「それはある時代が終わろうとして、あらためて
その価値を総括してみようとする時に
いつも現れてくる人間だった
あらためて一人の人間が時代のすべての重荷を持ち上げ
自分の胸の深淵へ投げ入れる
彼より前の人々は悲喜哀楽に明け暮れていた
だが彼が感じるのは、ただ人生の重量であり
一切を一箇の物のようにじっと胸に抱いているということである
ただ神のみは遙かに彼の意志を超えた所にいる
だからこそその届きがたさへの壮大な敵意に燃えながら
彼は神を愛するのだ
この詩[リルケ『時禱詩集』の「それはミケランジェロの生涯だった・・・」]はウェーバー研究者にはよく知られており、特に最初の三行は、多くのウェーバー論に、ウェーバー像の象徴としてしばしば引用されてきた。たしかに最初の三行は、時代の価値の総括者としてのウェーバーを彷彿とさせる直截な表現である。・・・・ウェーバー研究者たちがこの詩を引用するとき、きまって最初の三行に限られているのはなぜだろうか。・・・もしも最後の三行に力点をおいて読むなら、そこに現れれてくるのは「時代の価値の総合者」というイメージではなく、はるかに自分の意志を超えた神を、壮大な敵意に燃えながら愛するというアンビヴァレントな緊張に充ちた人間の姿である。」(德永恂『現代思想の断層』,pp.4-8)
若々しい英雄ダヴィデ像ばかりでなく晩年のミケランジェロは、また暗い未完の連作、いくつかのピエタ像、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く母マリアの像を残しているという。「リルケがミケランジェロに惹かれたのは、ほかならぬこの後者の面、あるいは少なくとも前者と後者との両義的な緊張関係にあった。」ウェーバーもまたその英雄性ばかりでなく、「むしろ苦闘と挫折を、挫折の内的必然性という悲劇」(p.9)こそを見届けなければならないだろうと德永は言う。
その価値を総括してみようとする時に
いつも現れてくる人間だった
あらためて一人の人間が時代のすべての重荷を持ち上げ
自分の胸の深淵へ投げ入れる
彼より前の人々は悲喜哀楽に明け暮れていた
だが彼が感じるのは、ただ人生の重量であり
一切を一箇の物のようにじっと胸に抱いているということである
ただ神のみは遙かに彼の意志を超えた所にいる
だからこそその届きがたさへの壮大な敵意に燃えながら
彼は神を愛するのだ
この詩[リルケ『時禱詩集』の「それはミケランジェロの生涯だった・・・」]はウェーバー研究者にはよく知られており、特に最初の三行は、多くのウェーバー論に、ウェーバー像の象徴としてしばしば引用されてきた。たしかに最初の三行は、時代の価値の総括者としてのウェーバーを彷彿とさせる直截な表現である。・・・・ウェーバー研究者たちがこの詩を引用するとき、きまって最初の三行に限られているのはなぜだろうか。・・・もしも最後の三行に力点をおいて読むなら、そこに現れれてくるのは「時代の価値の総合者」というイメージではなく、はるかに自分の意志を超えた神を、壮大な敵意に燃えながら愛するというアンビヴァレントな緊張に充ちた人間の姿である。」(德永恂『現代思想の断層』,pp.4-8)
若々しい英雄ダヴィデ像ばかりでなく晩年のミケランジェロは、また暗い未完の連作、いくつかのピエタ像、死んで十字架から降ろされたキリストを抱く母マリアの像を残しているという。「リルケがミケランジェロに惹かれたのは、ほかならぬこの後者の面、あるいは少なくとも前者と後者との両義的な緊張関係にあった。」ウェーバーもまたその英雄性ばかりでなく、「むしろ苦闘と挫折を、挫折の内的必然性という悲劇」(p.9)こそを見届けなければならないだろうと德永は言う。