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“ 嵐が吹き消した 恵みのろうそくを 再び取り上げ、それに新しい明かりを灯さなければならぬ。” 教皇ヨハネ二十三世

file.no-58 『マキアヴェッリ語録』

2006-11-09 22:43:59 | 書籍
ニコロ・マキアヴェッリ。
言わずと知れた『マキアヴェッリズム』という言葉で、夙に有名な人物です。
そのマキアヴェッリの思想・・・「強い国、現実の社会とはいかなるものか」について、彼の述べるところは、21世紀現代においてもなお多くの人の関心を引くところです。

私は、塩野七生女史の著わした『マキアヴェッリ語録』が、マキアヴェッリの思想を手軽に知ることの出来る必読書だと思っています。
彼の『君主論』『政略論』は、邦訳も数点あり、それについて述べる自己啓発書も多く刊行されています。
・・・が、それらの多くは、良かれ悪しかれそれぞれの著者の主観が含まれてしまい、原書の味わいが薄れているように感じるのです。
その点、塩野女史は、イタリア語の原書から邦訳を行い、なおかつ女史自身の主観はほとんど含まれていない。というのも、マキアヴェッリの著作から、厳選されたもののみを抜粋しており、女史のコメントなどは一切入っていない。
女史の主観は、「ナニを」選択したか、それのみである。
読者が、それから「ナニを」感じ取るあるいは読み取るのかは、それこそ読み手の自由なのである。
これは大事なことです。
というのも、大部分の日本人の読者は、イタリア語の原書を読解することなどできない。かといって、巷の本では、翻訳者の注釈やら独特の言い回しによって、原書の味わいが薄れてしまっている。
塩野女史の本では、それらの心配が一切ないのですから。

『マキアヴェッリ語録』
著:塩野七生  新潮社文庫  初版:1992年

さて、今回マキアヴェッリを選んだのは、前回諸葛亮とその著作(偽作ではあるのですが)をテーマに選んだからです。
マキアヴェッリも、人間の情を無視しているのではない。ただ、彼は人間性を冷静に見つめ、国家を運営していくにあたっては冷徹にならねばならないとしたのです。
そこに、私は諸葛とマキアヴェッリの共通性を見い出すのです。
『冷徹』であった。それが二人に共通するものだったと思うのです。

“改革が根本的なものであればあるほど、ただ一人の人間の意志と能力に、改革の成功が左右されることが多いのも事実である。
 しかし、この種の大任を負う一個人は、私利私欲よりも公共の利益を優先し、自らの子孫のことなど考えない人物であるべきで、そういう人物こそ根本的な改革もなしうるのだから、そのために必要な全権力を獲得するよう努めてほしいものである。
 そして、この種の目的のためにいかなる非常手段が用いられようとも、非難さるべきではない。
 結果さえよければ、手段は常に正当化されるのである。
 (中略)
 とはいえ、いかに一人の力量豊かな人物が全精力を投入したところで、その投入のたまものを以後も維持していくのは、その他多勢の人間の協力によるのである。
 そして、この最後のことなしには、国家の存続は保証されえない。”

上記は、『語録』からの引用です。
諸葛は、まさしくこれそのものです。
彼は、国の唯一人の宰相として在ったのですが、結構黒いことも行なっている。
国内の様々な政敵を政治的に抹消しているし、兵士調達に、南方叛乱地域から蛮人を掻っ攫ってもいる。軍費調達に、国境周辺の相手国側に偽造貨幣や悪質な農産物を撒き散らし、密貿易にも進んで乗り出している。
まさしく、結果を出すために手段を選ばなかった一面があった。
それでいて、自身は蓄財に一切興味を示さず、財は一家が食べていくだけのわずかな田畑しか持っていなかった。

彼は国政の最高責任者として、全てに眼を光らせ、全てを処理したという。彼が全てを管掌せねばならなかったということは、裏を返せば、本当の意味で協力・信頼できる人材がいなかったということではないか。
結果、彼と同程度の才覚を持つ人材は現れず、彼が死去したあとは、蜀の人材は急速に質量ともに萎んでいったのである。

マキアヴェッリが、いまなお愛読されている理由は、彼の論が実に正鵠を射ているからである。
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