こんばんは。少しづつではありますが、過ごしやすくなってきた京都の街です。
こんな時こそ、自転車に乗って町中をぶらぶらしたいものです。
前回は、木屋町通りの幾松周辺をご案内しました。
今回は その幾松の西側にある旧跡のご案内です。
幾松から目を高瀬川の方に移して、ふと正面を見ると、あたかも壁のように
二つの石碑が立っています。
ちょうど、左端に少し移っているのが、以前「新ハマムラ」として
営業していた中国料理店です。
さて、向って左側が前回ご紹介した「大村益次郎」の遭難碑で
右側が「佐久間象山」の遭難碑です。
少し見えにくいので、ちょっとアップしますと。。
こちらが大村益次郎遭難の碑です。
顔のレリーフのあるのが、佐久間象山の遭難碑
です。
大村益次郎は、前回少しふれたかも知れませんが、長州藩出身の武士で
戊辰戦争等で活躍し、明治新政府で富国強兵政策の中心となり、 後年、
日本陸軍の母体をつくった人です。
佐久間象山は、あの吉田松陰の師匠で、そのほかにも勝海舟、坂本龍馬
橋本佐内など、幕末期の主要人物の師ともなった人です。
後年、徳川慶喜に招かれ、彼に公武合体論を説いたと言われています。
その思想から、当時の尊王攘夷思想が流行っていた京都の町で、多くの
志士に狙われ、この地で暗殺をされました。
先ほどの石碑から、御池通りを越え、三条通りとの角に下のような石碑も
あります。
(北へ約1丁(約110m)とあります)
傍には、こんな案内がありました。
いまでこそ、皆が楽しそうに歩く、この木屋町界隈も、歴史を辿れば
随分と、悲しく残酷な歴史があったのですね。