野家啓一『物語の哲学』岩波現代文庫、2005.
初めに一言言わせてほしいのだが、どうしてこういう形態で本を出すのか、
正直言って理解に苦しむ。
他のところで書かれた論考を7つ集めて再編集したものなのだが、
読んでいると同じことが何度も繰り返し出てくる。
それも、ある論考で行った議論の要約が別の論考で出てくるというなら
ともかく、まったく同じことがらの説明、同じたとえ、同じ引用文などが
違う章で繰り返されるのはさすがに読者を馬鹿にしてはいないか。
もう一つ納得できない点がある。この本は増補改訂版で、
以前の版と比べると6章・7章が新たに追加されている。
1章から5章が90年代初頭までに書かれたものであるのに対して、
6章と7章はそれから約10年後の筆である。
そして明らかに、そこには論調の違いがある。
よく言えば、著者の思想がだいぶ成熟したということだと思う。
けれどもそういうことであれば、この機会に自分の考えを改めて
まとめなおすということをすべきではないのか。
僕の印象では、この本のエッセンスは6章と7章にある。
だからこそなおさら、そこを元にして以前に書いた文章を鋳直す
ということをしてほしかった。
前置きがずいぶん長くなったが、少なくとも6章と7章に関する限り、
個人的に話の中身それ自体は面白かった。
僕個人の関心から言うと、ポイントは二つ。
一つは6章の「時は流れない、それは積み重なる」という時間論、
もう一つは7章で提案される物語り行為の概念である。
「時は流れない、それは積み重なる」というのはほぼ文字通りの意味で、
時間の流れと普通言われるものはむしろ出来事の積み重なりである、
ということだ。著者のガラス板の説明がわかりやすい。
それぞれのガラス板には模様が書いてあって、これが一つ一つの
出来事に対応する。これを順番に重ねていって、その一番上から
これをのぞきこんだ様子が、現在における過去の想起にあたる。
下の方の模様は多くの場合ぼやけてしまって見えにくくなるが(忘却)、
何かのはずみで目に入ることもある(思い出す)。
これは本人の体験した過去だけでなく、それ以前の歴史についても同様で、
この場合にはたとえば年表に出てくる出来事の一つ一つがガラス板になる。
こういうふうに、歴史も記憶も出来事の系列だというわけである。
そしてこれは「非連続なものの連続」であって、
時間と呼ばれる何かが流れているのではない。
けれども、これは僕の補足だが、僕らがいろいろな出来事を思い出すとき、
それらの前後関係があやふやなことはよくある。
それを一つの話として喋るときには、これらを順番に関係づけて
プロットを仕立てなければならない。
これをもう少し拡張した考え方が著者の考える「物語り行為」で、
「時間的に離れた複数の出来事を指示し、それらを<初め-中間-終わり>
という時間的秩序に沿って筋立てる言語行為」とされる。
著者は科学の説明もこれの一種として考えようと試みているけれども、
そこまでいくかはともかく、思うに世の中で普通なされる「説明」
なるものは、たいていこの形式なのではないか。
この二つの考え方には、時間は後から構成されるという含意がある。
つまり、まず個々の出来事が先にあって、後からそれを順序づけたところに
時間が生まれてくるというような解釈ができなくもない。
人によっては「そんなことあるか」という批判を生みそうだが、
しかし僕にはものすごく納得がいくように思える。
とりわけこの立場で行くと、自分の体験した過去とそれ以前の歴史とは
基本的に区別されないと思うわけで、そうするとこの二つはどちらも
現在の自分によって作られているということになりそうである。
その点、僕は大いに正しいと思うのだがどうだろうか。
初めに一言言わせてほしいのだが、どうしてこういう形態で本を出すのか、
正直言って理解に苦しむ。
他のところで書かれた論考を7つ集めて再編集したものなのだが、
読んでいると同じことが何度も繰り返し出てくる。
それも、ある論考で行った議論の要約が別の論考で出てくるというなら
ともかく、まったく同じことがらの説明、同じたとえ、同じ引用文などが
違う章で繰り返されるのはさすがに読者を馬鹿にしてはいないか。
もう一つ納得できない点がある。この本は増補改訂版で、
以前の版と比べると6章・7章が新たに追加されている。
1章から5章が90年代初頭までに書かれたものであるのに対して、
6章と7章はそれから約10年後の筆である。
そして明らかに、そこには論調の違いがある。
よく言えば、著者の思想がだいぶ成熟したということだと思う。
けれどもそういうことであれば、この機会に自分の考えを改めて
まとめなおすということをすべきではないのか。
僕の印象では、この本のエッセンスは6章と7章にある。
だからこそなおさら、そこを元にして以前に書いた文章を鋳直す
ということをしてほしかった。
前置きがずいぶん長くなったが、少なくとも6章と7章に関する限り、
個人的に話の中身それ自体は面白かった。
僕個人の関心から言うと、ポイントは二つ。
一つは6章の「時は流れない、それは積み重なる」という時間論、
もう一つは7章で提案される物語り行為の概念である。
「時は流れない、それは積み重なる」というのはほぼ文字通りの意味で、
時間の流れと普通言われるものはむしろ出来事の積み重なりである、
ということだ。著者のガラス板の説明がわかりやすい。
それぞれのガラス板には模様が書いてあって、これが一つ一つの
出来事に対応する。これを順番に重ねていって、その一番上から
これをのぞきこんだ様子が、現在における過去の想起にあたる。
下の方の模様は多くの場合ぼやけてしまって見えにくくなるが(忘却)、
何かのはずみで目に入ることもある(思い出す)。
これは本人の体験した過去だけでなく、それ以前の歴史についても同様で、
この場合にはたとえば年表に出てくる出来事の一つ一つがガラス板になる。
こういうふうに、歴史も記憶も出来事の系列だというわけである。
そしてこれは「非連続なものの連続」であって、
時間と呼ばれる何かが流れているのではない。
けれども、これは僕の補足だが、僕らがいろいろな出来事を思い出すとき、
それらの前後関係があやふやなことはよくある。
それを一つの話として喋るときには、これらを順番に関係づけて
プロットを仕立てなければならない。
これをもう少し拡張した考え方が著者の考える「物語り行為」で、
「時間的に離れた複数の出来事を指示し、それらを<初め-中間-終わり>
という時間的秩序に沿って筋立てる言語行為」とされる。
著者は科学の説明もこれの一種として考えようと試みているけれども、
そこまでいくかはともかく、思うに世の中で普通なされる「説明」
なるものは、たいていこの形式なのではないか。
この二つの考え方には、時間は後から構成されるという含意がある。
つまり、まず個々の出来事が先にあって、後からそれを順序づけたところに
時間が生まれてくるというような解釈ができなくもない。
人によっては「そんなことあるか」という批判を生みそうだが、
しかし僕にはものすごく納得がいくように思える。
とりわけこの立場で行くと、自分の体験した過去とそれ以前の歴史とは
基本的に区別されないと思うわけで、そうするとこの二つはどちらも
現在の自分によって作られているということになりそうである。
その点、僕は大いに正しいと思うのだがどうだろうか。