになったし、ベース音だけ鳴らすということもできるようになった。
もうそれで、マーシーのギターソロが弾けなくても、コードを弾いて歌ってしまえば、何とか曲になるので十分だった。
だから長らく、自分がやることにおいては音楽的にもギター的にもストップしてしまっていた。
私は自分が音楽に触ることについて、とても引け目を持っている。
全然分かりません、という大きなコンプレックスの下に始まっている。
それでも気になります、音楽さん、という思いは拭い去れないので、折に触れて熱量が上がったタイミングでまた考えたり触ってみたりするのである。
聴くことと弾くことは別物だし、理論と音の体現も別物である。
多角的にコードをギターにおいて考えていくと、あれとこれとそれが時をずらしてピタリとリンクしたりして、「おぉ!」とか「あぁ!」とかなったりする。
そしてまたそれが音として出るわけであって、それは嬉しいに決まっているではないか。
多角的に、と言ってみるものの、コード理論の全体像からすれば超一側面しか見ていないと思うけれど、コードの組み合わせはメジャースケールとかダイアトニックコードだけを基点として考えても恐ろしくたくさんのことが考え得る。
「音楽は思いなんだよね」とか言う前に、とりあえず、基礎的なスケールと各弦における基礎的なコードのポジションを丸覚えすることはとても重要であることが分かる。
コードの世界はきっとものすごく広くて豊かに広がっていて、でもきちんとした理解さえすればとても汎用性が高く、とても安定した音楽のひとつの土台になり得ることが少しの深度と体感を持って分かって、私はギターに再びポッとした。
その世界の広さや無限さについて、私はまだ正しく認識できないので下手に肝を冷やすこともない。
何事も、物事を体得するのに「思い」だけでできるはずがない。
理解と練習しかない。
いきなりできるようになる魔法なんてない。
そしてまた、スケールを知って、コードを知って、練習して、しかし、当然ながらそれだけで何になるということもない。
ギターという楽器は、面倒くさくて愛おしい。
私は書のレッスンにおいても「汎用性」という言葉を多用するけれど、どんな物事であれ「汎用性」の高いことを知ることは、世界が広がったり、バラバラに見えていたものが統合されるということでもある。
物事を体得するのに、それとは別のことが役に立つことも大いにある。
結局出品しなかった「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」
花や写真に以前ほどの興味がなくなってきた。
好きは好きだけれど。
床磨き終えて艶増す栗羊羹
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/fb/c823a112e71f135374185523aad1cb3a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/ff/b5867e85cbfbf102af04000feacd0e50.jpg)