二人の母

戦後を苦労して子供達を必死で育ててくれた母親達を回想する。

次第に家計も豊かになる

2017-06-19 11:10:01 | 日記


ある時、「お米を町で売れば収入が増える」と教えてくれた人がいた。当時はまだ闇屋(やみや)だったので、警察に見つかると取り上げられてしかられるので、小さかった私を連れて町に売り歩いた。親子連れであれば、見つかりにくいと思ったようです。食堂や旅館に持っていくと買ってくれた。
「砂が混じっていた。」と文句を言われて、家で、父に砂取り機を作ってもらった。
上の箱にお米を入れて、滑り台形式に金網を渡してすりガラスを網の上に敷き、下の箱に砂を取り除いたお米が落ちてくるようにしていた。よく見える様に途中のすベリ台の下で電球を照らして、砂を見つけ易くしていたので、殆どの砂は取り除けた。
砂が少ないと云う事で、母のお米が良く売れたので、次第に家計が豊かになってきました。

子育ては、すべてにおいて、放任主義

2017-06-19 08:55:39 | 日記



長兄は手先が器用で丁寧な性格だったので、中学生になった頃から、材木屋で、くずの中から、使えそうな木をもらってきて、荒神さんを作ったり、本立てを作り売ってお小遣いを稼いでいた。

私より6歳上の次男の兄と3歳上の長女の姉が私の子守りを任されていたが、あやしかたがわからないので、2時間泣きどうしで放っておかれて、疲れて寝ることが、しばしばであったらしい。また時には、炎天下に乳母車を置いたままで遊びに夢中なっていた時は、事情が分かっている近所の人が木陰に移してくれたりしていた。

次男の兄は、時にはおんぶして、近所の子供と一緒に、缶けり等して遊んでくれていたそうだ。 

ある時、近所で赤痢が流行して、亡くなった子供もいた時に、母は「うちの子は誰も罹らなかった。捨てる神あれば、助ける神あり」と云って神様に感謝していたがそうです。

次男が中学になった頃は、次第に世の中は暮らしも豊かになって来ていたが、相変わらず、うちは貧乏で、長兄の衣服は、母の里の一番下の弟(長男より一歳年上)のおさがりで、次男の衣服は、その長兄のおさがりだったので、つぎあてが多かった。

ある時、近所の人が、「あんたとこの子が学校に行かずに、天神さんにいるのを見かけたよ。」と知らせてくれる人がいました。木の下にいた次男の手をひっぱて教室まで連れて行くと、「他の子は普通の服を着ていた。自分の子が余りにもみすぼらしく見えて可哀想だった。」と後になって話してくれました。担任の先生が、支払いが遅れていて持ってくるようにいっておいたのだが、いつも忘れて来るので注意したそうだ。母がやりくりに苦労していたので言い出せなかったそうです。

戦後、競輪場が地方にもできる。[模範青年の成れの果て]

2017-06-12 05:20:01 | 日記
戦争中のことは、一番上の兄がよく知っていたと思うのですが、早くになくなったので、末っ子の私はあまり知りません。ただ、母が長男と次男を連れて、戦地に向かう父を見送り行った際、「好物のちらし寿司とおはぎを持っていたのですが、道中が遠くて暑かったので、腐りかけていて、殆ど食べられなかったそうです。物のない時でしたので、兄がとても残念がっていた」と云う話は聞いています。また「終戦の年になると、空襲サイレンがよく鳴りましたが、乳飲み子をかかえていたので、最後の方は避難先にも行かなかった」と母が話してました。幸い田舎で、目立った工場もなかったので、戦火は免がれた様です。

終戦後、父は無事に帰還できたのですが、脊髄カリエスを患い、仕事には復帰できませんでした。絵が上手だったので、「戦死者の肖像画」を頼まれて描き始めました。評判になり、建具の細工場を肖像画の店にしました。しばらくは、うまくいっていたのですが、地方にも、競輪場が出来、近所の人に誘われて行ったのが病みつきになり、少しお金と時間が出来ると、いつの間にか姿が見えず、気付いたら、競輪依存症になり、死ぬまで直らず
「模範青年の成れの果て」と陰口をたたかれるようになりました。大阪万国博覧会の開催された年に、結核で亡くなるまで、競輪場に行っていたそうです。次第に家の金目のものはすべて質屋に入れ、調度品は差し押さえられ、田畑も売りはらい、家計を圧迫するようになりました。母は子供たちを食べさせるために、働きに出るようになりました。

近年、カジノの話がでていますが、「カジノ依存症の人が増し、家庭崩壊に繋がらなければいいけれど、・・・二度と、父の二の舞にならなければいいのですが、・・・」と案じられます。



春から梅雨入りまでの山の景色の色の変化の速い事!に驚いています。

2017-06-11 15:37:59 | 日記




昨年までの2人の母の介護や母親達との別れがあり、七日参り、百日参り納骨が終わるまで、なかなか余裕がなかったので気が付かなったのですが、最近、散歩をし、少しづつ遠出するようになって、山の景色の色の変化の速い事に気付きました。4月の始めは桜色、5月の始めから藤色(一部白色の藤の花、黄色の花)、5月終わりから6月に入るとウツギの白色(ウノハナ)に一変して行っている事に気付き驚いています。

そもそも、ブログを始めたきっかけは、5月1日のGOOブログお題「語彙力ないな・・・と思う瞬間は?」に参加中!を見て、殻に閉じ籠ってばかりしていてはダメだと思いたち、ブログ「2人の母」のIDを作り、始めました。意外と色々と思い出され、まだ進行途中ですが、いくつか記事にできました。途中、山の景色の方に脱線してしまいましたが、今感じている事を、記事にしておきたく、デジブックに入会いたしました。写真を撮ってはみましたが、記事に張付けるのに時間がかかり、なかなかはかどらなかったのですが、最近は、デジブックと皆様の励ましのお陰で、楽しみながら作れるようになりました。

デジブック 『出雲大神宮』

2017-06-10 09:55:48 | 日記

デジブック 『出雲大神宮』

http://www.digibook.net/d/7184cddbb1c93cf5f8d975e06cc5a65e/?viewerMode=fullWindow



2017年5月にブログ「二人の母」で回想録を書き始めました。
動機は、昨年、仲良く二人で旅だって逝かれたあとの方が、より私達夫婦に寄り添って下さっているように感じることが多くなってきたからです。三回忌までは、まだこの世とあの世を行き来しているそうです。生前は、二人とも足が悪かったので、せいぜい一年に一度、近辺での桜のお花見に連れて行ってあげるぐらいでしたが、最近は、兵庫、京都、奈良、もちろん郷里の四国へと行動範囲を広げていますが、そのつど、何と無く、傍にいて、自然の多い癒しの場所へと導いてくれているような不思議な気持ちがする時があります。そして良い人との出会いを与えてくれているようで、今も、母親への感謝の気持ちが膨らんできています。

ご面倒ですが、デジブックの中央の[[ フルウィンドウで見る ]]をクリックして頂ければ、デジブックで全ての写真を見ることができます。
宜しくお願い致します。