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“ 嵐が吹き消した 恵みのろうそくを 再び取り上げ、それに新しい明かりを灯さなければならぬ。” 教皇ヨハネ二十三世

file.no-57 『諸葛忠武侯文集』

2006-11-02 23:08:48 | 書籍
諸葛亮』、この名前ほど、日本そして中国で知名度のある名前はない。
中国では、忠誠心厚い名宰相として。
日本では、尋常ならざる才智を持った名軍師として。
まぁ、昨今の日本では某ゲームの影響か、諸葛亮その人よりもその伝説が先行することで、神懸り的な人物であると認識されているようですが。

私にとって、諸葛亮とは、どのような人物か?
あたら才を持ちながら、滅び行く国家に殉じた情の人として捉えています。

諸葛亮は、中国の三国時代に最弱の国家『蜀』の宰相である『丞相』位に就いた人物です。
蜀がどれだけ国力が低かったかというと、前身とする『漢』の領域15州の内(ここでは15州としておきます)、蜀が保有するのはかろうじて1州のみという体たらく。
その他の州は、三国最大の『魏』と次位の『呉』に保有されてしまっている。
人口だけでも、魏が443万に対して、呉が230万。蜀に至っては、わずか94万。
交戦状態のご時世なのに、実働可能な兵力は、たった10万ばかり。呉ですら実働23万。魏など、60万を超えていたという。
国力を、兵力だけで測るとしたら、これだけで蜀の前途はない。三国間の戦争を生き延びれるわけがない。

まして、諸葛が丞相に就任して間もなく、蜀・呉の間に大戦が勃発。蜀は大敗を喫す。国軍は壊滅。南方の諸部族の離反で、税収の多くが途絶えるという事態に。
国境を閉ざし、引きこもりになることで、かろうじて国として形を保っているという有様だったという。

彼は、その蜀という瀕死の国家の再建を託されたのです。
私なら、逃げ出しますね。今の日本の赤字財政なんてものじゃないのですもの。例えるならば、財政破綻に加えて北海道と九州にロシアと北朝鮮が侵攻しているような状況です。それで首相をやってくれ、と言われるようなもの・・・。
事実、同時代の多くの知識人が、蜀はもう駄目だと判断したのです。
大国・魏は、蜀への警戒心すら持たず、無関心に。
呉は、蜀と休戦条約を結んでいたにもかかわらず、その南方に密かに手を伸ばす。
蜀の国内でも、国民が恐慌状態に陥り、治安も悪化した。

・・・にもかかわらず、諸葛は蜀再建をやり遂げた。
二年で、軍備再編をやり遂げ、次の一年で南方平定。
さらに一年で、財政の再建を達成。さらに軍拡を推し進め・・・、破産宣告から足かけ五年で、大国・魏に攻め込むまでに国力を拡充させたのです(227年)。

普通ではない」としか表現できない。しぶといとか、あきらめない不屈の精神とかではない。
例えるなら、これはドイツ第三帝国を指揮したアドルフ・ヒトラーのようなもの。

さらに彼が普通ではないのは、対蜀方面だけでも15万は兵力を稼動させ得た魏に、半分以下のわずか6万強の兵力で侵攻したこと。
子供向けの小説では、やんややんやの大立ち回りと大見得で、蜀の軍団が魏を相手に戦う場面ですが、大人の視点で考えると「普通ではない」。
前パウエル米国務長官ではないですが、勝てる見込みのない戦争をするべきではない。それは狂気の沙汰。
では、諸葛は狂人であったのか? 然り、しかして否でしょう。
財政を建て直した彼の手腕は間違いなく、健全な政策実行者のそれでしょう。
問題は、彼を戦争に駆り立てた「何か」です。

蜀はその弱さゆえに、早晩他国に併合されかねず、それを防ぐためには先手を打って他国に侵攻せねばならなかった・・・というのが定説です。
私は、そんな蜀の事情以外にも、諸葛自身の「情」もあったのだと思うのです。
蜀は、その建国目的が、魏や呉に領有されてしまった、かつての漢帝国の再興にあった。旧地を復し、かつての帝都に蜀の皇帝を「還御」させしめる。それこそが、悲願。
諸葛は蜀建国に携わった人間。しかし彼を置いて、当時の君主や同僚は次々と死去。
227年当時、悲願を理解していたのは、諸葛以外には、政権上層部でも数えるほど。
皇帝自身が、魏との戦争に意欲的ではなかった。
それでも、諸葛は、その年に魏に侵攻。敗れるも、そののちも数度も侵攻を繰り返す。
兵力が減少し、回数を重ねるごとに戦果が少なくなっても・・・。
最後の戦いでは、最大兵力10万を挙げて魏に攻め込んでいき、病で国にも還らず敵地で没する最期を迎えた。

勝てぬ戦を繰り返し、疲弊していく国を見つめながらも、なお戦いを繰り返す諸葛の心境はどうであったのか?
私は、彼のそこに興味がある。現状を把握しながらも、「悲願」達成の為に愚行を繰り返す。
それをさせるのは、「情」ではないだろうか。愚かしげで、哀れで、涙をさそう。夢の為に、ただひたすらに走る。
政治は冷徹でなければ行なえない。まして、戦争など、情を排さねばやってられないだろう。
それでも、彼は情の人だったと言えないだろうか? 走り続け、そして力尽きた人。 その情のゆえに、その姿に、日本の大人の多くは、彼が「大活躍」する三国志演義のようなものを愛するのかもしれません。

彼の遺した文書があれば、彼の思考がわかるのですが、現在に伝えられる「諸葛亮作」の文集の多くは、偽作であるとされています。ですが、そこには、諸葛の思考の面影だけでも感じられるのではないか。
だからこそ、『諸葛亮文集』として今日でも刊行され続けているのではないのか。
そう思い、今回は、文集のなかのひとつをご紹介。
(宅には、大学時代にコピーした台北で刊行された張澍の『諸葛忠武侯文集』があり、それをテキストにしました。)

『将苑』所収の五十篇に、『和人』という一篇があります。『将苑』の多くは、『孫子』のパクリに近いものがあります。そのため、後世に偽作と断定されました。ですが、諸葛の同時代人・曹操が孫子の注釈書を書いていたということを考えると、もしかしたら諸葛も孫子を自分なりに注釈してみたのかも。そう考えると面白いのです。
では、その『和人』篇より抜粋。

 夫用兵之道、在於人和。人和則不勧而自戦矣。
 若将吏相猜、士卒不服、忠謀不用・・・云々。
(夫れ用兵の道は、人の和に在り。人和すれば則ち勧めずして自ずから戦はむ。
 若し将吏相ひ猜まば、士卒服せず、忠謀は用いず・・・云々。)

「夫れ用兵の道は、人の和に在り」・・・例えパクリであったとしても、真理に近い文句ではある。
戦いは、人が大事なのだと言い切るこの文句は、案外諸葛の信条を代弁していたのかもしれません。

( 2011/01/09 誤字を訂正 )
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