伊豆大島ジオパーク研究会 ブログ

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3月9日シンポジウムのお知らせ

2013年02月17日 07時38分11秒 | 日記
大島町・地学史研究会合同シンポジウム

「火山前線に生きる―伊豆大島の噴火史、地域史、そして科学史」

伊豆大島は東京湾の入り口にある火山島として1950年、1986年には大きな噴火活動を経験し、最近ジオパークの指定を受けました。東北地方太平洋沖地震の影響による火山活動の活発化が懸念される今日、私たち日本列島の住民は多かれ少なかれその最前線にいるといっても過言ではないでしょう。
12年余りの地学史研究会の活動を経て、50回目の節目となる今回、この伊豆大島の地を会場に選び、文字通り火山とともに暮らしてきた方々の歴史と知恵を学び、歴史研究を共通項に相互の交流を深めることができればと考え、シンポジウムを企画しました。皆様の参加を心よりお待ちしております。
伊豆大島郷土研究会 樋口秀司
地学史研究会 山田 俊弘



実施月日  2013年3月9日(土)
時間    16時 ~ 19時
会  場  東京都大島町 「北の山公民館」
集合場所  「北の山公民館」又は「ホテル白岩」にご集合ください。 
ホテル白岩 (電話04992-2-2571)住所:大島町元町3-3-3
     
プログラム
         (司会 矢島道子)

 開会挨拶    白井岩仁   5分      
1. 1950年、1986年大島噴火の人々の記憶と記録(大島町)

「1950」の体験  大村森美  15分
「1950」映画   菊池 清  15分
「1986」の体験  沖山喜子  15分
「1986」の体験  三田一徳  15分
大島の歴史研究  樋口秀司  15分

2. 伊豆大島をめぐる地球科学史(地学史研究会)

安永噴火    津久井雅志  20分
ミルンと火山学 金光男   15分
1950-51年噴火 杉村 新(代読 山田俊弘)15分
地球化学と火山研究 八耳俊文 15分
オレゴン大学火山学センター 大沢眞澄 15分

3.質問・討論   
   
※講演終了後 懇親会を予定しています。 



<地学史研究会の話1>

○ 伊豆大島をめぐる地球科学史(地学史研究会)

(1)安永噴火    津久井雅志  (千葉大学理学部教授) 20分

 江戸時代にも伊豆大島に噴火があった場合に避難計画が立てられていました。
添付書類を参考にしてください。

(2)ミルンと火山学 金光男 (自然地質環境研究所)  15分

(自営をやりながら、地学史研究を続けています。お雇い外国人ライマンの研究を主に行っています。論文はhttp://sc.chat-shuffle.net/paper/uid:110007137981など)
 明治10年伊豆大島が噴火したとき、お雇い外国人のジョン・ミルンとナウマンが大島にかけつけた。両外国人はその他の火山も多く研究した。

(3)1950-51年噴火 杉村 新 元神戸大学教授(代読 山田俊弘)15分

 ぼくは、1950~51年の噴火のときおよびその直後、10回ほど、大島に、渡りました。その頃のことは、まだかなり記憶にありますので、お話しすれば、1時間でも2時間でもおしゃべりできると思います。しかし、気力も体力もなく、このシンポジウムに参加することは、非常に難しいと思っています。
添付書類をご覧ください。

(4)地球化学と火山研究 八耳俊文 青山学院女子短期大学学長 15分

 火山ガスや温泉や岩石を化学分析して、火山活動を研究する学問を地球化学といいます。伊豆大島その他の地球化学的研究の歴史をお話しします。

(5)オレゴン大学火山学センター 大沢眞澄 東京学芸大学名誉教授 15分

 アメリカでの火山研究と比較します。




○杉村 新 先生の事前資料

(仮題)1950-51年大島三原火山噴火の研究をふり返って

杉村新(元神戸大学教授)


はじめに

ぼくは、1950~51年の噴火のときおよびその直後、10回ほど、大島に、渡りました。その頃のことは、まだかなり記憶にありますので、お話しすれば、1時間でも2時間でもおしゃべりできると思います。しかし、気力も体力もなく、このシンポジウムに参加することは、非常に難しいと思っています。その代わり、何か書いたものを予め用意して、その中から山田さんの判断で適当に選んで、皆さんに紹介して頂く、ということなら、できるかなと思っています。【少し手を入れていただければ幸いです。】

1.「賢治の詩」ではじまる序言

【私は未見ですが、森本良平・杉村新・小坂丈予(1953)伊豆大島三原山見学案内、日本地質学会第60年年会見学旅行ガイドブック】の「序言」を再掲していただけるとよいかと思いました。】

2.伊豆大島とのかかわり

当時のぼくの状態:【これ以前のご略歴を入れてください。】1947年学部卒、直後に大塚弥之助教授の助手となる。1950年8月、先生が結核で死去したが、教授と助手だけの研究室だったので、「孤児」となる。研究者としては、何を専攻分野にするかは全く五里霧中。ネオテクトニクスを始めたのは、もう少しあとです。恩師望月勝海先生のような大スケールのテクトニクスを、考え始めたのは、まだ、ずっと先です。したがって、学部卒3年後(今でいう院生時代)で、50年9月の大島の噴火は、ぼくの「勉強」の好材料でした。大塚先生死後すぐで、心の整理がついていない状態でした。

3.噴火のようすと研究の成果【当時のフィールドノートのスケッチなどがあればうれしいです。】

1950年の噴火の特徴は、中央火口丘の三原山の火口の底に見える、溶岩の表面が次第に上昇して、ついに、火口の縁ぎりぎりまで,上がってきて、かなりの大きさの溶岩湖ができたことです。これは壮観でした。そしてついに、縁を破って、2つの溶岩流が、三原山の外に流れ下ったのです。
1951年の噴火の特徴は、前年の「2つの溶岩流」などという、生易しいものではなく、広い幅を持って、大々的に流れ下ったことです。ぼくが電気伝導度を測ったのは、そうして「砂漠」を流れ下った溶岩を、目の前にすることができたから、可能だったのです。

1950-51年の噴火に関連したぼくの著作
・鮫島輝彦・杉村新(1952)大島三原火山1950-51年の溶岩の性質、地質雑、58巻、p.73~74、短報
  岩石学的な性質は、鮫島氏が書きましたが、ぼくは、直接溶岩に、電極を差し込んで、電気伝導度を測ったので、測定した温度と一緒に、それを書きました。(直接測定という無謀なことをした人は、あとにも先にもいません。精度がないので、地球物理屋さん達は、誰もそんなことはしていません。それでもちゃんと、想定内の、桁の値が出ました。)
・鮫島・杉村(1951)大島三原火山の1950-51年の活動、地質雑、57巻、p.365~366、雑報
  噴火の経過を書いたものです。
・森本良平・杉村新・小坂丈予(1953)伊豆大島三原山見学案内、日本地質学会第60年年会見学旅行ガイドブック
  小坂さんが、噴火の経過と岩石学や地球化学を書き、ぼくが序言、地理学、噴火の歴史、地球物理学を書きました。森本さんは、何も書きませんでしたが、案内責任者なので、形式的に筆頭著者にしました。ぼくの書いた「序言」は、宮沢賢治の詩で始まります。賢治の恋人が、大島にいたのです。また、「地理学」といっても、最初に大島の位置を表現するのに、東京から真南へ100km飛ぶと、大島に「ぶつかる」と書きました。それは、たしか1952年に、日本航空の「木星号」が、三原山に、衝突墜落したという事件があったのを、暗に示唆しています。今だったら、「ジュピター号」とでも名づけるのでしょうが、「木星号」という名前でした。時代を感じます。
・諏訪彰・杉村新(1953)大島三原山、地質雑、59巻、p.272、見学旅行記事
  よく覚えていませんが、諏訪さんも案内責任者だったかもしれません。見学旅行のとき、森本さんがぼくと一緒だったのは覚えています。

4.火山をめぐる人たち

記憶にある研究者:

・力武常次さん:当時地震研の助教授だったと思いますが、秀才です。NHK(その頃はまだこの名前でなかった)の東京からの、電波を使って、電磁気的な方法で、マグマだまりの深さを、約5kmと推定したのは、印象的でした。
・水上武さん:名だたる火山物理学者で、彼の測定した溶岩の温度は、最も信頼できる値でした。地震研教授。
・村内必典さん:外輪山の御神火茶屋に寝泊まりして、山頂の高さの、変化などを継続観測していました。ぼくは2~3日ご一緒して、一度は、火山弾の降ってくる中を、2人でくぐり抜けた、(怖かった)こともあります。長いこと国立科学博物館員。現在も健在で、学士会の漢詩を作る会に出席しています。

以上に名前の出てきた人たちは、村内さんを除き皆亡くなりました。森本さんは、去る11月19日に95歳かで、亡くなったばかりです。鮫島、小坂の両氏は、ぼくより若いのです。

・旅館で一緒だったカラー写真の会社の人たち
 元町(その頃はまだ元村だったかも)の旅館で、隣の部屋同士で、食事など一緒にしていた3~4人のグループは、富士フィルムの、子会社かなにかで、「日本発色」とかいう名前の会社の人たちでした。その頃、アメリカでは一般市民もカラー写真を使い始めていましたが、日本ではまだフィルムすらなかった時代で、その会社で開発中でした。溶岩を写して、その色を試すために出張してきたのだそうです。 
 ぼくら(鮫島さんなども一緒でした)の調査に興味を持ってくれましたが、逆に、ぼくは彼等に「テスト品を送ってくれませんか」と頼みました。今でも手元に、その時の溶岩のカラースライドが2枚あります。【復元できれば興味深いです。】

5.大島の人たちとその後――大島再訪

・白井潮路さん:その頃おじいさんだと思っていましたが、意外と若かったのかもしれません。なぜなら、1988年に、大島に行った時、会いませんでしたが、健在と聞きました。でも一応ここではおじいさんと言っておきます。このおじいさんの職業はよくわかりません。退職した学校の先生、だった可能性があります。白井さんは、1951年の噴火が収まると、ぼくらが行かなくなった、のを寂しがり、始終鮫島さんのところにはがきをよこし、三原山の現状を書いてきました。熱心な人でした。
・御神火茶屋の主:高木さん。旅館だと、警察に宿泊人名簿を、出さなければならないのですが、旅館業の許可も受けていないのに、村内さんを、知人扱いにして、茶屋に泊めていました。研究に理解があったのです。ぼくのような便乗者も、(村内さんに便乗して、ぼくも泊めてもらったのです)大目に見てくれました。泊ったとき、10代の青年がいるな、と思っていましたら、1988年に大島再訪のおり、その人が茶屋の主になっていました。しかも元町町議会議長か、何かの要職に就いていました。あの頃はなかったコーヒーを、1988年には頂きました。あの時、茶屋しかなかったあの辺りは、30数年のあいだに、すっかりにぎやかになっていました。

あとがき

【可能ならば、その後の研究へのつながり、ネオテクトニクスや「火山フロント」への展開を付け加えていただければ幸いです。】

文献

鮫島輝彦・杉村新(1952)大島三原火山1950-51年の溶岩の性質、地質雑、58巻、p.73~74、短報
鮫島・杉村(1951)大島三原火山の1950-51年の活動、地質雑、57巻、p.365~366、雑報
森本良平・杉村新・小坂丈予(1953)伊豆大島三原山見学案内、日本地質学会第60年年会見学旅行ガイドブック
諏訪彰・杉村新(1953)大島三原山、地質雑、59巻、p.272、見学旅行記事



以上です.



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