以前、皆様に募りました競輪関係の質問。
「鳴尾掻乱事件」に関してのご質問が多々見受けられました。
当時を語れる古参の元記者の返信をまっておりましたが
お体の調子が万全ではないようで、なかなか難しゅうございます。
そこで古い資料をくくって、判る範囲でこちらに記したいと思います。
当時の資料そのままの引用になります。
現在におきましては適切ではない言い回し、表現、文章その他あるかもしれませんが
どうぞご了解の上、閲覧くださいませmm
以下、近自競年史より抜粋・・・・・・
(少々長い引用となっております)
鳴尾事件
「高松宮・同妃賜杯競輪」の創設で競輪界は安定したように
思われた。太平洋戦争中、天皇陛下は絶対的な存在であり、戦
争が終わって5年になるとはいえ、天皇陛下の弟君ご夫妻の杯
が下賜されるとは夢にも思えなかった時代のこと。近畿管内は
おろか、全国の関係者が羨望の眼でみつめた。
それからわずか5カ月後の1950年9月3日、ジェーン台
風という猛烈な台風が近畿に上陸、大きな被害をもたらした。
前述のようにこの年は戦争が終わって5年。国内では山本富士
子が第1回ミス日本に選ばれ、宝塚スターの映画出演が認めら
れて音羽信子や越路吹雪がスクリーンに登場する一方、朝鮮戦
争が勃発するなど平和と戦争のはざまで日本経済は上昇傾向に
あった。
ジェーン台風はそうした時期に近畿を直撃。鳴尾競輪(甲子
園)のあった兵庫県武庫郡鳴尾村(当時)は7723世帯のう
ち63%が水浸しになるほど被害を受け、競輪場から1kmほど北
側を東西に走る国道43号線には2カ月後も甲子園浜から海水が
流れ込む始末だった。
台風の被害から1日も早く立ち直ろうとした鳴尾は、それか
ら5日後の9月8日、「災害特別救援レース」と銘打って競輪
を開催した。当時、周辺道路は未舗装の所も多く、観客は水た
まりを避けて競輪場にたどりつくという状態だったらしいが、
その2日目にあたる9日、現在も「鳴尾事件」といって語り継
がれるほど大きな事件が発生した。
その日は秋晴れで約1万人の観衆が鳴尾に詰めかけた。当時
はまだ「競輪ファン」という呼び方はしなかったようだが、夕
暮れが近い午後4時50分に発走した第11R(B級)で珍事が起
きた。本命に推された二滝悌次選手のクランクピンのナットが
外れて1周目から速度が落ち、2周目のホーム前で自転車から
下り、審判席の前でスパナを使って応急処理をし再びサドルに
またがり3~4分遅れて入線した。
古い写真には正面のゴールラインの前に審判員が並んでいる
のがあるが、その足元にスパナが置いてあることなど現在では
想像すらできない。だが、ここではそんなことは問題外。とに
かく応急処理を済ませた二滝はゴールラインを通過した。これ
を見て場内放送は1着杉浦義郎、2着飯沼宏徳、払戻金は⑤-
①で1万1820円と報じた。大変な大穴である。
観衆はこれを聴いて激昂。「八百長だ」「やり直せ」「払い戻せ」
と叫びながら金網に詰め寄り、警備員ともみ合いながら金網の
柵を押しつぶした。この時、暴れる群衆とは別に第12Rの開始
を待つ観衆もいたが、「二滝選手は検車不十分のため、鳴尾競
輪における1カ月の出場停止」という処分がマイクを通じて流
れた。
その時点で、暴徒と化した群衆は投票所を襲い、ある者は審
判長を追いかけ、ある者は走路へ雪崩込んで投石、放火、物品
の強奪に発展していった。当然、警察官も来て収拾にあたった
が事態は鎮静しなかった。悪い時には悪いことが重なるもの。
思いあまって威嚇射撃した警察官の弾丸が壁か何かに当たって
はね返り、群衆の1人に命中して死亡する大事故になった。
警察官が続々と詰めかけ、MPという腕章をつけた外国の警
察官も駆けつけ催涙弾まで使ったという。MP(ミリタリー・
ポリス)とは占領軍の警察官のことで当時は街のあちこちで見
たものだが、ようやくのことで騒擾事件は一段落した。
事後処理が大変だった。マスコミは当然のように競輪の罪悪
を並べて責任を追求し競輪の廃止を迫った。監督官庁の通産省
は困惑し、兵庫県自転車振興会や大勢の選手、従事員ら関係者
全員が競輪は長く続かないだろうと観念したという。
事件から1週間後の9月15日、通産省、全国競輪施行者協議会、
自転車振興会連合会(後の日本自転車振興会)の3者が協
議して「今後、2カ月間、全国の競輪を自粛する」と発表した。
苦肉の策だったが、施行者を代表する全国競輪施行者協議会
(全輪協)は、鳴尾事件が起こる2カ月前に結成したばかりで
右往左往するばかりだったようだが、政府も黙視することがで
きず、9月20日、天野文部大臣が閣議で競輪廃止を主張するな
ど最悪の状況に陥ってしまった。
余談になるが、近自競会報担当者はある時、日本競輪選手会
大阪支部OB会に出席した二滝氏に会い、近自競30年史に載っ
た同事件の内容を見てもらった。二滝氏は即座に記事を否定し
た。これは大変なことになったと後悔したが、それから何カ月
か過ぎたころ、「自分の思い違いで、年史の内容は正しい」と
いう知らせが届いた。
ただし、あくまでも八百長ではない。それが証拠に「二滝と
いう名前で競走に参加すれば、また、観衆が騒ぐかもしれず、
キミも辛いだろうからと別な名前で走ることになった」という
話をしてくれた。鳴尾事件が八百長で起こったのなら同氏は文
句なく登録を抹消され、永久追放されていたはずである。
後年、競輪専門紙「競輪研究」(本社・大阪)の大橋保夫副
社長(競輪歴47年)に尋ねたところ、事件後、二滝選手は岡田
という名で引退するまで走ったとのことだった。
それにしても、自転車の心臓部ともいえるフレームとペダル
をつなぐクランクピンのナットが外れるとは不運な出来事だっ
た。今の自転車ではナットは不必要になって取り払われている
が、事件の発生当時、問題のナットはクランクピンの下側から
上の方に向かって差し込み、ネジを締めるような構造になって
いた。従って、ネジが緩むと自然に下がってくる。それを見抜
けなかったのは残念だが総ては後の祭りだった。
鳴尾事件後の競輪界
翌日の新聞は鳴尾事件を大々的に報じた。朝日新聞を見ると
「血を見た災害救援鳴尾競輪」という見出しの横に、「放火3回
の凶暴」「1名射殺、負傷数十名」「250名検挙」といった大
きな活字が並び、近運協の20年史には炎々と燃え上がる鳴尾競
輪のスタンドが掲載されている。他の新聞もほとんど同じ内容
で競輪を責めた。ただ、今になって思うのはテレビがない時代
の事件なので映像が茶の間に届かなかったのが幸いといえば幸
いだったかもしれない。
こうした報道が続く中で競輪は2カ月の間、自粛(中止)し
再開後のことを懸命に模索。再開の条件として1開催6日制を
4日制に短縮、6枠制の連勝単式車券を4枠制にして再出発し
た。マスコミの攻撃は衰えることなく続いたが、その前後、競
輪界は連続して発生する騒擾事件に苦慮し続けた。本命に推さ
れた選手が敗退すると必ず八百長といって騒ぎ、貧しい庶民の
金を巻き上げるといっては騒動が起こったからである。
鳴尾競輪を創設した「鳴尾村」も手のほどこしようがなくなっ
た。同村は管内に阪神タイガースの本拠地・甲子園球場があり、
その東側には阪神パークという遊園地があって1年中、大阪や
神戸から客が押し寄せ、膨大な入場税が入り村立の中学校まで
持っていたという。
そのころ、義務教育は6年制で大半の児童は小学校を終えて
働きに出たものだが、鳴尾村には村立の中学校まであった。そ
れほど恵まれた村が戦争で破壊され、ジェーン台風で壊滅的に
やられ、さらに鳴尾事件に遭遇して完全に疲弊。最後は西宮市
と合併した。その間に鳴尾競輪は甲子園競輪と名を変えた。
4日制の開催日程と4枠制の発売車券が元に戻るのは事件か
ら3年後の1953年6月だが、その間に長野の松本競輪と、
島根の松江競輪が休廃止(撤退)した。ともに寒冷地という条
件の悪さも影響したのでという話だったが、競輪の将来を悲観
したのではあるまいか。
それはさておき、2カ月にわたる自粛中止の間に再建に向
かってさまざまな手が打たれた。対策の大半は競輪の存続につ
いて。これは当然のこととして、特筆しなければならないのは
鳴尾事件から1週間後、つまり、自粛中止を発表した9月15日、
東京・京王閣競輪場の近くに選手を養成する「日本サイクリス
トセンター」(NCC)が落成した。
2度とないような珍しい偶然だが、多発する事故を防ぐに
は選手としての資質を備えなければならぬ。そのためには「絶
対に養成機関が必要」ということになって同センターをつく
り、9月24日から3年後の53年3月にかけて5131人の登録
選手を10日間ずつに分けて再訓練した。
これが1回生(1期生)、2回生(2期生)となって巣立ち
現在につながるわけだが、同センターを「日本競輪学校」と改名
したのは1955(昭和30)年4月。さらに静岡県
伊豆市に建設された新しい学校から生徒(26期)が卒業したの
は1969(昭和44)のことだった。
以上でございます。
皆様の競輪へのご理解などにお役に立ちますれば嬉しゅうございます。
mm
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