真の家庭と家庭盟誓 ⑳ - 3 家庭盟誓第八節の解説 2. 絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって (1) 創造原則と絶対信仰、絶対愛、絶対服従

2019年01月16日 07時34分30秒 | 真の家庭と家庭盟誓

 真の家庭と家庭盟誓 ⑳ - 3

 第二章 家庭盟誓の各節の解説


 八 家庭盟誓第八節の解説

 私たちの家庭は真の愛を中心として、成約時代を迎え、絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって、神人愛 一体理想を成し、地上天国と天上天国の解放圏を 完成することをお誓い致します。


 2. 絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって

 (1) 創造原則と絶対信仰、絶対愛、絶対服従

 神様が宇宙を創造される時、絶対信仰の上でされました。神様が語ったことは絶対に成るというのです。できないことがないというのです。また創造は、愛の対象をつくるためです。絶対愛です。疑心がありません。二つの心はないというのです。その次には、絶対服従です! 絶対服従とは、神様御自身までも存在意識がないというのです。

 神様が絶対信仰の上で万物を造り始められました。絶対愛の対象のために造り始めたのです。絶対服従して、自らの意識観念がなかったというのです。完全にゼロです。完全に無であるというのです。無に帰ることによって、自動的な循環運動が展開されるのです。完全にすべて与えて、何もないので下に戻ってきます。これが、宇宙運動の起源となっているのです。完全に投入したあとには 戻ってくるのです。

 創造される時、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の上に 創造されたというのです。完全真空状態になるので、絶対有の限りなく小さなところまで行ってくっつくのです。一つになるというのです。それゆえに、これが自動的に一つにさえなれば、完全に満たしてしまいます。運動が展開するというのです。

 絶対無の立場で自分が投入すれば、投入したその世界は、絶対の有圏、高気圧圏が完全に占領する大革命的な運動が展開するのです。このような原則を利用すれば、文総裁が 絶対信仰、絶対愛、絶対服従の上に、宇宙を中心として投入していくようになる時は、世界が自動的に一つになり、高気圧圏がすべて満たしてくれる時が来るというのです。闘わないで自動的な統一世界が顕現するという論理を見いだすことができるのです。

 神様は、アダムとエバを絶対信仰の上に立てたいと思われたというのです。絶対信仰の上に、創造した理想世界の愛の安着地がそのようにならなければならないので、絶対信仰の上に、絶対愛の上に、絶対服従の上に立つことができるアダムとエバの家庭となることを希望されたのです。ところが、アダムとエバは堕落してしまいました。絶対信仰基準を破綻してしまったというのです。絶対愛基準を蹂躙したというのです。絶対服従基準をすべて放棄してしまったというのです。このような人はどこへ行きますか、地獄に行かなければならないでしょう。

 神様が創造される時、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の上(うえ)で、理想的な絶対愛の統一世界を願って創造されました。神様御自身がそうであるために、私たちも、その神様の相対圏を訪ねていくためには、必然的に絶対信仰、絶対愛、絶対服従をしなければなりません。

 自分が死の境地に行っても、生命が途絶えても、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準に立たなければなりません。それでこそ、絶対信仰の上で絶対愛を取り戻すために、絶対投入しながら投入して、忘れてしまう歴史を経て来られたお父様の息子として、その姿に似ることができるのです。それで、イエス様がこの地に来られて、天国に行くための宣言の標語として、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と言われたのです。

 アダム家庭で失ってしまったものを 再び取り戻してくるのです。絶対信仰、絶対愛……。絶対愛とは何ですか、神様の創造の目的は、愛の相対者を探し出すことです。ですから、絶対的な愛のパートナーを取り戻すためには、神様御自身が絶対愛を標準として投入してきたというのです。したがって、絶対服従は、自らの意識構造まですべてなくなるのです。私のすべてを投入して忘れてしまうのです。

 神様御自身が、天地を創造した創造主としての価値的内容を認められません。最後まで降りていくのです。最後まで降りていきながら投入されるので、相対は上がっていきます。上がっていって神様が立っている位置を越え、自動的に二人共生き返るのです。

 神様を愛さなければなりません。神様を絶対信仰しなければならないのです。絶対信仰し、神様を絶対愛して絶対服従しなければなりません。なぜそうなのかというと、神様の愛を中心として、神様が相続してくださる所有権を認めてもらうためです。神様が絶対信仰の上(うえ)で、絶対愛の上(うえ)で、絶対服従する立場で天地を創造されたのです。神様が絶対信仰、絶対愛、絶対服従の上に 立てておいたものが被造万物の創造理想です。

 そこの中心存在が、神様の愛の対象であるアダムとエバです。それゆえに、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の上で立てたその基準が、絶対信仰と絶対愛と 絶対服従です。キリスト教も信仰と希望と愛です。その中で第一は何ですか、(愛です)。ぴたっと同じです。絶対信仰の上に 万物を造られ、絶対愛の上に造られ、絶対服従は、自分という意識がありません。相対としての存在意識だけなのです。希望とは、今現在ではありません。未来に願うことができる相対的な実践のことをいうのです、同じ内容です。

 絶対信仰、絶対愛、絶対服従です。この圏内において、すべてのものが成されるのです。神様御自身が愛の相対を造られる時、絶対信仰をもって造られました。「私がこのようにした」、このあとに造られたのです。絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって、自分自身を完全に投入されたのです。絶対愛の上で絶対信仰であり、絶対愛の上で絶対服従です。これが、霊界の主流思想です。永遠の霊界の主流思想です。また、地上の主流でもあります。地上天国と天上天国、二つの世界において主流だというのです。ですから、皆さんがそのコンセプト(概念)をもたなければなりません。このコンセプトさえもてば、どこでも通じるのです。どこでも通じるというのです。

 神様が全権をもって創造される時、絶対信仰、絶対愛、絶対服従で投入して創造されたのと同じように、皆さんもそのような立場に立たなければなりません。神様が創造された主体的理想圏内の相対になって一つになれなければならないのです。皆さんが知らなければならないことは、原理のみ言のすべての内容は、先生が 絶対的に信じているということです。それを知らなければなりません。

 絶対愛するのです。他の何もありません。自分の世界を捨てて、家庭を捨てて、妻を捨てて、子女を捨てても、それ以上に絶対愛するのです。絶対服従するのです。自らの一生、生命もすべて投入するのです。投入して忘れてしまうのです。今まで皆さんは、観念的に 絶対信仰、絶対愛、絶対服従を考えていたかもしれませんが、それは観念ではありません。実際に皆さんが、すべて行わなければなりません。

 愛の調和のポケットに、すべての平和の世界、統一の世界がないはずはないという論理は、統一教会の食口が千万年研究しても先生以上に研究することはできないので、否定する道がないという結論が下され、絶対信仰、絶対愛、絶対服従と言えば、すべて終わるのです。皆さんが結婚して、「私を絶対に信じますか、私を信じますか」と聞くでしょう。新婦が結婚した初夜に、「私をどれだけ愛しますか」と言うとき、「心と体が一つになって絶対に愛します。心身一体になって絶対に愛します。絶対に信じます」と言うでしょう。

 真の父母の思想は簡単です。絶対信仰、絶対愛、絶対服従を中心とするのです。愛を中心として 絶対信仰であり、これは一つの概念です。愛は中心です。

 それから、服従とは実践です。愛を成すためには、愛を中心として服従しなければなりません。服従するそれ自体の概念は、もっと大きいことを 成し遂げようとするので、自分を投入しなければならないというのです。自分を中心としてこれが育つ時には、それ以上大きくなることはできません。投入すれば、いつでも どこでも 継続して、神様の無限な愛の伝統が伸びていくのです。問題は、夫婦の二人だというのです。それで、ジャルジンを中心とした宣言とは何かと言えば、最初は絶対信仰、絶対愛、絶対服従です。創造した神様の本然の位置に帰るのです。

 堕落とは何かと言えば、絶対信仰をもつことが できなかったということです。これを知らなければなりません。絶対信仰、絶対愛、絶対服従です! これを神様が強調したのです。なぜですか、自らの愛の理想をすべて相続してあげようとするので、神様と同じでなければなりません。

 絶対というのは、一つしかないということです。それは、一つに通じる道です。二つではありません。どのようにして、そのような一本道を連結することができるのですか、「ため」に生きる概念をもって連結するのです。神様もそのような概念をもって創造されました。絶対信仰、絶対愛、絶対服従だというのです。神様においても、他の概念は全くありません。ゼロ、ゼロだと言うのです。

 ところが、アメリカの人々は、個人主義になり、「自分が一番高いのであって、レバレンド・ムーンとは何だ、統一教会の教主なら 教主なのだろう、私とは関係ない」 このようにしています。レバレンド・ムーンが絶対信仰、絶対愛、絶対服従と言うので、「そのような言葉がどこにある、独裁の王が言うことだ」と、このように言っています。独裁の王は神様です。神様が本物の独裁の王です。偽りの独裁の王はサタンです。それを知らなければなりません。神様に「主人になるな」 と言えば、主人にならないでしょうか、永遠に違うというのです。


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