my intention and the result
息子をもっと愛したいと思う。
息子の今を見て
息子のあるがままを愛で
かわいい
たのしい
いとしい
そういう感情でいっぱいの空間で過ごしたい。
それが私の意図。
そして
好きな人と好きな時に好きな場所で心地よく過ごす。
これが私の人生の意図。
心地よい育児を邪魔してるもの。
それは私のエゴ、見栄。
子を”デキル子”にして自慢したい。
自慢の息子、と呼びたい。
自慢の息子さんね、と言われたい。
そんな見栄。
言葉にすると最低。
だけど俯瞰すると普通の感情かもしれない。
自分の子に立派になってもらいたい。
そう思う親は多いのでは。
けど、その見栄のせいで私の日々の心地よさが阻害されるのは本末転倒です。
貰えるかわからない一瞬のご褒美のために何かを我慢するのは不機嫌の元です。
長野に行きたくて行きたくて異常な欲求なので
自分なりにその欲求の中身を因数分解してみた。
長野に求めるもの。
それは自然。気持ちいい気温、空気。鳥の声。
プラス、おいしいごはん。
自然の中で人と繋がりたい、のかもしれない。
(人との繋がりの部分は妄想だけど)
そう思って近所の森のようちえんを検索し始めた。
長野の自然の様にはいかないけれど、似たような環境で育児している人と話したい。
話したら私が煮詰まっているものが少しほどけるかもしれない。
HELPを出そう。
もっと育児を楽しみたいのに、できない。その解決策をもっている人がいるかも、と思った。
今週申し込んで、金曜日に体験に参加することができた。
今年で50年続くというその団体は自主保育グループという形態の組織だった。
母達が連携しあって保育する。公園での活動を見守る。
たまたまその日は私が好きな公園での活動だった。
家や保育園では一人遊びする息子も、屋外だと基本的に私の手を離さない事が多い。
今回もほとんど「ママ、手」と言って指をぎゅっと握って離さなかった。
普段なら、ずっと歩幅を合わせて息子の散策に付き合わなければいけない事にすぐ疲れるけど
今週は何故か以上に体調がいい。(前日あまり眠れなかったにも関わらず!)
産後1年くらいの、ばりばりジムで体を動かしていた時期くらい体調がいい。
なので肉体的には苦痛ではなかった。
息子とちょうど同じ月例の子はいなくて、
みんなちょっと大きいか、ずいぶん大きいか、ちょっと小さいか。
参加しているお母さんたちみんな穏やかそうに見えて
その波動に感化されてか私も穏やかな母だった。
いや、自然の中って制限やルールが少ないんだ。
ダメって言う場面がほとんどない。
その辺の木の棒をひろってもいいし、階段を上ったり下りたりしてもいいし
カエルを捕まえてもいいし、お弁当のおにぎりを母の分まで食べてもいい。
行儀よくしてなきゃとか
座ってなきゃとか
あれに触らないでとか
そういうことがほとんどない。だから精神的に穏やか。
そして2人きりで公園に行った場合と違って、ゆるく大人同士のコミュニケーションがある。
本当にゆるくだけど、同じく子育てをしている者同士の繋がりを感じる。
息子は好きな事をしているだけなのでずっと機嫌がいい。
最後お弁当を食べ終わり、眠くもなってきたころに代表者のお話を聞かなきゃいけなくて
息子が「こっち来て」というのを断らなければならなかった時には機嫌を害していたけど。
週2回、ずっと参加し続けられる自身は全くないのだけど
この自由な感じ、自然な感じ、ゆるい感じ、すごく良いなと思った。
そして驚いたのが、今朝。
朝息子の寝ている寝室に迎えに行って(2日前から2階の部屋で寝るようになった)
ただいつも通り「ごろーん」「ねんね~」「ママ」「ねんね~て」などと言ってごろごろしている息子に
愛しさが溢れてきた。
かわいい!かわいい!と思わず声に出して顔をなで回していた。
「大好き」と私が寝る前に息子に伝えるのは、意識してそうしているのであって自然発生的なものでは決してない。
感情がこもっていないことさえあった。
なのに、今朝は自然と「大好き!」と言いながらハグしていた。
そして一日中それは続いた。
少し遠出してちょっとした娯楽施設?テーマパーク?に行って
息子が号泣し始めても動じないし
終始私は機嫌がよかった。
疲れて帰って
息子は少し昼寝してしまって元気で
夫は眠そうにしているので私がワンオペを引き受けたのだけど
その間も苦痛に思うことなく時間を過ごした。
思えば昨晩も、ブロックを高く積もうとして奮闘した息子が
何度も何度もあきらめずにタワーを積んで、崩れてを繰り返し
最後泣き出してしまったが
「悔しかったね、頑張ってたの見てたよ。」と代弁・肯定が自然とできたし
泣きを恐れなくなっていた。堂々と泣かせていた。
今までは泣きが怖くて、ぐずりが怖くて、
すぐハラハラしてあやしたり気分をそらしたりしていたのに。
この心境の変化が森のようちえん由来のものだとしたらすごい。
知育や幼児教育やモンテッソーリ、ドッツカード。
そういうものはこちらが息子に何か素材やお題を提供して
「できた」「できなかった」「興味を失った」「集中した」「しなかった」
そういう二元的な価値判断しかできなかった。少なくとも私は。
常に正解を欲してしまうし、正解がある気がするし。
「ここで開いた差は縮まりませんよ」という呪いの言葉が私を縛る。
公園の中は何も正解がない。
というか全部が正解である。
元気に歩いて、走って、楽しんでいたら花丸。
価値基準があふれる世界から一瞬私を連れ出してくれた、ように感じる。
息子が笑顔で好きな事をしている、それだけでかわいい。
読まなければいけない課題絵本もない
やるべき手指を使う微細運動もない
前頭葉を使う粗大運動も、ぶらさがりも
フラッシュカードもない。
指針が何もないことが不安で幼児教育にすがった。
優等生だった私は課題をこなせば良いんだと安堵した。
やれば結果がでると保証されているような口ぶりに
学生時代の勉強を重ねた。
努力すれば、実る。
けどその努力の過程が楽しいものじゃなかったら
それはもう私の世界には合わないもののはずじゃん。
息子が楽しんでいるかどうかはもちろん大前提。
私も楽しくないと、だめ、ぜったい。
母は自由に楽しく育児します。
それに振り回される旦那さんは少しかわいそうだけど
面白いジェットコースターだと思ってアトラクション形式で面白がってくれると幸いです。
行きすぎたら注意してくれるから、大丈夫。
大きく道は外さない。
いつまでこのブームが続くかわからない。
赤ちゃんがまた爆誕したら心身ともに疲れて公園に行ってる余力が無くなりフェードアウトしそうな気もしてる。
ああ、私はひとつのことを突き詰めることができない。
故に深い中の友人が増えない。多くない。
けどそれが私。
やりたい事がころころ変わって、色んなものを楽しめるのが私。
今の脳内は森の幼稚園、長野、楽しい育児で占められている。
きっと来月にはまた変わってる。
意図を持てば、結果が変わる。
長野に母子旅したい、なんて思っちゃってる。できるかな。しちゃおうかな。
息子をもっと愛したいと思う。
息子の今を見て
息子のあるがままを愛で
かわいい
たのしい
いとしい
そういう感情でいっぱいの空間で過ごしたい。
それが私の意図。
そして
好きな人と好きな時に好きな場所で心地よく過ごす。
これが私の人生の意図。
心地よい育児を邪魔してるもの。
それは私のエゴ、見栄。
子を”デキル子”にして自慢したい。
自慢の息子、と呼びたい。
自慢の息子さんね、と言われたい。
そんな見栄。
言葉にすると最低。
だけど俯瞰すると普通の感情かもしれない。
自分の子に立派になってもらいたい。
そう思う親は多いのでは。
けど、その見栄のせいで私の日々の心地よさが阻害されるのは本末転倒です。
貰えるかわからない一瞬のご褒美のために何かを我慢するのは不機嫌の元です。
長野に行きたくて行きたくて異常な欲求なので
自分なりにその欲求の中身を因数分解してみた。
長野に求めるもの。
それは自然。気持ちいい気温、空気。鳥の声。
プラス、おいしいごはん。
自然の中で人と繋がりたい、のかもしれない。
(人との繋がりの部分は妄想だけど)
そう思って近所の森のようちえんを検索し始めた。
長野の自然の様にはいかないけれど、似たような環境で育児している人と話したい。
話したら私が煮詰まっているものが少しほどけるかもしれない。
HELPを出そう。
もっと育児を楽しみたいのに、できない。その解決策をもっている人がいるかも、と思った。
今週申し込んで、金曜日に体験に参加することができた。
今年で50年続くというその団体は自主保育グループという形態の組織だった。
母達が連携しあって保育する。公園での活動を見守る。
たまたまその日は私が好きな公園での活動だった。
家や保育園では一人遊びする息子も、屋外だと基本的に私の手を離さない事が多い。
今回もほとんど「ママ、手」と言って指をぎゅっと握って離さなかった。
普段なら、ずっと歩幅を合わせて息子の散策に付き合わなければいけない事にすぐ疲れるけど
今週は何故か以上に体調がいい。(前日あまり眠れなかったにも関わらず!)
産後1年くらいの、ばりばりジムで体を動かしていた時期くらい体調がいい。
なので肉体的には苦痛ではなかった。
息子とちょうど同じ月例の子はいなくて、
みんなちょっと大きいか、ずいぶん大きいか、ちょっと小さいか。
参加しているお母さんたちみんな穏やかそうに見えて
その波動に感化されてか私も穏やかな母だった。
いや、自然の中って制限やルールが少ないんだ。
ダメって言う場面がほとんどない。
その辺の木の棒をひろってもいいし、階段を上ったり下りたりしてもいいし
カエルを捕まえてもいいし、お弁当のおにぎりを母の分まで食べてもいい。
行儀よくしてなきゃとか
座ってなきゃとか
あれに触らないでとか
そういうことがほとんどない。だから精神的に穏やか。
そして2人きりで公園に行った場合と違って、ゆるく大人同士のコミュニケーションがある。
本当にゆるくだけど、同じく子育てをしている者同士の繋がりを感じる。
息子は好きな事をしているだけなのでずっと機嫌がいい。
最後お弁当を食べ終わり、眠くもなってきたころに代表者のお話を聞かなきゃいけなくて
息子が「こっち来て」というのを断らなければならなかった時には機嫌を害していたけど。
週2回、ずっと参加し続けられる自身は全くないのだけど
この自由な感じ、自然な感じ、ゆるい感じ、すごく良いなと思った。
そして驚いたのが、今朝。
朝息子の寝ている寝室に迎えに行って(2日前から2階の部屋で寝るようになった)
ただいつも通り「ごろーん」「ねんね~」「ママ」「ねんね~て」などと言ってごろごろしている息子に
愛しさが溢れてきた。
かわいい!かわいい!と思わず声に出して顔をなで回していた。
「大好き」と私が寝る前に息子に伝えるのは、意識してそうしているのであって自然発生的なものでは決してない。
感情がこもっていないことさえあった。
なのに、今朝は自然と「大好き!」と言いながらハグしていた。
そして一日中それは続いた。
少し遠出してちょっとした娯楽施設?テーマパーク?に行って
息子が号泣し始めても動じないし
終始私は機嫌がよかった。
疲れて帰って
息子は少し昼寝してしまって元気で
夫は眠そうにしているので私がワンオペを引き受けたのだけど
その間も苦痛に思うことなく時間を過ごした。
思えば昨晩も、ブロックを高く積もうとして奮闘した息子が
何度も何度もあきらめずにタワーを積んで、崩れてを繰り返し
最後泣き出してしまったが
「悔しかったね、頑張ってたの見てたよ。」と代弁・肯定が自然とできたし
泣きを恐れなくなっていた。堂々と泣かせていた。
今までは泣きが怖くて、ぐずりが怖くて、
すぐハラハラしてあやしたり気分をそらしたりしていたのに。
この心境の変化が森のようちえん由来のものだとしたらすごい。
知育や幼児教育やモンテッソーリ、ドッツカード。
そういうものはこちらが息子に何か素材やお題を提供して
「できた」「できなかった」「興味を失った」「集中した」「しなかった」
そういう二元的な価値判断しかできなかった。少なくとも私は。
常に正解を欲してしまうし、正解がある気がするし。
「ここで開いた差は縮まりませんよ」という呪いの言葉が私を縛る。
公園の中は何も正解がない。
というか全部が正解である。
元気に歩いて、走って、楽しんでいたら花丸。
価値基準があふれる世界から一瞬私を連れ出してくれた、ように感じる。
息子が笑顔で好きな事をしている、それだけでかわいい。
読まなければいけない課題絵本もない
やるべき手指を使う微細運動もない
前頭葉を使う粗大運動も、ぶらさがりも
フラッシュカードもない。
指針が何もないことが不安で幼児教育にすがった。
優等生だった私は課題をこなせば良いんだと安堵した。
やれば結果がでると保証されているような口ぶりに
学生時代の勉強を重ねた。
努力すれば、実る。
けどその努力の過程が楽しいものじゃなかったら
それはもう私の世界には合わないもののはずじゃん。
息子が楽しんでいるかどうかはもちろん大前提。
私も楽しくないと、だめ、ぜったい。
母は自由に楽しく育児します。
それに振り回される旦那さんは少しかわいそうだけど
面白いジェットコースターだと思ってアトラクション形式で面白がってくれると幸いです。
行きすぎたら注意してくれるから、大丈夫。
大きく道は外さない。
いつまでこのブームが続くかわからない。
赤ちゃんがまた爆誕したら心身ともに疲れて公園に行ってる余力が無くなりフェードアウトしそうな気もしてる。
ああ、私はひとつのことを突き詰めることができない。
故に深い中の友人が増えない。多くない。
けどそれが私。
やりたい事がころころ変わって、色んなものを楽しめるのが私。
今の脳内は森の幼稚園、長野、楽しい育児で占められている。
きっと来月にはまた変わってる。
意図を持てば、結果が変わる。
長野に母子旅したい、なんて思っちゃってる。できるかな。しちゃおうかな。
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