長兄は手先が器用で丁寧な性格だったので、中学生になった頃から、材木屋で、くずの中から、使えそうな木をもらってきて、荒神さんを作ったり、本立てを作り売ってお小遣いを稼いでいた。
私より6歳上の次男の兄と3歳上の長女の姉が私の子守りを任されていたが、あやしかたがわからないので、2時間泣きどうしで放っておかれて、疲れて寝ることが、しばしばであったらしい。また時には、炎天下に乳母車を置いたままで遊びに夢中なっていた時は、事情が分かっている近所の人が木陰に移してくれたりしていた。
次男の兄は、時にはおんぶして、近所の子供と一緒に、缶けり等して遊んでくれていたそうだ。
ある時、近所で赤痢が流行して、亡くなった子供もいた時に、母は「うちの子は誰も罹らなかった。捨てる神あれば、助ける神あり」と云って神様に感謝していたがそうです。
次男が中学になった頃は、次第に世の中は暮らしも豊かになって来ていたが、相変わらず、うちは貧乏で、長兄の衣服は、母の里の一番下の弟(長男より一歳年上)のおさがりで、次男の衣服は、その長兄のおさがりだったので、つぎあてが多かった。
ある時、近所の人が、「あんたとこの子が学校に行かずに、天神さんにいるのを見かけたよ。」と知らせてくれる人がいました。木の下にいた次男の手をひっぱて教室まで連れて行くと、「他の子は普通の服を着ていた。自分の子が余りにもみすぼらしく見えて可哀想だった。」と後になって話してくれました。担任の先生が、支払いが遅れていて持ってくるようにいっておいたのだが、いつも忘れて来るので注意したそうだ。母がやりくりに苦労していたので言い出せなかったそうです。