goo blog サービス終了のお知らせ 

戦間期の思想

現代思想に係る引用と私的メモ

マルクスの「疎外」概念

2020-05-30 21:01:10 | 現代思想
マルクスの初期の疎外論は後期の物象化論に解消されたというのは、どうもそんな単純な話ではないようだ。この歳になって『経済学・哲学草稿』や『ドイツ・イデオロギー』を読み返そうとしているが、いっこうに進まない。ただでさえ進まないのにあれやこれや思いもかけぬ参照項がまとわりついてくる。

「全自然を、じぶんの<非有機体的肉体>(自然の人間化)となしうるという人間だけがもつようになった特性は、逆に、全人間を、自然の<有機的自然>たらしめるという反作用なしに不可能であり、この全自然と全人間の相互のからみ合いを、マルクスは<自然>哲学のカテゴリーで<疎外>または、<自己疎外>とかんがえたのである。」(吉本隆明『カール・マルクス』光文社文庫2006年,p.21)

「マルクスの<自然>哲学のなかに人間と自然の相互関係を表象するものとしてあらわれる<疎外>または、<自己疎外>の概念は、本質的な、それゆえ不変の概念であり、社会がかわればかわるというふうには考えられていない。しかし、現実の社会の経済的なカテゴリーとして表象される<疎外>(疎外された労働)は社会がかわれば消滅することもでき、またそれを人間社会の自己目的としうる概念としてあらわれている。」(同p.23)

捏造の世界

2019-10-01 12:24:35 | 現代思想
【人間の脳が作り出した世界】
 意外なことに人間の脳は、自分たちが暮らす自然界をしっかりと把握することができない。進化が作りだした生物の世界は、多様性に満ちている。あらゆるものが・・・つながりを持っている複雑な世界である。人間の脳は、この複雑さが区分できないのだ。いや、できないというよりも自然界を生き抜くためには、複雑な世界をまるごと理解するよりも、自分に必要な情報のみを切り出して、単純化する能力を発達させてきたということなのだろう。
 自然界には境界はない。すべてがつながっている。・・・人間の脳は、複雑にこの世の中を、ありのまま理解することはできない。そのため、区分して単純化していくのである。理解しにくいから、「できるだけ揃えたい」と脳は考える。

【「ふつう」という幻想】
・・・もともとは、生物の世界にふつうなどというものは存在しない。ふつうとふつうでないものとの区分もないのだ。もちろん、私たちは人間だから、多様なものを単純化して、平均化したり、順位をつけたりして理解するしかない。しかし、それは私たち人間の脳のために便宜的に行っているだけで、本当は、もっと多様で豊かな世界が広がっているということを忘れてはいけないだろう。(稲垣栄洋『敗者の生命史38億年』PHPエディターズ・グループ2019年,pp.202-207)

【生/死】
「死」は、三十八億年に及ぶ生命の歴史の中で、もっとも偉大な発明の一つだろう。・・・遺伝子を交換することで新しいものを作りだす。そして新しいものができたのだから、古いものをなくしていく。それが「死」である。・・・「死」というシステムは「性」というシステムの発明によって、導き出されたものなのだ。・・・生命は永遠であり続けるために、自らを壊し、新しく作り直すことを考えた。・・・永遠であり続けるために、生命は「限りある命」を作りだしたのである。(同pp.74-77)

アウストラロピテクス属のニッチ

2019-09-27 01:56:47 | 現代思想
哺乳動物が小型でも大型でもないという境界線上で生きてゆくためには、特別な生き方をしなくてはならない。大型種には植物の葉、小型種には果実や昆虫という無尽蔵の食物供給源があるが、中間的な体重クラスの哺乳類にはそういう指定席はない(ウシ科はどうも別のようで、反芻胃による草の効率的な消化は、中間的な体重クラスでも草で生きてゆける方法を開発している)。他の哺乳類がすでにやってしまっているようなことをしたのでは、生きてゆけない。・・・特別の食物をもとめて長距離を移動したり(タイリクオオカミ)、例外的に速いスピードで走ったり(チーター)、跳び上がったり(ヒョウ)、固い地面を掘ったり(ツチブタ)・・・こうして彼らは新しいニッチをつくり出した。新しいニッチの開発は、新しい食物の開発とその食物を食べられるようにした体の形、霊長類では口と手の形ができあがることとセットになっている。人類の新しいニッチについていえば地面で立ち上がって移動するという例のない生きかたによって始まっている。「直立二足歩行によって、『自由になった手』が『大脳の発達』を促し、『ヒト化』への道筋を開いた」と真顔で語る学者は掃いて捨てるほどいる。しかし、無内容な「自由な手」が「大脳の発達を促す」とは、事実無根である。
・・・400万年前に現れたアウストラロピテクス属は直立二足歩行し、430~550ccの脳容量を持ったが、ホモ・エレクトゥス(850~1250cc)が190万年前に現れるまでの200万年以上の長い間、脳容量はほとんど変わらなかった。
・・・・直立二足歩行が「手の自由」や「大脳の発達」を促すというような空想人類学から離れるためには、直立二足歩行という他に類例のない特別な移動のしかたは、大脳の発達のためではなく特別な食物に関係すると考えるほうがよい。・・・人類の手と特別な歯は、何を主食にするための道具なのか?そして、特別な手と特別な歯はなぜ直立二足歩行という特別な移動手段を生み出したのか?」(島泰三『親指はなぜ太いのか-直立二足歩行の起原に迫る』中公新書2003年,pp.159-162)

初期人類の平均体重40kg ある程度の低カロリーの食物でも生きていけるが、草や木の葉のような低カロリーの食物では生けていけない。

「“bone hunting”はこれだけをとりだしてそまうと、霊長類にも現代人にも類例がないので突飛にみえるが、食性進化史的ないし技術史的にみれば、大型獣猟の発生とともにその中に吸収され発展的に解消したとみることができる。獣骨割り-骨髄食が現生狩猟採集民間に殆ど汎世界的に広くみられるのは、それが大型獣猟以前からの古い習性の名残である可能性を暗示するようにもみえる」と渡辺仁さんは言う。骨はサバンナに豊富にあるといっても、大型の肉食動物たちが食べ残したそうとうに堅いものだ。しかし、これを割ることができれば、脂肪の塊である骨髄はそのまま食物になる。傍らにあった石で大きな骨を叩き割り、骨髄を取り出して食べる。最初はそうしてはじまったのだろう。・・・骨の栄養に果実や葉を加えると、高カロリーのバランスのとれた栄養豊かな食事となる。しかもサバンナには骨はほとんど無限にある。この誰も使わないニッチに初期人類が足を踏み入れたのだから、成功は保証されていたといってよい。・・・この手は骨を拾って平らな場所に置き、石を握って、骨を砕くほどの正確さで振り下ろす。その目的のためにはこういう手でなくてはならなかった。親指は石を握りしめるために不可欠なもので、太くなる理由があった。主食を準備する石を握る手、それが私たちのこの手であり、この太くなった親指の意味である。・・・手に物を持ったサルたちは例外なく立ち上がる。しかし、そこから直立二足歩行までには、大きな溝、いやルビコン河を超える必要がある。この大きな河を超えるためには、その生態系のなかでニッチを確定して100万年の安定をもたらすほどの生存を確実にする主食の開発がなくてはならない。しかし、そのためには大きな骨を口に入れられるほどに砕く石を使う以外には、どんな手立てもない。こうして常の食、主食を手に入れる手段として手には常に石をもつようになる。・・・地上に降りて、ボーン・ハンティングする類人猿は両手に道具と食物をもって立ち上がる。そして、歩き出す。」(同pp.249-252)


滅んだネアンデルタール人

2019-09-26 21:01:32 | 現代思想
ネアンデルタール人はホモ・サピエンスに勝る体力と知性をもっていた・・・ホモ・サピエンスの脳は小さいが、コミュニケーションを図るための小脳が発達していたことがわかっている。弱い者は群れを作る。力の弱いホモ・サピエンスは集団を作って暮らしていた。そして、力のないホモ・サピエンスは自らの力を補うように道具を発達させていった・・・ネアンデルタール人も道具を使っていたが、生きる力に優れた彼らは集団を作ることはなかったと考えられている。そのため、暮らしの中で新たな道具が発明されたり、新たな工夫がなされても、他の人々に伝えることはなかった。・・・こうして、集団を作ることによって、ホモ・サピエンスはさまざまな道具や工夫を発達させていった。そして、結果として能力に劣ったホモ・サピエンスがこの地球にのこったのである。(稲垣栄洋『敗者の生命史38億年』PHPエディターズ・グループ2019年,pp.191-192)

【人間の脳が作り出した世界】意外なことに人間の脳は、自分たちが暮らす自然界をしっかりと把握することができない。進化が作りだした生物の世界は、多様性に満ちている。あらゆるものが個性を持ちながら、つながりを持っている複雑な世界である。人間の脳は、この複雑さが区分できないのだ。いや、できないというよりも自然界を生き抜くためには、複雑な世界をまるごと理解するよりも、自分に必要な情報のみを切り出して、単純化する能力を発達させてきたということなのだろう。自然界には境界はない。すべてがつながっている。・・・人間の脳は、複雑にこの世の中を、ありのまま理解することはできない。そのため、区分して単純化していくのである。理解しにくいから、「できるだけ揃えたい」と脳は考える。・・・・【「ふつう」という幻想】もともとは、生物の世界にふつうなどというものは存在しない。ふつうとふつうでないものとの区分もないのだ。もちろん、私たちは人間だから、多様なものを単純化して、平均化したり、順位をつけたりして理解するしかない。しかし、それは私たち人間の脳のために便宜的に行っているだけで、本当は、もっと多様で豊かな世界が広がっているということを忘れてはいけないだろう。(同pp.202-207)

・・・地球に異変が起こり、生命の絶滅の危機が訪れるたびに、命をつないだのは、繁栄していた生命ではなく僻地に追いやられていた生命だった・・・生物の歴史を振り返れば、生き延びてきたのは、弱き者たちであった。そして、常に新しい時代を作ってきたのは、時代の敗者であった。・・・敗者たちが逆境を乗り越え、雌伏の時を耐え抜いて、大逆転劇を演じ続けてきた・・・逃げ回りながら、追いやられながら、私たちの祖先は生き延びた。そして、どんなに細くとも命をつないできた。私たちはそんなたくましい敗者たちの子孫なのである。(同pp.209-211)


仮構〔神学〕の力

2019-07-23 23:00:21 | 現代思想
「「仮構fabulation」・・・の概念は、・・・・アンリ・ベルクソンにあっては、人間が社会的紐帯の解体[ゴロンとした世界]に抗って宗教的な絆を構想する幻視能力[まさに神学]であり・・・ドゥルーズが仮構と呼ぶものは、・・・思考や観念や感覚の不可逆の解体のなかで、それらをいびつなままに繋ぎとめ、それらにまがいものの絆を与えることで、かろうじて崩壊に抗う「行為acte」である。ドゥルーズはこれを「カオスに抗する闘い」と呼ぶだろう。」(小倉拓也「老いにおける仮構ードゥルーズと老いの哲学」『atプラス30号』,pp.68-69)