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戦間期の思想

現代思想に係る引用と私的メモ

ドゥルーズのプラトン主義批判

2019-07-23 21:10:06 | 現代思想
「『批評と臨床』(1993)のなかで、ドゥルーズはプラトン主義をふたたび狂気との関係から批判している。プラトンの『パイドロス』では、神々の言葉の吹き込みによって生じる「神的な狂気」と、神々とは関わりのない人間的な狂気である「病気としての狂気」の区分が扱われているが、前者は詩やその他の芸術作品をうみだす価値のあるものとされるのに対して、後者(てんかんや酒狂がそれにあたると考えられた)は価値のあるものとされていた。ドゥルーズは、狂気の二分法を反転させ、むしろ、神々によって支えられた前者の狂気こそが「病気としての狂気」であるとする。それは、そのような狂気は、自らが神々(=父)によって裏打ちされていることを主張し、「純粋で優勢だと自称する」狂気(すなわち思い上がった狂気)だからである。反対に、神々(=父)によって裏打ちされていない私生児的な狂気は、さまざまな支配の下でも絶えず動きまわることのできる狂気であり、この狂気こそが「健康としての狂気」なのだとドゥルーズは主張する。ここで彼が述べているのは、垂直方向のプラトニズムはプラトンがいうような「神的な狂気」ではなくむしろ「病気」に関わるものであり、そこから逃走する反-垂直方向の狂気のあり方こそが「健康」に関わるという、水平方向の精神病理学の教えではないだろうか。」(松本卓也「水平方向の精神病理学にお向けて」『atプラス30号』,p.46)

垂直方向とは「与えられる」か「与えられないか」の二者択一であり、水平方向とは、「与えられる者」と「与える者」の入れ替わりのことである。

統合[全体化・普遍化]の暴力について

2019-07-22 10:40:48 | 現代思想
ここにも「存在・神学」という基本構造が見てとれる。この構造は断層として維持されねばならない。

「アドルノから見れば、近代社会が夢見た階級なきインテグレーションは、まさにアウシュヴィッツのガス室で実現することとなる。なぜならそこではユダヤ人という形式的同一性[普遍]によって、すべての個性的差異が抹消[解消]されるからである。
 「人種抹殺こそは絶対的な統合である。・・・純粋な同一性とは死であるという哲学的命題が正しいことを、アウシュヴィッツは保証している。」・・・」
(三島憲一『戦後ドイツ』岩波新書,1991年,p.130)

「彼らは歴史の進歩の思想を放棄し、その意味では絶望しながらも、希望を捨てない。歴史において理性は実現しなかった。むしろ認められるのは、理性の破壊された断片でしかないが、その断片に目を凝らし、理性の痕跡を辿ろうとする。それによって絶望した者こそがもつ希望を、絶対に実現することのない希望を確認する・・・」(同p.151)

「絶望しながらも、希望を捨てない」という困難な営為[禁欲]を彼らは自らに課した。ベンヤミンなら「希望なき人々のためにのみ、われわれには希望が与えられている」と言うだろう。

「存在・神学」4

2019-06-26 22:38:47 | 現代思想

【グノーシス主義】
「なぜ肉体が魂を守り育てるための住まいとして表象されなかったのか。現実世界以外の居場所という、本来あり得ない空間を作り上げるためには、そしてそのあり得ない世界への正当な市民権を主張するためには、現実世界の方が魂を暴力的に追放した、だから魂は無実・無垢・イノセントだというイメージが必要なのだろうか。」(山内志朗『新版天使の記号学』岩波現代文庫,pp.142-3)

それでも魂は肉体に囚われているのであろう。魂の本来の場所から追放されて久しく、自分の無垢さえ忘れ現実世界に留まっているということであろうか。

「存在・神学」3

2019-06-23 21:05:19 | 現代思想
神学の場所はいつの時代も<欠如>が書き込まれる場所であろう。
例えばかってあったはずの<享楽>であり、<母>からの呼びかけがあった場所であろう。
もはやその呼びかけは聞こえなくなって久しいのである。
この<欠如>の場所にあるのはおそらく<他者>である。確かに最初の<他者>は<母>であったのだから。
しかし今やその<他者>は、<私>の<欠如>を埋めてはくれない。
ある種の取り違えによって主・客は入れ違っているのである。
<他者>が<私>の<欠如>を埋めるのではなく、<私>は<他者>の<欠如>を埋めるものとして存在するのである。
大人になるということはそういうことである。



「存在・神学」2

2019-06-18 18:53:37 | 現代思想
世界が何であるか、世界をどう説明するか(存在論)、その世界のなかで私に救いがあるのか(救済論・ヘブライズム)
世界を説明するためには俯瞰的に語る位置(メタ視点)を獲得しなければならない。

「「脱構築」もまた、メタレヴェルの視点を要請する。そして主体がその語る位置をメタレヴェルに繰り上げるとき、下位のレヴェルはそっくり一網打尽にされてしまう。メタレヴェルに語るということの欲望は、所有の欲望にほかならない。」(斎藤環『文脈病』,p.394)

プラトンの「イデア」、カントの「超越論的主観」、フロイトの「無意識」、ラカンの「現実界」などなど。特権的な立ち位置(メタ視点)を占めること、近代的「主体(主観)」がそうであるように、それはある種の(天才の)思い上がり、傲慢なのである。

「「私とは何か」とか「人は何のために生きるか」という問いに答えがあってはならない…<私>が<私>であることの本質がこれまでの世界の過程の中で書かれてきたことも説かれてきたこともない。したがって万巻の書を読もうと、それが書かれてあることはあり得ない。たとえ、神の意向を書いた本がこの世にあるとしても、そこに書き込まれてあることはない。それは確かなことだ。」(山内志朗『新版 天使の記号学 ~小さな中世哲学入門~』岩波現代文庫,2019年,p.188)

答えがあるということは、それ以外の回答はあり得ないということになる。それ以外の存在は許されないという恐ろしいことが言われているわけだ。また、必ずそれによって充足されることで、応答されるということ、他者に応答することの<その人性>のようなものが否定されることに等しいと言わざるをえない。