全校集会で「奇跡に出会うこと」をテーマに、話をさせていただきました。
自身の卓球部顧問時代の思い出話を紹介しつつ…。
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神様がくれた逆転勝利(「のさっち」のこと)
「のさっち」という子がいた。もちろんニックネームだ。カットマンだった。飯能一中時代のことである。
彼女の学年は、部員が4人。その下の学年は、たった2人。4人+2人で合計6人。団体戦戦うにはピッタリの人数。別の言い方をすると、1人も欠けることができないギリギリの人数での関東・全国への挑戦だった。
冬はたいへんだった。風邪をひくこともできない。人数が足りなくて団体戦に参加できなくなってしまうからである。
キャプテンの「キタちゃん」は腰痛に悩んだ。「先生、きょうは無理です。プレーできません。」そういう日は「キタちゃん」を5番においた。そして、他の5人に言った。「キタちゃんまでまわすな。3対0か3対1で勝て!」
厳しい冬を乗り切り、やっと春の日ざしが感じられるようになった、3月のある日のことだった。2年生のまとめの保護者会で学校に来ていた「のさっち」のお母さんが、その帰りに体育館にやってきた。「先生、お話があります。実は主人が4月から甲府に転勤することになりまして、家族で引っ越すことに…。」耳を疑った。「のさっちが転校してしまう。メンバーが1人足りなくなってしまう…。」でも、そのとき、私は優しくほほえんで(実は少し表情が ひきつっていたかもしれないが…)お母さんに言った。「さみしいですけど…。甲府でも卓球を続けてくれるといいですね。」
数日後、お母さんから連絡が入った。「娘と私は、もう1年飯能に残ることにしました。娘が『私が転校しちゃったら卓球部の人数が足りなくなってしまう。どうしても6人で関東大会に行くんだ!!』と言うものですから…。」
「えっ?」うれしかった。ジーンときた。でも同時に「ホントにいいのかな?」とも思った。卓球のせいで家族がバラバラになってしまう。お父さんはものすごく寂しいに違いない。でも、こうなったからには、「のさっち」に、そしてご家族のみなさんに「飯能に残ってよかった」と思っていただかなくてはならない。そうでなくては、申し訳ない。私は熱いものがこみ上げてくるのを感じていた。
5月の埼玉県大会。やっとのことでベスト8に入った。でも正直、もうひとつ勝つのは至難の業だと感じた。
「とにかくやるだけのことをやってみよう。」休みの日はすべて試合に出かけた。必死で練習した。ほんの少しずつだけれど、心のどこかに小さな自信が芽生え始めていた。
7月。関東大会予選会。埼玉県から関東大会へコマを進めることができるのは、5チーム。組合せ抽選の結果、我がチームは予選リーグで5月の埼玉チャンピオンチームとあたることになった。強敵だ!でも、この試合に勝てば、関東出場が決まる。私たちは「あたって砕けろ」という気持ちで強敵に挑んだ。
1番、エース対決。相手はシングルスの埼玉チャンピオン。しかしこの日は我がエースが2-1(第3セットは21-19!当時は21点制)で勝った。2番、3番は健闘むなしく敗れた。4番、相手は準エース。ウチは2年生のカットマン。相手の攻撃を無心で拾い、奇跡の大金星。そして5番、「のさっち」登場。
相手もカットマン。長いラリーが続く。まさに、ねばりあいだ。1セットずつをとりあっていよいよ最終セット。「6人で関東大会に行くために、飯能に残りたい」あのときのことばが私の脳裏をよぎった。
……がしかし、ふと気がつくと6ー17。相手が大きくリード。あと4点で相手の勝利。私たちは敗者復活リーグで今一度苦しい戦いをしなくてはならない。「まあ、それもしかたがないか。」私はすでに心の隅で、敗者復活リーグであたることになるであろうチームのこと、そしてどんなオーダーで臨むかなどを考え始めていた。
一度はあきらめかけていたベンチの応援の声が、元気を取り戻してきたことに気づき、得点板を見ると、そこではまさに「奇跡」の大逆転劇が展開されていた。10点以上あった得点差を 「のさっち」は、ねばり強いプレーで1本1本挽回し、ついに 19ー19に追いついたのだ!
「関東大会に行くために飯能に残る」そう決めたことに対して、そしてきょうまで無心で頑張ってきたことに対して、「卓球の神様」が微笑みかけてくれている。そう思えた。胸が熱くなった。夢中で応援した。「のさっち」の姿がぼやけて見えなくなった。(こうしてパソコンに向かっている今でさえ、思い出すと目頭が熱くなる。)そして、ついに 21ー19。ゲームセット。大逆転勝ち!バンザイをした。「のさっち」と握手をした。ベンチのみんなと握手をした。…でも、本当はよく覚えていない。
「のさっち」、元気かい?「奇跡」って、本当に起こるんだね。そのことを教えてくれた君のこと、いつまでも忘れないよ。
「のさっち」という子がいた。もちろんニックネームだ。カットマンだった。飯能一中時代のことである。
彼女の学年は、部員が4人。その下の学年は、たった2人。4人+2人で合計6人。団体戦戦うにはピッタリの人数。別の言い方をすると、1人も欠けることができないギリギリの人数での関東・全国への挑戦だった。
冬はたいへんだった。風邪をひくこともできない。人数が足りなくて団体戦に参加できなくなってしまうからである。
キャプテンの「キタちゃん」は腰痛に悩んだ。「先生、きょうは無理です。プレーできません。」そういう日は「キタちゃん」を5番においた。そして、他の5人に言った。「キタちゃんまでまわすな。3対0か3対1で勝て!」
厳しい冬を乗り切り、やっと春の日ざしが感じられるようになった、3月のある日のことだった。2年生のまとめの保護者会で学校に来ていた「のさっち」のお母さんが、その帰りに体育館にやってきた。「先生、お話があります。実は主人が4月から甲府に転勤することになりまして、家族で引っ越すことに…。」耳を疑った。「のさっちが転校してしまう。メンバーが1人足りなくなってしまう…。」でも、そのとき、私は優しくほほえんで(実は少し表情が ひきつっていたかもしれないが…)お母さんに言った。「さみしいですけど…。甲府でも卓球を続けてくれるといいですね。」
数日後、お母さんから連絡が入った。「娘と私は、もう1年飯能に残ることにしました。娘が『私が転校しちゃったら卓球部の人数が足りなくなってしまう。どうしても6人で関東大会に行くんだ!!』と言うものですから…。」
「えっ?」うれしかった。ジーンときた。でも同時に「ホントにいいのかな?」とも思った。卓球のせいで家族がバラバラになってしまう。お父さんはものすごく寂しいに違いない。でも、こうなったからには、「のさっち」に、そしてご家族のみなさんに「飯能に残ってよかった」と思っていただかなくてはならない。そうでなくては、申し訳ない。私は熱いものがこみ上げてくるのを感じていた。
5月の埼玉県大会。やっとのことでベスト8に入った。でも正直、もうひとつ勝つのは至難の業だと感じた。
「とにかくやるだけのことをやってみよう。」休みの日はすべて試合に出かけた。必死で練習した。ほんの少しずつだけれど、心のどこかに小さな自信が芽生え始めていた。
7月。関東大会予選会。埼玉県から関東大会へコマを進めることができるのは、5チーム。組合せ抽選の結果、我がチームは予選リーグで5月の埼玉チャンピオンチームとあたることになった。強敵だ!でも、この試合に勝てば、関東出場が決まる。私たちは「あたって砕けろ」という気持ちで強敵に挑んだ。
1番、エース対決。相手はシングルスの埼玉チャンピオン。しかしこの日は我がエースが2-1(第3セットは21-19!当時は21点制)で勝った。2番、3番は健闘むなしく敗れた。4番、相手は準エース。ウチは2年生のカットマン。相手の攻撃を無心で拾い、奇跡の大金星。そして5番、「のさっち」登場。
相手もカットマン。長いラリーが続く。まさに、ねばりあいだ。1セットずつをとりあっていよいよ最終セット。「6人で関東大会に行くために、飯能に残りたい」あのときのことばが私の脳裏をよぎった。
……がしかし、ふと気がつくと6ー17。相手が大きくリード。あと4点で相手の勝利。私たちは敗者復活リーグで今一度苦しい戦いをしなくてはならない。「まあ、それもしかたがないか。」私はすでに心の隅で、敗者復活リーグであたることになるであろうチームのこと、そしてどんなオーダーで臨むかなどを考え始めていた。
一度はあきらめかけていたベンチの応援の声が、元気を取り戻してきたことに気づき、得点板を見ると、そこではまさに「奇跡」の大逆転劇が展開されていた。10点以上あった得点差を 「のさっち」は、ねばり強いプレーで1本1本挽回し、ついに 19ー19に追いついたのだ!
「関東大会に行くために飯能に残る」そう決めたことに対して、そしてきょうまで無心で頑張ってきたことに対して、「卓球の神様」が微笑みかけてくれている。そう思えた。胸が熱くなった。夢中で応援した。「のさっち」の姿がぼやけて見えなくなった。(こうしてパソコンに向かっている今でさえ、思い出すと目頭が熱くなる。)そして、ついに 21ー19。ゲームセット。大逆転勝ち!バンザイをした。「のさっち」と握手をした。ベンチのみんなと握手をした。…でも、本当はよく覚えていない。
「のさっち」、元気かい?「奇跡」って、本当に起こるんだね。そのことを教えてくれた君のこと、いつまでも忘れないよ。