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ナマのパレスサイドホテル 京都

史跡等が好きです。京都は、140万人の市民の住む街でもあります。普段着の京都を紹介したいなぁ。と思っています。^^;

幾松の裏側には。。

2009年08月27日 | Weblog

こんばんは。少しづつではありますが、過ごしやすくなってきた京都の街です。
こんな時こそ、自転車に乗って町中をぶらぶらしたいものです。

 前回は、木屋町通りの幾松周辺をご案内しました。
 今回は その幾松の西側にある旧跡のご案内です。

 幾松から目を高瀬川の方に移して、ふと正面を見ると、あたかも壁のように
 二つの石碑が立っています。
  
 ちょうど、左端に少し移っているのが、以前「新ハマムラ」として
 営業していた中国料理店です。

   さて、向って左側が前回ご紹介した「大村益次郎」の遭難碑で
 右側が「佐久間象山」の遭難碑です。
 少し見えにくいので、ちょっとアップしますと。。
  こちらが大村益次郎遭難の碑です。
 
  顔のレリーフのあるのが、佐久間象山の遭難碑
                   です。

  大村益次郎は、前回少しふれたかも知れませんが、長州藩出身の武士で
 戊辰戦争等で活躍し、明治新政府で富国強兵政策の中心となり、 後年、
 日本陸軍の母体をつくった人です。

 佐久間象山は、あの吉田松陰の師匠で、そのほかにも勝海舟、坂本龍馬
 橋本佐内など、幕末期の主要人物の師ともなった人です。
   後年、徳川慶喜に招かれ、彼に公武合体論を説いたと言われています。
 その思想から、当時の尊王攘夷思想が流行っていた京都の町で、多くの
 志士に狙われ、この地で暗殺をされました。

 先ほどの石碑から、御池通りを越え、三条通りとの角に下のような石碑も
 あります。
  (北へ約1(約110m)とあります)
 傍には、こんな案内がありました。
 

 いまでこそ、皆が楽しそうに歩く、この木屋町界隈も、歴史を辿れば
 随分と、悲しく残酷な歴史があったのですね。


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