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ナマのパレスサイドホテル 京都

史跡等が好きです。京都は、140万人の市民の住む街でもあります。普段着の京都を紹介したいなぁ。と思っています。^^;

放置状態で失礼いたしました。

2009年10月11日 | Weblog

こんにちは。
このブログに書き込むのは、本当に久しぶりです。

みなさん、長らく何も書かずに申し訳ありませんでした。
なんだかんだと公私共忙しく(どちらかと言うと私の方が・・・)、アップもできずに
本当にすいません。

 で、その間に、実は「ザ・パレスサイドホテル」のHPがリニューアルいたしました。

 まだ、試運転中ではありますが、そちらの方で徐々にブログも再開していく
 つもりです。どうぞ宜しくお願いします。

 新しいブログです。

   http://www.palacesidehotel.co.jp/blog/


結構 聞かれます。

2009年09月01日 | Weblog

こんにちは。
日差しこそ強いけれど、からっとした良い天気です。
早くも秋の気配がしています。今日から9月ですもんね。

 しばらく、木屋町や高瀬川周辺のご案内をしてきたのですが、
今回は、最近お問い合わせの多い、ホテル周辺の公共施設について
ご案内いたします。

 1番目は「京都こども文化会館 エンゼルハウス」
 場所は、堀川中立売から中立売通りをまっすぐ西へ進み、きたの商店街の
 中にあります。自転車でホテルから15分くらい。。かな?
 
 
 このまま真っすぐ行くと、北野天満宮です。
  バス停で言うと、「上七軒」の方が近いようです。
 この「こども文化会館」のすぐ隣が有名な「長五郎餅」さん。
  右側の白い壁のところです。

 この長五郎餅さんの方向に、足を進めると、小さな広場(?)があります。
 かつて京都市電(N電)が走っていたところに行きます。
   その記念のプレートがその広場のロータリー内にあります。。
 
 N電自体は昭和36年に廃止されています。
 

 さて、そのプレートのところから、まっすぐ南へと進み、丸太町通りにでる
 手前のところに

 「京都アスニー 京都市生涯学習総合センター」
                                 があります。
 
 隣接して京都の市立中央図書館があります。
 
 生涯学習総合センターの1階に「平安京創生館」がありまして、
 これが小さいながらも 結構いい勉強になる場所です。
 
 入口はこんなん。
 
 この奥の方に、でっかい平安京のミニチュア(変な表現ですいません。。)が
 あります。
 
 上の写真で、おじさんが見ているのがそうです。
 (著作権の関係で写真撮影はできないそうです)
 私、ここにこんな良いものがあるとは知りませんでした。

 近くまで行かれる事があれば、ぜひ行ってみてくださいね。

  全くの余談ですが・・・
   この 京都アスニーさん、食堂の料金が安いです。
   
  私的には、100円デザートが気になるところです。。

  私たちのホテルにご宿泊の方で、アスニーさんなどで研修の後に
  ご利用される方も多いです。
   「アスニーからホテルはどうやって行くの?」とか
        「アスニーとお宅(ホテル)は近いの?」などと聞かれる事も
  結構多いですよ。

  ちなみに、ホテルからは 市バス 202号系統で約15分弱。
  バス停「丸太町七本松」にて下車です。
 
  

 

 

  


池田屋跡はいま。。

2009年08月30日 | Weblog

こんにちは。
今日の京都は、少し蒸し暑い様な気がします。
そうそう、今日は選挙の日ですね。皆さん行かれましたか?

 木屋町周辺の案内も続いてきたので、そろそろ違うところを取材に行きたいと
 思っている今日この頃です。
 でも、今回も木屋町周辺の案内です。

前回ご紹介した「瑞泉寺」からすぐ、三条通りに面して 「池田屋騒動跡」 の石碑が立っています。
 
 繁華街の真っただ中に有る為、この石碑の周辺の推移もはげしいものが
 あります。
  確か数年前まではパチンコ屋さんが建っていました。
  左はしに小さく映っているのが、池田屋騒動跡の石碑
                  です。
 
  しかしながら、パチンコ屋さんの業界もいろいろと大変なのでしょう。
 現在はそのパチンコ屋さんもなくなり。海鮮居酒屋さんになっています。
 
 
 中には、池田屋騒動の際に、新撰組が駆け上がった階段を模したものなどが
 有るそうです。ランチもやっていて 700円強くらいから食べられるとの事。
  
  詳しくは 「はなの舞」さんのHPを見てみてくださいね。

 まぁ、それは置いておいて、三条通りから1本南側に「龍馬通り」なる道が
 あります。(下の写真)
   ご存じの方もおられるかも知れませんが、左手の建物は「京劇会館」です。
  
 右手に見える「酢屋」というのが、龍馬の京都における拠点だった場所です。
 今では想像がつきませんが、この酢屋の前が高瀬川の舟入場だったそうで、
 伏見では「寺田屋」、京都の街ではこの「酢屋」に投宿していたとのこと。
  
 この「酢屋」さんは元々材木商で、今も木を使ったギャラリーなどになっています。
  昼間に行くととてもひっそりとしています。

 次回は木屋町周辺の最終回。
 三条通りから四条通りの間の、幕末の史跡についてご案内します。
 


豊臣秀吉の京都での評判は。。

2009年08月29日 | Weblog

こんにちは。
今日の京都は、雨が降ったり止んだりの妙な天気です。
ホテルは、明日が選挙のせいか、はたまた夏休みも最後だからか分りませんが、
わりとひっそりとしています。

 前回まで、高瀬川を中心とした旧跡などを紹介してきました。
 どうしても幕末が主となるのですが、今回は少し時計を巻き戻して
 戦国末期のお話です。

 みなさんは、「豊臣秀吉」ってご存知ですか?
 大抵の方は知っておられると思います。戦国期における立身出世の代表的な
 武将ですね。皆さん、秀吉はお好きですか?

 同じ関西でも、京都と大阪とでは随分、その受け取られ方が違うようです。
 

 上の写真のお寺は「瑞泉寺」といいます。
 場所は、三条通りと木屋町通りの角を少し南に下がったところにあります。
 門の左側の石碑をアップで見ると
  「豊臣秀次公之墓」とあります。

 豊臣秀次は豊臣秀吉のお姉さんの子、甥にあたります。
 秀吉の血縁でありましたから、大変に大切にされていました。
  
 秀吉には正室北政所との間に子供はいなかったのですが、側室淀君
 との間に初めて 鶴松という一人息子が生れました。
   初めての自分の子供の誕生に秀吉は大変に喜んだそうです。
  
  ところが。。。鶴松が3歳で病気によりなくなりました。

  自分の子供に跡を継がせる事はもうあるまい。。と思い、秀吉は
 関白の位を この秀次に譲り、自分の作った聚楽第に住まわせました。

 自分の子はもうできまい。。と思っていた秀吉でしたが、その2年後
 諦めていた実子 秀頼が生まれました。
   これで、「もう秀次の存在は要らない」と考えた秀吉は、自分に対する
 秀次の謀反の噂とあいまって、秀次を高野山に追放した上自害させました。

  それで話が済むなら、まぁこの時代には良くあり得ることかもしれません。
 
  しかし、秀吉はそれで済みませんでした。
 秀次の一族・妻妾・息子・娘・家臣の多くが粛清され、秀次の首は秀吉に
 よって京都の三条河原に曝されたそうです。おh
  その後、その屍は埋められ塚が作られたそうですが、長い間にその在所
 すら定かではなかったとか。。
  
  その後。。高瀬川を作った角倉了以がこの塚の存在を知り、知恩院の
 お坊さんと相談して作られたのが、この瑞泉寺だそうです。

 

  
 上の写真は三条河原での様子を書いた絵巻物です。

 後年の秀吉は、この秀次事件ほか朝鮮に出兵して、殺した朝鮮兵の
 耳を送って耳塚を作ったり、壮麗を極めた聚楽第をつぶしたり。。
   と首をかしげる様な動きが多く、御土居や寺町を作り京都の街づくり
 をしたという成果があるにも関わらず、京都の人達の信望を失くしていったの
 かも知れません。

  かたや、大阪では今も秀吉は「太閤さん」と呼ばれ親しまれています。
 大阪府の府章も、秀吉の千成瓢箪にちなんだものです。
 
  大阪の街を作った頃の秀吉は40歳台の後半で丁度 人生の一番脂の
 乗り切った頃だったのかも知れません。
  大坂城を作り、全国から工業・商業の人達を集めて街づくりを行い、
 現在の商都・大阪の礎をつくった事が、大阪の人達の信望を高めたのでしょう。

  瑞泉寺は、境内は自由に見ることが出来ます。
 秀次はじめ、ともに処刑されたお墓もお参り出来ます。
 それぞれに名前と年齢が示されてあります。
  女性と子供が多いこと、その年齢がとても若い事などを知ることができます。

 町のど真ん中にこんなお寺があるのも京都らしいのかも知れません。
 
   
                  


幾松の裏側には。。

2009年08月27日 | Weblog

こんばんは。少しづつではありますが、過ごしやすくなってきた京都の街です。
こんな時こそ、自転車に乗って町中をぶらぶらしたいものです。

 前回は、木屋町通りの幾松周辺をご案内しました。
 今回は その幾松の西側にある旧跡のご案内です。

 幾松から目を高瀬川の方に移して、ふと正面を見ると、あたかも壁のように
 二つの石碑が立っています。
  
 ちょうど、左端に少し移っているのが、以前「新ハマムラ」として
 営業していた中国料理店です。

   さて、向って左側が前回ご紹介した「大村益次郎」の遭難碑で
 右側が「佐久間象山」の遭難碑です。
 少し見えにくいので、ちょっとアップしますと。。
  こちらが大村益次郎遭難の碑です。
 
  顔のレリーフのあるのが、佐久間象山の遭難碑
                   です。

  大村益次郎は、前回少しふれたかも知れませんが、長州藩出身の武士で
 戊辰戦争等で活躍し、明治新政府で富国強兵政策の中心となり、 後年、
 日本陸軍の母体をつくった人です。

 佐久間象山は、あの吉田松陰の師匠で、そのほかにも勝海舟、坂本龍馬
 橋本佐内など、幕末期の主要人物の師ともなった人です。
   後年、徳川慶喜に招かれ、彼に公武合体論を説いたと言われています。
 その思想から、当時の尊王攘夷思想が流行っていた京都の町で、多くの
 志士に狙われ、この地で暗殺をされました。

 先ほどの石碑から、御池通りを越え、三条通りとの角に下のような石碑も
 あります。
  (北へ約1(約110m)とあります)
 傍には、こんな案内がありました。
 

 いまでこそ、皆が楽しそうに歩く、この木屋町界隈も、歴史を辿れば
 随分と、悲しく残酷な歴史があったのですね。


ふたたび木屋町通りへ

2009年08月20日 | Weblog

ふたたび木屋町通りへ。。

京都ホテルオークラを後にして、御池通りをすこしだけ東に歩き、木屋町通りを
高瀬川沿いに北に進みますと、
 東側に 「幾松」の提灯と玄関の門に「幾松」の額が見えます。

   

  かつて、京都ホテルオークラにも その像があった 桂小五郎(木戸孝允)
 (以後、木戸孝允と書きます)が 住んでいた場所です。
  この「幾松」と言う名前は、木戸の妻であった 木戸松子の芸妓の
 時の名前であります。
 今は、立派な料亭になっていて、中に入ることもできます。
 ただ、この「幾松」も、その由来にいろいろと疑念が出てきているようです。
 (料亭として営業を始めたのが、戦後になってからetc...)

 でも、この場所で 木戸と妻が暮らしていた などと想像してみるだけでも
 よいではないですか。
 
 ちなみに、この「幾松」の横には 「幾松ビル」なるものが建っておりました。
 
 「幾松」は料理旅館なのですが、その旅館の西館(洋室)になっています。
 
 最後に「幾松」の玄関先には、小さな石碑が立っていました。
 

 ちなみに、この「幾松」のすぐ隣には「大村益次郎」の寓居跡の石碑も
 あります。
  
 
  「幾松」と大村益次郎の石碑のある場所から、後ろを振り向くと。。。
 また、別の遺蹟があります。それはまた次回に。

 

 * お陰さまでずっと以前にご紹介した 大阪検定2,3級通りました。
   (ちなみに3級の合格率97.8%、2級70.7%だったそうです)

 

 


高瀬川のその近くに。。

2009年08月20日 | Weblog

おはようございます。
昼間はとても暑いのですが、朝方はけっこう爽やかな天気だったりします。
すこしづつではありますが、秋に近付いて行ってるのかもしれません。

 少し間が空いたのですが、今回は高瀬川周辺のご案内を再開します。
 高瀬川の「一の舟入」跡から、西に戻り 河原町通りに出ると
 「京都ホテルオークラ」さんがあります。
 
 京都では、蹴上の「ウェスティン都ホテル」と並んで 歴史のあるホテルです。

 その、ホテルの河原町通り沿いに、あまり目立ってはいないのですが、
 一人のお侍さんの像があります。
 
 写真でも見えますように、この人は「桂小五郎」
 (のちの 木戸孝允 です)
 西郷隆盛、大久保利通とならぶ「維新の三傑」の一人であります。
 皆さん、ご承知の通り、「桂小五郎」は幕末 長州藩の重鎮でありました。
 
  なぜ、この人の像がこの場所にあるのか?
 
それは、このホテルが今立っている場所が幕末「長州藩」屋敷だったからです。
 
 明治維新後、長州藩屋敷は政府のものとなり、のち勧業場 
 
となりました。
 

 こういったホテルのような大きな建物がある場所って、幕末に各地の大名の
 藩邸だったところが多いですね。
 ちなみに、ねっとで こういうサイト見つけました。
    http://onjweb.com/netbakumaz/kyoumap/kyoumap.html

 これを見てみると、今の京都大学はかつての「尾張藩邸」であったり、
 岡崎辺りは、彦根藩や越前藩の大きな建物があったのが分ります。

 上の 「勧業場」の石碑のすぐ向いに小さな石碑がひとつ。。
 

 当時を想わせるものは、いまの京都ホテル辺りにはありませんが、
 幕末、この長州藩や土佐藩を中心に動いた事を、しのばせる史跡は
 この周辺にもたくさんあります。

 次回もこの界隈をご紹介する予定です。
   

 


大文字ディナーの日に。。

2009年08月18日 | Weblog

こんにちは。
毎日暑い日が続きます。
 今日は、30日の総選挙の公示日。これからは私たちの周囲も賑やかに
 なりそうです。

 前回は、高瀬川に因んでのご案内をさせていただきました。
 今回も、その続きをしようとは思っておりましたのですが、ちょっと一服。。
 別の話題をさせて頂きます。

 先日、16日は京都は「京都五山送り火」の日でした。

 当ホテルの屋上からは、京都五山のうちの4つまで見ることができます。
 (以前、ブログでも書かせていただきました)
  そこで例年、宴会場では「ライブ(コンサート)&ディナー」をレストランでは
 「送り火特別ディナー」を開催していまして、今年もお陰さまで多くのご予約を
 頂き、満席に至りました。

  幸い、当日は雨に降られることもなく、送り火もしっかり見えて
 (「妙」の字が、京都御所の森木立の陰になっていて、半分しか見えなんだ・・)
 、お客様にもご満足頂いた と思っております。

 当日は、ホテルスタッフも少しは夏らしく 浴衣で皆さんの御迎えを致しました。
   フロントのきれいどころです。
 
  レストランのきれいどころ1人と男1人もくわわって。。

 当日は、写真のスタッフが主に、ロビーや屋上でお客様の応対を致しました。
 * いつもの制服姿とは違ってなかなか ええもんです。

  レストランでは、下記のペンギンルックのスタッフ達がサービスを致しました。
 

  早いもので、8月も折り返し地点まで来ました。あと2週間もすれば9月です。
 ゆく夏の思い出とともに、季節は移りかわっていきます。。

 * と言いたいところですが、外は暑ーい 今日の京都でした。

 


高瀬川、二条周辺にいってきました。

2009年08月11日 | Weblog


 こんにちは。今週は静岡での地震や兵庫県北部での豪雨など、天災が
 頻発しました。
 地震はマグニチュード6弱とのこと。。
 今朝は八丈島でも地震があったそうです。
  ココ最近、地球がおかしくなってきているのかも知れません。

  今回は、高瀬川二条周辺をご案内いたします。
 ホテルからは、京都御苑を抜けて、堺町御門を出て、二条通りを東へ。。。
 河原町通りを過ぎて、左手にホテルフジタさんが見えてきたら、もうすぐです。
 右手に、交番が見えるので、そこを右手に曲がると、木屋町通りです。
  とおりの傍には、高瀬川が流れています。

  で、まずはその高瀬川を作った人の邸宅跡の石碑を見つけました。
 高瀬川を作ったのは 江戸時代の京都嵯峨の豪商 角倉了以です。
  京都は、ご承知の通り、関西の内陸部にあるのですが、この高瀬川が
 つくられた江戸時代 物流の流れは もう手一杯の状況でありました。
 そういった諸問題を解決するために、この高瀬川が開削されました。
 

 

 今、この石碑のある場所には「がんこ二条苑」があります。
 うちのホテルに来られる外国人の方にも、たまにご紹介をしているようです。
 
 

 
 
 ちなみにこの高瀬川の水は、東一条(府立医科大学のあたり)で鴨川から
 取水され、鴨川の河原の下を流れて、丸太町の辺りで地上に上がってきます。
  そこから「みそそぎ川」と「高瀬川」に分流します。

  丸太町辺りの水が出てくる所。
 そこから、「みそそぎ川」として、鴨川と並行して流れて行きます。
 

 そして、二条通りの辺りで、高瀬川の水として取水口があり、
 
 先ほどの「がんこ二条苑」の中を流れたのちに、高瀬川をして市中を流れて
 行きます。
  がんこ二条苑の中の庭園です。

 このがんこ二条苑のすぐ南に、一艘の船が。。
 高瀬川の一の舟入の跡です。舟入とは 船の停留所だったところです。

 
 
 

 

 

  
 この一の舟入跡は、春の桜の季節にはさくらの花びらが舞っていたりして、
 すごく情緒のあるところ。
  この写真を撮った時は、目がくらむくらいの暑さでした。 


 次回は、この高瀬川に沿って、南に進んで行きます。
 



夏本番です!

2009年08月08日 | Weblog

こんにちは。
暑い毎日が続きますね。日頃クーラーの下ばかりにいるので、外に出かけると
もう、たまりません。 年々暑さが堪える毎日です。

 前回は「猿が辻」までご案内をいたしました。
 今回は、そのすぐ近く「中山邸跡」からご案内します。
 
  一度、ずっと前に京都御所のご紹介をした折に少しご案内をさせて頂きましたが、
 あらためて。。。
 
 下の写真は「祐井」と言う井戸です。「さちのい」と呼びます。
 この井戸があるのが、「旧中山邸」の中。
 中山邸と言うのは、明治天皇のお母さんのご実家だったところです。
  「祐井」と言う名前は、明治天皇の称号が「祐宮」だった事に由縁があるよう
 でして、この井戸を産湯として使われたそうです。
 ちなみに、今上陛下は「継宮」でしたし、皇太子さまは「浩宮」でありました。
 
   旧中山邸あとは今は黒い柵に囲まれているため、入ることはできませんが、
 ここで、明治天皇がお生まれになったんだと思うと、歳月が過ぎる速さを感じ
 てしまいます。

 

 

 この中山邸を出て、すぐに「石薬師御門」があります。
 今回は、このまま道をずっと南に下り、丸太町通りを越えたところの
 すぐ左側の寺町通り沿いに1本の石碑があります。

 「横井小楠殉崩地」とあります。
幕末の武士、明治新政府の要人であった「横井小楠」が亡くなったところです。
 横井小楠と言う人は、武士でありながら、鎖国体制・幕藩体制を批判し、
 外国との通商と統一国家の必要性を説いたひとでもあります。

 
 京都市内には、こういう石碑がいたるところにありますね。

 ここから、再度京都御所に戻って、「蛤御門」に行ってきました。
 「蛤御門」と言えば「蛤御門の変」(禁門の変)の舞台であります。

  蛤御門の変と言うのは、細かく話しだすとキリがないのですが、
 要は尊王攘夷論を掲げていた、長州藩がいったん 8月18日の政変で
  都落ちしたのち、孝明天皇を長州側に引き入れるために政敵である
 薩摩・会津藩を相手に争った戦いです。
 
 上の写真は、京都御苑側から烏丸通りに向けて撮っています。
 当時の「蛤御門」は北側を向いていたそうです。
 

  門柱をよく見てみると、当時の弾痕の跡があります。
 
 この蛤御門の変の前に、有名な「池田屋事件」がありました。
 この時、京都市内に潜伏していた、長州藩の藩士が多く新撰組に斬られた
 ため、この事件が、蛤御門の変へと繋がっていったようです。

  私も、以前本を読んでおおまかな事しか覚えていないのですが、この変の
  前後にも大小いろいろな争いが有ったみたいです。

 次回は、幕末・各藩の藩邸が集まっていた 木屋町界隈をご案内します。