如意吉祥

祀り継いで千年余にもなるという”わしらが郷の大日如来”地縁が、或いは地縁を育んだ象徴・・・に思いを馳せて

続 如意吉祥 大日如来

2016-05-24 15:24:23 | 日記

  所在地 島田市岸2012番地 
 縁日 8月15日 2月15日
 
 前編が2万5千字にも及び、オバーフローしましたので、「続 如意吉祥 大日如来」とします。

 現在では、グーグルマップなどという便利なものがあるのですが、この所在地番で検索すると、途轍もなく広い範囲が表示されてしまいますので、島田市岸町412番地、島田信用金庫電算センターで検索し、裏山が大日山です。大清堂と表示される所です。

 前編では、岸の大日如来の由来、私たち地元の人々がどのように守り伝えて来たか、今般の予期せぬ”総代就任”を機に思いを致すのも大日如来のご縁なのでしょう。奇しくも今年は、申年にあたります。羊・申の干支の方々には守り本尊でありますから、とりわけご利益がございましょう。8月15日の縁日には、是非おいでませ、岸の大日如来へ。

 祭の支度と勧進

 8月15日の秋の例祭(夏祭)に向けて、当番組、世話人の皆様ご苦労様です。

 勧進といえば「勧進帳 安宅の関」が思い出されます。義経記では有名な場面ですね。武蔵坊弁慶が白紙の勧進帳を巧妙に読み上げ、その情にほだされた代官が、これは義経主従ではないということにして安宅の関を通過させたという物語です。こういう話は、日本人が大好きです。何度聞いても飽きない。
 ワンパターンが永く続いたのが水戸黄門漫遊記、結末は分かりきっているのですが、いつ印籠が出てくるかにワクワクするのです。

 勧進とは本来の意味は「物乞い」ということなんだろうけども、「おねだり」では気が引けます。酒を「冥加湯」と言い換え、敗戦を「終戦」という類の言い回しでございます。


 勧進の口上 岸大日山夏祭り ご献発、ご献灯、ご献金のお願い
 
拝啓
 
 平安時代(900年頃)より、この地域の人たちが一千年余、世の栄枯盛衰を越えて頑なに守り継いでまいりました弘法大師作と伝えられる大日如来の秋の例祭が8月15日例年通り執り行われる運びとなりました。この大日如来は”子供の守り本尊”と言い伝えられてもおります。
 
 この祭典では、花火を奉納し、提灯を掲げて心願が成就し諸難が消滅するよう主催者、参拝者ともども”如意吉祥”を祈念いたすのでございます。

 つきましては、この祭典を更に盛大なものとして頂きたく、みなさまのご献発、ご献灯、ご献金を賜りたくお願い申し上げる次第でございます。

 尚、煙火打ち上げに際し、番付表を作成し号種、芳名を呼称披露しつつ献発致します。併せて献金者の芳名も記載し、町内全戸と勧進者に配布して、そのご厚意に応えます。また献灯された提灯は芳名を記し参道に掲げます。
                                                      敬具
 平成28年5月吉日

 島田市岸町 岸大日山総代会 一同


   
 大清堂
 この建物は平成19年4月 岸町出身者である河村 清氏の寄進により建築されたものです。石碑を建てそのご厚意を末永く顕彰しております。この地に生まれ暮らす者として心より感謝申し上げたい。
 現在、この地を離れて三重県にお住まいの方ですが、大日山は、幼い頃、その境内でよく遊び親しんだ場所として、記憶に刻み込まれた”心のふるさと”とのことです。いつまでも、ご健勝であられますように。
 

 
  
故原田昇左右衆院議員が建てた碑(衆智開天地と蒙額されています。多くの人の智恵が天地を開くということなんだろう。志太平野開拓の歴史に心寄せたものか?。背面に文章が勒されているのですが、急傾斜地に建てられていることと、刻みが浅くて読めません) 次の画像は、本堂再建当時に、野ざらしだった石碑をまとめて屋根をしつらえたもの。神猿(まさる)あり、ボケ封じ地蔵ありです。拝む対象には事欠きません。境内には、この他に、仁王堂の西側に二基、山腹に光つ安全を祈念する目的で建立された観音像があります。

 今日は6月4日、来る8月15日の秋の例祭のための勧進にお応えくださった方々、本当にありがとうございました。心よりお礼申し上げます。

 今年はどうも天候不順ですね、一昨日でしたか、関東では霜が降りたとかニュースで流れておりました。冷夏が心配されます。「寒さの夏はおろおろ歩く」などということになりませんように。

 ”雨にも負けず” 宮沢賢治詩
 
 雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫なからだをもち 慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている 一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ あらゆることを 自分を勘定に入れずに よく見聞きしわかり そして忘れず 野原の松の林の陰の 小さな萱葺きの小屋にいて 東に病気の子供あれば 行って看病してやり 東に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい 日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず そういうものに わたしはなりたい

 ・・・・・まあねえ、こういう人になっちまったら、たいへんである。親としても心配になりましょう。しかし、”こういう人の心根”の”万分の一”は持ちたいものだと思います。特に政治家には、求められる素養ですよねえ。



  
 この2枚の画像はグーグルマップを写したものです。1枚目が志太平野、2枚目が大津谷川、伊太谷川の合流点の写真です。

 前編で書き残したことを追稿しておこう。
 大井川の水かさが増した時には、神座あたりから勢いを増した水流は天然の堤防、牧之原台地(権現原)で向きを変え、白岩寺目がけて蛇行します。これは地勢的に避けられない自然現象で、更に大津谷川と伊太谷川の濁流が合流するとなれば、もうお手上げです。即刻逃げ出すしか手段がない。これが古来、この地に住む人の日常でありました。どれほど洪水とは無縁の日常でありたいと願ったことでしょう。現在に至る治水設備が完成したのが昭和7年でした。
 私は、昭和24年生まれで、平成28年現在時点で67歳ですが、昭和34年或いは35年でしたか、栃山川が決壊して、東光寺谷川右岸からJR東海道本線の間の地域で床上浸水したのが記憶に残っています。国道一号線が川のようになりました。阿知ケ谷の材木屋の丸太が民家に突き刺さっていたりしました。
 それと、昭和49年でしたか、東光寺谷川が氾濫して、その右岸では床上浸水に至った所もありました。想定外の豪雨もあり得ることを頭にいれて、個々に問題意識をもって、周囲の河川をチェックしてみることも肝要かと思います。
 私が、問題だと思うことは、大津谷川と伊太谷川の合流角度が大き過ぎるのではないかということです。45度近くある。阿知ケ谷側に越流する危険性大であると案じられます。・・・・・で、どうなんでしょう。浜岡の原発に衝立を構築する勢いで白岩寺からせめてJR東海道線の区間だけでも堤防を1m程度かさ上げしてもらえないもんでしょうかねえ。これは2級河川だから、管理者は静岡県ということになります。


  今日は平成29年5月27日、67歳最後の日。
 一年以上ブランクが開いてしまいました。
 想えば、昨年の夏まつりは実に散々な目に遭いました。いざ花火を奉納しようという時に突然の局地的な集中豪雨に見舞われ、すべてが水の泡となりました。奉納花火は1週間後に打ち上げましたが、祭典関係者諸氏には2倍3倍の御苦労をお掛けしてしまったのは元より、参拝を予定していた方々もあの豪雨では如何ともし難いものでありました。今年は是非とも天気に恵まれますよう願を掛けよう。

 回覧の草稿
 

 岸町の皆様へ                            平成29年4月吉日

 「目に青葉 山ほととぎす 初がつを」 すがすがしい時節が到来しております。町内の皆様におかれましては、益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。
 平成29年度初頭にあたり、大日山の運営費につきまして昨年同様ご負担いただく件、あらためて、宜しくお願い申し上げます。

                                                 大日山総代会・世話人会

 津々浦々で、過疎化が問題視される昨今でありますが、幸い岸地区は多くの若いカップルが転入し新居を構え、それに伴い小中学校に通う子供たちも俄かに増えました。地域にとって、実に有難いことだと思います。

 以下余談ですが、・・・・隣の家へ行って、「アンタの土地に俺の家の”地の神さん”の祠を建てさせろ」などと言えば、「オマエ、気は確かか?」と刃傷沙汰に至るかもしれません。
 しかし、300年程昔、田中藩主は掛川藩領地「岸村」に田中城裏鬼門封じのためと称し、十年余手間暇かけて大日堂宇を建立し、「川原」にあったとされる大日如来を祀り上げました。それ程までにして、田中藩主は何を願掛けしたのでしょうか。 大井川下流域の膵炎開発を目論む田中藩にとって、最も重要なことは大井川の氾濫を根本でくい止める策を講じる事でした。要は白岩寺の麓から頑強な大津谷川の堤防を構築し、できるだけ南で大井川に合流させることに尽きます。併せて、灌漑用水の取り入れ口と水路を造ることでした。大井川流域の水田開発をするうえで、私たちの郷土は大井川の岸辺ですから、治水事業の前線基地だったと思います。
 この治水事業は何度も失敗を繰り返し、ほぼ現在の姿に完成されたのは、実に昭和7年のことです。大日堂宇建立後220年の歳月と徒労の果てに歴代の田中藩主や志太平野の住人が願ってやまなかった栃山川治水システムが完成しました。
 大日如来のお慈悲でしょうか。この事業の竣工を旧田中藩主の末裔、本田正復「ほんだまさもり」氏に見届けさせました。彼は皇室の祭祀を司る部署の次長だった人ですが、記念碑を蒙額し竣工を見届け、昭和8年没しました(享年62歳)。
 岸の大日如来は、平安初期に開山された真言宗を布教するための寺「竜雲山瞰川寺」の本尊でありました。「子供の守り本尊」とも言い伝えられています。開祖は空哉律師。この寺は岸山にあって、大井川を眺望していたと思われます。
 鎌倉室町時代にかけて駿河・遠江は守護大名今川氏の知行地でした。当然、当地も今川領でありました。ところが、1560年6月、桶狭間で今川義元は織田信長の不意打ちに遭い絶命しました。つぎに起こるのは当然ながら、今川領の分捕り合戦です。この事変で、岸村は遠州の武将の支配地となりました。時を同じくして、遠州可睡斎の末寺として龍江院が開山され現在に至っております。
 瞰川寺は廃寺・・・・で、本尊大日如来像はどうなったのか?。その答えは、「川原の祠に安置された」です。現在、「中川原」という地名が残っていますが、そのあたりのお堂から、現在の場所に移されたのでしょうかね。近くに産婦人科医院もでき、日々新しい命が産声を上げています。「子供の守り本尊」の真骨頂といったところでしょうか。(余談が長くなりました68歳翁敬白)

 町内向けの回覧は拙文であっても、これでご勘弁願おう。


 次に一般向け勧進文を草稿しよう。岸の大日如来をアピールするためその縁起を簡潔に織り込んだものにしたいと思うのですが、短い文章に纏めるのは一苦労。


 岸の大日如来縁起(田中藩と大井川)

「岸の大日如来」は平安初期に開山された真言密教の寺「瞰川寺」の本尊でありました。岸山に在って、広く大井川流域を眺望し、地域の安寧を見守るものでありましたが、この寺は現在では存在しておりません。しかし、本尊だけは千百年余に亘り、当地の人々が「かけがえのないもの」として、祀り続けて参りました。

 江戸時代に至り、徳川幕府は水田開発を奨励しました。このような時節、弘法大師作と伝えられる左様な大日如来が岸村に在ることを知るに至った田中藩主は、1713年、岸山の登り口に、大日堂、鐘楼、仁王門を鎌倉時代様式で建立し、この大日如来を安置しました。その志は、大井川下流域の水田開発の成就でありました。事業完遂を期して、堂宇一式を建立して「大日如来に事業成就の願」を掛けたのです。
 往古より、大井川は有数の暴れ川で、豪雨ともなれば、その濁流は白岩寺山目がけて押し寄せました。このような地勢故、下流域を開発するには、白岩寺山の麓から大津谷川の堤防を頑強に築き、できるだけ南で大井川に合流させる。併せて、灌漑用水の取り入れ口を設ける。これに尽きるのですが、言うに易く、行うに難しでありました。暴れ川相手のこの事業は幾度となく失敗を重ね、徒労の果て、220年の歳月を掛け、昭和7年(1933年)に至り、ほぼ現在の姿に治水システムが完成しました。
 
 栃山川の起点にあたる水門の畔に、栃山川放水路竣工を顕彰する碑が建てられていて、読むほどに、往時が偲ばれます。この碑を蒙額したのは、本多正復(ほんだまさもり)という人です。彼は、田中藩主の正統な末裔で、廃藩置県の時の藩主の孫にあたります。また「掌典次長」という皇室の祭祀を司る部署の次長を務められました。

 昭和7年、彼は歴代田中藩主が夢にまで見た治水システム竣工に立ち会い、確と事業成就を見届けました。そして、翌、昭和8年、享年62歳で没しています。
 この数奇な巡り会わせは、大日如来が、堂宇を建立した田中藩主の大恩に報いた証だろうと「岸大日山」を護持する者としては、信じるところであります。

 
 花火御献発 御献灯 御献金のお願い
 
 8月15日は岸大日如来の縁日で、祭典と併せて、門前に提灯を掲げ、花火を奉納し、大井川流域の安寧、善男善女の心願成就、諸事如意吉祥を祈念致します。是非、足をお運びいただき、大日如来に願い事をお告げ下さい。きっと良い兆候が発現することでしょう。
 この日は、月遅れの盂蘭盆に終戦の日が重なり、慰霊と鎮魂ムードに包まれます。その夕べに奉納される花火の御献発、提灯の御献灯、御献金を賜り、この祭典を一層盛り上げていただきたく、切にお願いするもので御座います。


                       島田市岸 大日山総代会一同




 6月2日に花火の献発、献金の結果をとデータを世話人会に提出。6月11日には、花火の打ち上げの番付表の下書き作成、献金・献灯者のリストも併記。21日にはゲラ刷りのチェックと。祭りの準備も佳境に入って来ました。


 8月15日縁日の花火大会で、最後に献金者御一同に奉納して頂く「大スターマイン」への添え書きを書くのも総代会の役目だそうで、頭も痛むのであるが、書けぬともいえまい。


 大スターマイン添え書き口上の草稿


 襟元には一条の汗、豊穣の秋へと心は弾む

 知るも知らぬも集い来て、袖擦りあうも如来のご縁、和気藹々の大日の宴

 愈々、大スターマイン登場、善男善女の願いを乗せて、眩しく咲き誇れ

 心願成就の華よ咲け、大日如来の天空に


 
 爺婆達が稚児なりし頃遠き途を引来奉じし鐘楼の鐘
 
 今や孫等が群れ打ち鳴らす

 その響き安寧の調べを奏で涼風に乗りて心地好し

 大日如来がお膝元健やかに育て子宝達よ

 
 ・・・・私などが書いてもこんなとこ、勢いはあってもあってもセンスは無いねえ。

 
 その他、6月中に行ったこと。
 花火打ち上げ場となる岸町スポーツ広場の使用許可をロクティーに申請すること。
 花火奉納当日、スポーツ広場周辺道路の車両規制を行うための道路使用許可申請と、通行規制の標識4枚の借用申請
 
 月が替わったら、消防団へ奉納花火大会への消防車等の派遣のお願い。コミュニテー会長へアンプ等の機材の貸出依頼。交通安全部長へ当日の交通整理等の協力依頼等々しなければならない。それに祭りの準備から片付けまでの間責任賠償保険と障害保険に加入するのも忘れてはなるまい。


 今日6月15日現在で、本堂の外装の塗装工事が完了する。祭りに間に合うように段取りできて良かったと思います。追って町内に報告の回覧も回さねばなるまい。


 町内への回覧状の下書き

 回覧
岸町の皆様へ
 日頃より、大日山の運営に対しご協力いただき有り難う御座います。
 昨年より、本堂の外装全体と内装の一部につき、再塗装を施す件、御周知頂いている通りでありますが、今般、その作業が完了致しましたので、報告申し上げます。シリコン系の塗料を使用しましたから、15年程度の耐用年数が見込めるものと思います。
 また、この工事に伴い、屋根瓦の一部から雨漏りしていることが判明しましたので、塗装作業の足場がある内にという判断から、応急的な処置として修繕致しました。この原因は建設時に装填されていた防水のための漆喰が喪失してしまったことと、経年による瓦のずれによるものでありました。内部塗装のめくれや天井の絵の傷みは、雨漏りが原因だったかもしれません。
 何はともあれ、梅雨に入る前に一連の作業が終了し、安堵しております。これで、大日堂の装いも新たに、来る8月15日の秋の例祭・奉納花火大会が迎えられます。
 尚、この工事費用につきましては、前任総代から引き継ぎました河村 氏から頂いた浄財と一部総代会の会計で賄わせて頂きました。
平成29年7月吉日

 岸大日山総代会

 以下、余談でありますが・・・・
 昭和30年のことだったと思いますが、敗戦後間もない時期で、日々の生活も楽ではなかったにも拘わらず、私たちの親或いは祖父母達は、戦時中に供出され失なった鐘楼の鐘を何とかしたいとの思い篤く、総意として新しく鋳造して、奉納したのが、現在の鐘です。
 これを奉納した際の演出がとても工夫を凝らしたものでありました。岸の大日如来が子供の守り本尊という伝承を踏まえてか、分かりませんが、児童達にも重要な役割を与え、村挙げての行事に参加させたのです。稚児装束を纏わせ稚児行列に仕立てて、島田駅から遠き道のりを遥々と、鐘を乗せた荷車の綱を引かせて運ばせました。行列に加わった児童達には、歩き疲れてへとへとになった記憶と同時に、この釣鐘に格別な思い入れが残りました。
 爺、婆の域に達した今、孫、曾孫と同じ年端の子供達が群れて、この鐘を打ち鳴らす様を観ると、素直に「有り難いこと」と胸が熱くなります。歳を重ねると、些細なことにもセンチメンタルになるのは致し方なしとしても、この情緒はどこから湧いて来るのかと思いを巡らすと、あの時、皆で苦心して歩いた稚児行列に思い至ります。鮮明に記憶が蘇ります。一種の条件反射なのか、幼き頃の姿を彼らに重ねて観ている。だから殊更、愛おしいと感じるのでしょう。
 幼児期の感動や記憶はのちの情緒に強い影響を及ぼすものだと身をもって感じます。ともあれ、一生に一度の稚児行列は貴重な体験でした。
 左様に、梵鐘奉納の儀は有意義なものでありました。今は昔、祖父母達が私達に伝えた心根とは自分たち体験を「子供達と共に致せ」こういうことでありましたか。感謝


 外装塗装工事が完了した大日堂
  

 祭典時の祭壇
 
 祭壇上部中央に逗子が二つ並んでいますが、向かって右側には火災に遭い焼け残った像が、左側には再建の際高野山で入魂された新しい像が納められています。 

 大日堂天井画 島田市尾川 杉山有画伯筆
    

 大日如来写真パネル
 

 このパネルは昭和48年1月9日深夜未明に不審火に遭い焼けてしまった本尊の写真なのか分りませんが、パネル裏側に書かれていることは、重要文化財 木造大日如来坐像 平安時代 信仰 奉納者 藤枝市志太 中村髙文 おそらく昭和になってからの作品だと思うし、この中村髙文という方他界されている可能性の方が多いにしても、末裔の方はきっと居られると思う。藤枝市志太の中村という写真屋さん或いは余程のカメラマニアだった方、見つからないかな。冠を戴いていないけれどもすでに喪失していたんだろうか。

 岸大日山のお札とお守り
 
 2月と8月の縁日にお求め頂ける様々な厄除け開運グッズの一覧

 如意吉祥、これをどう読むか?。私は「にょいきっしょう」でいいのだろうと思っていましたが、僧侶の皆様は「にょいきちじょう」と発せられております。国語の仮名使いとして間違いということでもないし、don't mindとしておこう。

 
 今日は平成29年8月13日、縁日まであと2日。此のところ天気の塩梅が宜しくないので、15日が心配です。
 yahooの天気情報によれば、14日の降水確率は10~20%で曇り、15日が降水確率30%の曇りとなっています。天気のことだから如何ともしがたいのだが、雨だけはご免被りたい。
 「炎照りの時は、オロオロ歩き、寒さの夏は涙を流す」以外のことはできないのであるが、天気に恵まれたいものだ。

 謹賀新年
 謹んで新春のお慶びを申し上げます 島田市岸大日如来共々この一年のご多幸をお祈り申し上げます
 平成三十年元旦

 今年も昨年同様大日山で御籠りをしながら新年を迎えました。これは岸地区の大日山総代六名のお勤めとなっている習慣に沿ったものです。昔は、除夜の鐘を突くために鐘楼を訪れる人も大勢いましたが最近ではめっきり減ってしまいました。時代が変わってしまいましたな。御籠りしていても実に張り合いがありません。

 日本のブラバン女子力について

 今では、中学高校を問わず女の子たちが吹奏楽の主役となってしまった感がありますな。とりわけ九州ではブラバン女子が大活躍しているらしい。ユーチューブには様々な学校の吹奏楽部の映像が投稿されていて私も楽しませてもらって居るのですが、そのジャンルは坐位でのコンクールとマーチングコンクールに2分されているようだ。日本全国にアマチュアの吹奏楽団が幾つ存在しているか知りませんが、切磋琢磨しながら全国大会に出場するのは甲子園並みの難しさだろう。昨年、高校生でこの2部門で全国大会まで行き、2部門共に金賞を獲得した女子高が2校あります。一校は九州福岡の精華女子高、もう一校は熊本県の玉名女子高。名は体を顕わすと言われますが精華は実に華やかな音を出しますし、玉名は磨きに磨かれた玉が出す音といった感がありますな。玉名の女の子たちが楽器に息を吹き込むと木管楽器も金管楽器も素材そのものの音が出てくる。そして音程がぶれないからそのハーモニーは実に聞き心地が良い。
 昨年の課題曲に「春風の通り道」という優しいマーチがあって、金賞受賞校の演奏がユーチューブにアップされているので、聞き比べてみるのも楽しい。曲の主題を風とするか道とするか或いはその情景とするか?。好みの問題でありますが、「この子達、いつの間にか風になっちゃってる」と感じさせるチームはどれかな?。ちなみに2017年金賞受賞チームは精華女子高、玉名女子高、市立柏高、東海大付属札幌高あたりか(ほかにあったらごめんなさい)。

 それともう一つ、これもユーチューブからのネタでありますが、毎年元旦に米国カリフォルニア州パサデナでローズパレードという大掛かりなイベントが行われているという。その中にマーチングバンドの行進があって、米国内外から21チームが招聘されて、その素晴らしい演奏が披露されるのだ。アジア・オセアニア地域で1団体という枠があるそうだが、近年は日本から1団体が選ばれていると聞く。
 今年は京都橘高校が招聘されて、遺憾なくその底力を披露したと思います。

 とりわけ、昨年12月30日に行われたパサデナシティー単科大学スタジアムで行われたエキジビジョンは大変に感動的で印象的なものでした。
 このメンバーの中に左足にハンデキャップのある子がいるのですが、何と主催者は、演技の前にこの子を前に呼んで観衆と共に拍手喝さいをもってこの子を祝福しました。こういう時、日本人としては、「見て見ないふり」をしてくれていれば良いのにという感情がどうしても先に立ってしまう。しかしだね、「叩かなければ戸は開かない」という宗教観を持ち能動的な国民性の彼らからすれば「ハンデをもちながらひたむきに努力している子をヒロインとして拍手喝采し、祝福して何が悪かろう」ということなんだろう。

 何かその秋篠寺(この寺は京都ではなく奈良にあるのか)の伎芸天のような雰囲気のあるドラムメジャーが登壇して演奏が開始されたのですが、この学校のいつもの曲芸のような演技ではなくメリーゴーランドを連想させるようなものでした。とても愛嬌のある演奏でした。ここでは、ほほ笑ましい笑いと拍手が起こりました。この子が2曲ほど指揮をしてドラムメジャーが男性(時期音楽顧問か?)に替って、大人数での立位不動の演奏が始まるとオレンジの恐竜のぬいぐるみが登場し、旗をもってよちよちと尻を振り振り演技しながら隊列の中に入って行ったのですが、途中で躓いて転倒してしまう。すると、空かさず仲間が引き起こしに行き、立ち上がると二人の子に左右の手を支えられながら元の場所に走って戻って来る。ただこれだけのことでしたが、大変に感動しました。・・・・・なるほどね、これが京都橘高校吹奏楽部の答えなんだね。躓いても支えて一緒に連れて行くとね。言葉は無くともよく分りました。
 それから、恐竜のぬいぐるみがもう一頭登場して、昨年6月にパレード招聘の旗を持って来校した会長夫妻にワルツハッピーバースデーのプレゼント。この後はソロあり飛んだり跳ねたりの演奏をして終了。

 もちろんこの演奏は満場の拍手喝采、スタンディングオーベーションで称えられたのですが、その意図するところは深く観衆の記憶に刻まれたことだろう。私にしてみれば、古いパソコンであるがこういう画像が見られてとても良かったと思っています。戦後77年、日米でこのようなデリケートなコラボレーションができるようになったんですね。もう感無量ですわ。

 このイベントに橘高校は2度目の参加ということで、多くの映像が要領よくアップされていて楽しませてもらえる。9キロ?にも及ぶ人垣の中を喝さいを浴びながら隊列を組んで飛んだり跳ねたりしながら演奏して行く、何とも素晴らしい女の子達と12人のガイ達だこと!。

 またベネフィットコンサートのマーチングでも彼女は舞台で仲間と溶け合って自然にフルートを演奏していましたし、坐位での演奏も舞台からはみ出そうなくらいの大人数で重厚で美しい見事な演奏を披露してくれました。京都橘高校吹奏楽部の皆様本当に有り難う。 

  
 大日山新年のお飾り
  

 KK氏の御寄進により新しくなった仁王門周辺のフェンス
     

 KI氏作成の観音像の線香立収納ボックス
 

 大日山総代会より岸町の皆様へ
 謹んで新年のご挨拶を申し上げます
 この一年の皆様方のご多幸を大日如来共々心よりお祈り申し上げます
 お気づきになったかたも居られるかも知れませんが、仁王門の前のフェンスがアルミ製の立派なものに替っています。おかげで、仁王門の美観が良くなったことに加え、境内で遊ぶ子供たちの安全にも資するものだと思います。
 このフェンスは三重県四日市市にお住いのKK氏が御寄進くださったものです。
 KK氏のこれまでの御寄進により、平成19年2月に大清堂も建立され、また昨年の本堂の修繕塗装工事も叶いました。
 このように、いつも大日山をお気遣い下さり多大な浄財を奉じてくださるご厚情に対し、まず町内の皆様にその功績を周知していただくことこそKK氏の御恩にことだと思い報告申し上げます。

 平成16年11月14日に期し大日山御開帳法要が行われました。このときの総代会長だったRO氏は次の御開帳の際、参考になればとその一部始終を映像として記録しました。今般、それをDVD化されたのですが、再生機材が必要とのことで、KK氏に相談したところ、快く大型の液晶ディスプレーを御寄贈くださったとのことです。現在このディスプレーは大清堂にて保管しています。
 来る2月15日の春の祭典の際に、このディスプレーとDVDの映像を広く披露したいと存じますので、是非大日山へ足をお運びくださるようお願い申し上げます。

 境内の西側の山を切り取っや斜面の上部に交通事故による物故者を慰霊すると同時に交通安全を祈念する御影石の観音像が立っておりますが、その線香立を収納するボックスを支える支柱が腐食して折れてしまいました。KI氏にお願いし、ステンレス製の丈夫なものを作っていただいたことも併せてご報告致します。

 平成30年正月吉日

                             岸大日山総代会一同
  

 今日は2月6日、寒い寒いで終わってしまう今日この頃ですが、北米辺りでは氷点下30~40°Cの寒波が襲い凍てついてしまっているようだ。愈々氷河期に突入か?。例年だとこの時期ソラマメやエンドウ豆がすくすくと育つのに、凍りついてしまって全滅です。こんな状況が長引けば、野菜の価格が高騰してしまう。
 この15日は大日如来の縁日であるが、この寒さでは参拝者も減るだろうし、例のDVDのお披露目もどうなることやら、案じられます。

 

 平成30年2月15日、風は強かったものの、昨日までの寒さも和らぎ、とても良いお祭り日和となりました。岸大日如来のお札を貼っておきます。心願成就、諸事如意吉祥となりますように。


 平成31年3月31日大日山総代任期満了。新しい総代に無事申し送ることができてほっとすると同時にとても長く感じた3年間でありました。

 この3年間をサマライズすると、8月の祭典は悉く雨に祟られました。水害に備えろという啓示であるのかも知れません。最近の天候とは、降ればドシャ降り、吹けば暴風と云う具合に極端だから、うかうかして居られません。土砂崩れ、老木の倒木、河川の堤防の決壊などに備えましょう。

    




那智 熊野古道

2016-05-08 02:01:01 | 日記
      
 此処って世界遺産に登録されているんだね。やっぱり記憶に残る名所ですよね。大門坂登り口の二本の大杉(夫婦杉)などまさに神降る巨木というべきものだね。那智の滝も素晴らしい御神体だと思います。これほどに神々しい滝もなかろう。ここを近所の仲間たちと訪れたのが2011年11月、すでに5年近く過ぎようとしている。”歳月は人を待たず”ですな。伊勢志摩サミットが事なきを得ますように。 

雑写画像

2016-05-01 05:58:17 | 日記
       
 長野県千曲市歴史的建造物

     
 信州上田城

   
 小牧歴史記念館


        
 彦根城

   
 岐阜城(金華山)

    
 大垣城

  
 新東名長篠設楽原パーキング

       
 ローズガーデンステーション

       
 ケープ真鶴 小田原城 市営植物園
 
     
 犬山城

        
 松本城   

      
 島田市野田 ばらの丘公園 幾種ものバラが咲き乱れ今が旬 5月14日現在 
 
      
 龍ヶ窪の池 陽に映えてこの世のものと思えないほどのエメラルドグリーンの水(百名水のひとつ新潟県)

     
 吹き割の滝 群馬県沼田市 河床に滝が出来ているのですね。河岸の奇岩の絶壁が絵になりますね。

     
 アカヤシオ(赤八汐)静岡県川根本町大札山 経験豊富なドライバーと一緒に行ってね。道が細くて怖いですから。花を撮影するときは手動でピント合わせができるものでないとダメだね。

      
 見玉不動尊 新潟県中魚沼郡津南町 本堂階段の右側を流れる水がとてもきれいです。しかし、鳥居が前面んに出た組み合わせがなんとも言えませんな。神仏混交。

      
 グリーンプラザ上越 中禅寺湖 竜頭の滝 湯滝 華厳の滝

      
 蜜蜂も案外早くから活動するのですね。

      
 ひなびた古道 小夜の中山 峠の寺、久延寺 夜泣き石 二宮金次郎の像 西行法師句碑

       
 八島が原湿原 長野県八ヶ岳霧ヶ峰 6月初旬では少し早いか

    
 Sunset in waikiki この孫もおおきくなりました

      
 万座 草津 雪の降らない地方の人には雪景色は感動的 ダイヤモンドダスト初めて見ました

        
 山梨県笛吹市 野に咲く花は素朴で可憐ですな。芦川中学校緑の少年少女隊諸君ごくろうさま。
 
       
 静岡県島田市 千葉山智満寺 1200年の歴史を持つという天台宗の山寺、本尊千手観音

   
 静岡県島田市金谷富士見町牧之原公園 栄西禅師像とカタクリの花 4月ごろお茶の郷に行ったら見てね

    
 動物園

        
 忍野八海 この日は曇りだったのであいにくでした。晴れた日が望ましい。
    

如意吉祥 大日如来

2016-04-04 12:57:15 | 日記

島田市岸の大日如来縁日 春本祭2月15日 秋例祭8月15日

   
 大日如来の御真言 オン バザラ ダドバン 

 やれやれ、嵌められちまったぜ!「大日山総代」だとさ。誠に分不相応だと思う。任期3年、この際(きわ)になると、今までの3年とこれからの3年では、”きわどさ”が全然違う。とりわけ、歳はとりたくないものだ。・・・・・

 この画像のふくよかなお姿は、昭和48年1月9日の不審火による火災で焼失した弘法大師空海作と伝えられた大日如来像をモチーフにしたお札である。これは、金剛界の大日如来像で、両手でむすんだ結印は智剣印(ちけんいん)というのだそうな。それと、西遊記の三蔵法師が冠っているような冠が特徴的です。次の画像は大日如来の御真言と岸の大日如来の縁起を勒した石碑。この御真言は臍から脳天に響くように低い声でお唱えください。

 大日如来の由来:おそらく西暦900年頃、弘法大師三代の法孫、空哉律師、密教弘宣流布のため岸の地、奥ノ谷に子供の守り本尊として尊崇奉される。・・・・・ということである。
 高野山にこの空哉律師なる人の記録があれば、決定的な史実となるだろう。この時、開いたのが、真言宗竜雲山瞰川寺という。ここを起点にすれば、”岸の大日如来の歴史”は1,100年にも及ぶ。実に50世代余の地縁に基づく地域社会が大日如来をお守りしてきたことになる。この史実はとても重い。

 ここで、西暦900年前後の日本の仏教界はどんな様相だったのだろう。・・・・・素人なりに考察してみよう。
 平安仏教の巨星”空海”と”最澄”を輩出した時代でした。共に支那は唐の時代に、彼の地に渡り、真言宗と天台宗を持ち帰りました。

 空海(774~835)は804年入唐し、恵果和尚から密教の教えを受け、灌丁を授かり、阿闍梨”遍照金剛”となって西暦806年に帰国して、我が国の真言宗の開祖となりました。京都の東寺、高野山金剛峰寺を開きました。水脈や鉱泉を探り当てたという類の弘法伝説は、全国津々浦々、数多く残されている思います。正真正銘の”山師”だったのかも知れませんね。加持祈祷、即身成仏、そうです、彼は金剛峯寺奥の院の洞穴で入定し、今でも生きて居られるのです。没後頂いた諡(おくりな)が”弘法大師”。
 
 最澄(767~822)は比叡山で修行後、804年入唐し、天台教を学び翌年帰国、天台宗を設立。今どきの1年留学にも満たない短さです。まあ箔を付けに行ったようなものだろう。没後頂いた諡が”伝教大師”。比叡山延暦寺といえば、後に僧兵で有名になる寺ですね。「意のままにならぬは賽の目と荒法師」と嘆いた公家はんもあらっしゃいましたな。平安京の鬼門封じどころか鬼門となりました。

 きっと、良きライバルであっただろう二人の高層は、「真言宗」と「天台宗」の布教を巡って、熾烈な競争を繰り広げたことだろう。
 
 余談になるのだが、・・・・・ 相賀川(おうかがわ)が大井川に注ぎ込む所の地名を渡口(どぐち)といいます。ここから、大井川の対岸を見ると、山が河川敷にせり出て川幅がとても狭くなっています。最近安全対策上、山を削ったようですが。・・・・ そういえば、金谷河原に住む古老が、「大昔の東海道は、ここを渡っていた」と言っていたのを思い出しました。なるほど、それで”渡りぐち”なんだと納得。渡口から相賀川に沿って相賀の谷を1.5キロメートル程上がると、千葉山への登り口がありますので、登って行きます。峠に”どうだん”というスカイペンションがあります。一服するも好しですが、営業しているか心配です。”どうだん”から800メートル程下ると、千葉山智満寺があります。源頼朝が平氏を追討し天下取りの願をかけた寺です。この寺では、正月7日には”火祭り”と称する奇祭が深夜に行われます。実は、この智満寺、天台宗なのです。この古道を下りきった所に天徳寺がありますが、これも天台宗。ここが、大津の谷の北端になります。天徳寺から大津谷川に沿って、1.5キロメートル程下った所に、大津小学校があります。学校の信号を左折し、大谷の池の脇を通って東に下ると、そこは東光寺、寺の名称が地名になっています。この寺もまた天台宗です。ここにも風変わりな祭”東光寺の猿舞”というのがあります。この祭りは寺の奥にある日吉神社のお祭りかも知れませんが。・・・・・
   スカイペンション 智満寺
 で、何を言いたいかというと、この地元を見る限りの話ですが、天台宗の布教の足跡ははっきりと現在でも検証できるのですが、何故に真言宗布教の痕跡が消滅してしまったかということであります。口伝による布教と文書による布教の差によるのか、エリート教育とマスプロ教育の差かあるいは布教組織体制の差か?。・・・・・この観点で言えば、伝教大師最澄に軍配が上がると思います。

 平安初期の地名でいえば、大長から千葉山を超えて大津へ、大津から一山超えて東光寺へ、東光寺谷川沿いに南に下って、いよいよやって来ました”わしらが葦原郷西端の地、岸”へ・・・・・大井川が氾濫しても、まあ安全な場所ということだろう。大日略記によれば、(西暦900年頃)空哉律師和尚真言宗布教のため、この地に来る。岸奥ノ谷に竜雲山瞰川寺創立、本尊大日如来 こどもの守り本尊とある。・・・・・これ以上の記録は無いようだ。

 この頃の大井川は、すこぶる荒れ狂う川でありました。一雨ごとにあっちこっちへ蛇行し、稲作ができる場所もごく限られていたことだろう。何せ本州の背骨、南アルプスを水源とし、降った雨は一昼夜で駿河湾に流れ出るといわれるぐらいだ。標高差が利用できるおかげで、その豊富な流水は、現在では「大井川用水」として活用され、袋井、磐田あたりまで田畑を潤している。

 ミステリー 竜雲山瞰川寺と本尊大日如来が消えた?
 1560(室町時代末期)年 庚申2月岸谷山龍江院設立 本尊木釈尊迦 開山竹堂来和尚 創建泰伝存康和尚 曹洞宗 遠州可睡斎の末寺 本堂間口八間 奥行六間半 檀家約100戸 堂前の額は天柱禅師晩年の筆・・・・・これが、龍江院開山にまつわる記録である。
 (大字)岸の(小字)奥ノ谷にあり、山の中腹に位置していて大井川を鳥瞰できる。奥ノ谷=岸谷と解釈して差しつかえなかろう。・・・・・我が家は代々龍江院の末尾の方の一檀家であります。・・・・・瞰川寺と龍江院の所在が同じと仮定した場合、真言宗から曹洞宗への改宗の経過はどんな状況だったんだろうか興味が湧きます。話し合いによる譲渡か、廃寺になったので、引き受けたか全く分からない。

 龍江院の開山と創建にどれくらいの時間的なずれがあったんだろうか?。開山した和尚と創建した和尚は別人だから、開山から本堂完成まで、瞰川寺をそのまま使っていたのだろうか。龍江院の本尊は釈迦牟尼仏であります。

 で、瞰川寺の本尊大日如来はどうしちまったんだろう?・・・・・おそらく、記録にも残さないで、川原の堂に安置したんだろうと私は妄想する。既設の祠であったか或いは瞰川寺を移築したか全く分からない。余談であるが、こういう時は、より高いところに安置すべきものだろう。大和朝廷は大国主を地上60メートルの神殿にお祀りした、という先例がある。崇りが怖いのです。

 時は流れ、江戸時代になるとキリシタン排除を目的とした寺請けが制度化され、寺は檀家を種々の面で掌握しました。幕府の行政組織の一部に組み入れられられたのです。今風にいえば、役所の戸籍課の役割を果たしました。発行したのは異教徒でない旨の証明。当時、僧侶階級は識字率100%、インテリゲンチャーでした。こういう施策を考え出した徳川家康は本当に深慮遠謀に長けていたと思います。それまで内乱の原因の一つでもあった宗教を掌握し同時に、間接的に住民の管理まで行ったのです。”外敵の侵入を許さない”、国防の手段としても画期的な方法でした。やはり徳川家康は”天下人”となる宿命を背負っていたのでしょう。江戸時代に、龍江院が火災で全焼していなければ岸地域の資料も残されていただろうに残念です。
  徳川家康遺訓(久能山東照宮奥の院御廟)

 大日如来発見!
 1706年、突如として、大日如来は文献に現れるのです。「川原より山腹の地に大日堂を移転する。・・・・・伝伝、往古大井川溢(あふれ)し、この地荒れし折に効原に一樹の松ありし側に小童何れかよりか大日の尊像を携え来たり、花を供し置けるを、里老見て草堂を営み安置せしに、宝永三年今の堂宇造建せり云々」。・・・・・よくあるパターンの縁起話だと思います。子供の守り本尊だから、小童が携えて来たんだろう。・・・・・納得。
 ともあれ、永らく大井川の川原に幽閉されていた大日如来もようやく日の当たる場所に移されました。
 

 この普請は、田中城の鬼門除けということで、時の城主、土岐頼稔の命でなされました。原木調達以来、完成までに十数年かかる大事業でした。内、建築工事に5年を要したと言われています。実際に竣工したのは1713年と記録されている。棟梁は木原光右衛門長規とその息子義助でした。残念ながら、本堂は昭和48年の火災で焼けてしまいました。しかし、随分と匠として念を込めた建物だったのだろう。奇しくも自筆で書いた名前部分は焼けずに残っていたのだから。・・・・・この時のまま、仁王門と鐘楼は現存しています。


アップした写真は、大日山登り口、仁王門、仁王像一対、口を開いたほうが阿形、口をきりっと結んだほうが吽形です

 何故に、この地が田中城の鬼門除けの地足り得たのか?。疑問を持つのはよいことだ。ここから、大井川の対岸を見ると、遠近江の国榛原郡、”谷口”、牧之原台地の東端の地、地勢でいえば大井川の谷が終わる所となります。その対岸、駿河の国志太郡側が”岸”です。島田の一部も含まれますが、志太平野はここから広がっています。
 時の田中城主にとって、荒ぶる大井川を治めることが農業(生活の糧年貢米)を安定させるうえで最重要課題でした。志太平野を水田に開墾する。その要衝の地が「志太郡岸村」だった、という解釈でよかろう。だから、真言宗の最高位に位置する”大日如来”を”それ相応の堂宇”を造り、川原から迎えて安置したのだろう。大井川を鎮魂するための”瞰川寺大日堂宇一式”、ちょっとでき過ぎた話かな!。・・・・・こういうご縁だから、志太郡にお住いの善男善女は、大いに「昔がって」志太郡岸の大日さんへ足をお運びください。

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 「しかし、困ったもんじゃのう。此度の大雨が五十年に一度あるかないかのものとはいえ、被害は甚大である。三つの村が全壊、人的被害もさることながら、濁流で表土を浚われ大井川の川原に戻ってしまった水田が10町歩、わが田中藩の命運はまことに大井川次第じゃな。荒れ川の治水、最重要課題である。策はないのか?良い策は!」

 「されば殿、志太平野の地勢を把握することが肝要かと拙者考えまする。まず対岸の遠州側は”谷口”まで、牧之原台地という強固な自然の堤で護られておりまする。対する志太側には”白岩寺”という山がありまして、大津谷川の出口となっておりまするが、この川の取り扱いを誤ると大井川の濁流を呼び込んでしまいまする。まあ、なんですな、志太平野の喉元につきつけられた匕首(あいくち)のようなものでござります。しからば、白岩寺から南に強固な堤を築き、可能な限り南で、大井川に合流させる。これがまずもって肝要なことと存じまする。」

 「なるほど、流石にわが家臣、一理もニ理あることを申すのう。さように人事を尽くしたとしても、荒ぶる大井川を鎮魂する神仏の御加護も必要じゃろうのう。何しろ志太平野の首根っこを治める話じゃ。事は重大である。」

 「そのことにござりまするが、此度の惨状を調査した折、岸村の庄屋が、実は大井川の川原に彼の弘法大師がお作りになったと伝わる大日如来があると申しておりましたが、まことのものなら、この際、それをまつりあげたら、如何なものかと存じまするが。」

 「なるほど、弘法の大日如来であるか、真言の加持祈祷の法力で大井川を鎮魂するとな・・・・・なるほど、妙案じゃな。・・・・・されば、藩内の武士、百姓、町人に至るまで、岸村に大日堂宇を建立する旨の触れを出し、水難から逃れるべく、領民の安寧を祈念する場であることを周知させよ。建立の場所は岸山の登り口とする。これが為の寄進苦しからず。藩主の要請による普請なれば、堂前には仁王門を配置いたせ。」

 「ははー、御意」

 「幕府も開墾、開墾と声高に叫んでおるし、天領の島田宿より川下の開拓については勝手たるべしとの触れも出している故、あわせて、そこもとの考案致した水田開拓の指図書にのっとって、志ある農民を募って、岸村から南に、東に、水田開拓を奨励いたせ!。」

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 当時、岸村の人口は如何ばかりのものだったのだろう。龍江院開山当時の戸数が100戸、明治21年の戸数調査では160戸、人口803人とあり、120戸あったとして、一戸平均5人とすれば600人。子供年寄りを入れてこの人口では、十年余に亘る大事業を支えるのは大変な負担だったろう。ご先祖様たち、本当にご苦労さまでした。封建制度上ほとんどが百姓に身分を縛られた時代だったから、生活も楽ではなかったろうに。・・・・・大日如来への想い篤く、城主・村民心を一つにして大日堂宇は完成されました。・・・・・察するに、田中城主の号令で始めた工事とあれば、志太郡下の金ある者は金を出し、腕に覚えある大工は鑿と鎚を持ち、体の丈夫な者は鍬を持ってここに集い、協力しあって、作業にあたったことだろう。われらがご先祖たちを顕彰し頭を垂れましょう。

 思い出
 おそらく昭和30年(1955年)だったと思います。私が幼稚園生の時。
 日本国、日本国民にとって泥沼の総力戦を強いられた大東亜戦争中に鐘楼の釣り鐘は供出されてしまいました。以後、梵鐘なしのままでしたが、戦後間もなくて、自分たちの生活もままならない状況にもかかわらず、岸の住民は浄財を募りあって、釣り鐘を鋳造しました。京都あたりで鋳造されたのか。鐘は島田駅まで列車で運ばれ、そこから荷車に乗せられ、故事にのっとり、子供たちが稚児行列で迎えるという体裁で延々と大日堂まで運ばれました。当然、私も参加しましたが、ただただ疲れた記憶だけがのこっています。このとき鐘楼の基礎も改修されました。

 
 アップした写真は現在の鐘楼の様子です。コンパクトながら、均整の取れた佇まいです。

 蛇足ですが、”岸のお大日さん”は、子供の守り本尊です。縁起では、ご本尊を”小童”が携えて来たのだから。とにかく、「子供がいなけりゃ始まらない」、これが”アイデンティティー”です。だからと言ってはなんですが、子宝に恵まれたい夫婦は、岸の大日如来に願を掛けてみたら?・・・・・たちどころに願いが叶うかもしれません。

 また、これから良縁を得たい若者は、男女の別なく”岸のお大日さん”に足をお運びください。その法力により、きっと良き相手が見つかるでしょう。大日如来の智剣印にも力が籠ろうというものです。婚姻は誕生の素であります。

 大日堂炎上そして再建
  1973(昭和48)年1月9日未明、不審火により大日堂炎上。私はこの日、大阪から最終の新幹線こだまで浜松で降車、そこから在来線に乗り換えて、島田駅に着いたのが午後11:00頃だったと思います。歩いて帰るには距離がありすぎるので、島田駅からタクシーに乗って、帰宅するとき”大日さん”に火の手が上がっているのを偶然にも、目撃しました。おそらく付け火、この時、巷で囁かれていたことは、賽銭箱あたりがひどく焼けていたため、心ない者が箱に火のついたタバコを放り込んで行ったんだろう、あるいは、酔っぱらいの悪ふざけだったか、等々。まことに腹立たしい限りです。子供のころから慣れ親しんだものが焼失してしまった無念さを感じながら、焼け残りの残骸を皆でかたずけたのです。私も一日だけでしたが、作業を手伝いました。

 あれから40年経過した今となっては、ほとんどの人が鬼籍に入ってしまいましたが、私たちの親の世代は偉かったと思います。大日堂焼失後直ちに再建計画を立ち上げ、資金も工面し合って、なんと三年後の昭和51年には大日堂を再建してしまいました。鉄筋コンクリート造りの建造物となってしまいましたが、地域としての結束力、実行力の結晶が現在の大日堂だと思っています。今、私たちの世代にそれだけのポテンシャルがあるかと自問すれば、「甚だしく心もとない」。そう思います。

 龍江院の石塔の下で、父ちゃん母ちゃんたちが「おまえたち、ようやく、わしらの生きざまが素直に評価できるようになったかね。で、子はつつがなく育ったのかい、孫はいるのかい?」などと、うそぶいているのが聞こえてきそうだ。・・・・くわばら、くわばら。
 まあねえ、欲を言えば、際限のないことになってしまいますが、ご縁に恵まれ、結婚して子供ができ、どうにかこうにか育てて成人させ、その子が縁づいて結婚し、更に孫の顔が見られる。これで十分と思わねばなるまい。自分たちに託されたご先祖の血が繋がったのを見届けたんだからさ。さらに、孫たちが幼稚園に入園しただの小学校に入学しただのと、時を共有させてもらい、なけなしの小遣いなどをせびられていれば、至福であります。だから、父ちゃん母ちゃんたち、是非とも、ゆっくりと、お迎えにおいで下さい。

 
アップした写真は現在の大日堂 再建の貢献者を勒した石碑

 ここで、一服しよう。
 しかし、待てよ、鉄砲伝来が1543年、織田信長が、駿河の国、遠近江の国の守護大名だった今川義元を桶狭間の戦いで討伐したのが1560年、龍江院の開山も時を同じくして1560年、これが偶然だろうか?、世は戦国時代の真っただ中の出来事である。今川領の分割が行われたのは必然だったろう。
 とすると、論功行賞で岸村の領主となったおそらく遠州の武将が、敢えて、可睡斎の末寺としての龍江院を建立した。新しい統治を知らしめるためだったのか?。”政治的な着想”なんだろうけれど、そこまでしなくても、という気がしますがね。
 1573年、織田信長は将軍足利義昭を京都室町から追放して、室町幕府滅亡。比叡山延暦寺焼き討ち、一向一揆武装集団撲滅、武田軍との戦いで勝利。その信長も、平安京に対峙する安土城を建設し、間もなく天下統一という時に家臣の謀反にあって敢え無く本能寺にて自害、時に1582年。・・・・・豊臣秀吉の天下平定へ、動乱の時代でした。
     安土城祉 織田信長が夢の跡

 それから、時を経て、江戸時代、われらが岸村はどこの知行地だったのか?、これがなんと掛川藩領だったのです。遠州の勢力圏は継承されました。その縁で”遠州の可睡斎の末寺龍江院”が存在します。
 だから、「竜雲山 瞰川寺」という”寺号”を出すのが憚られて”封印”されたままになっているのか。・・・・・この辺のいきさつを明らかにする史料が出てくる可能性はなかろうが、「当たらずと雖も遠からず」といったところだろう。

 こうした激動の時代、世の中の変化をも乗り越えて、とにかく大日如来像を守り伝えてきた、岸村の人々の真心がしのばれます。”弘法大師がお作りになったありがたいもの”を大切に伝えながら、この地に暮らしてきた人たちの史実はとても重い。

 今川義元が織田信長のまさかの奇襲で死亡した影響は、岸村の「瞰川寺」「大日如来」にも及びました。実に不運な出来事でありました。

 大井川 流れは尽きず 蓮台の影を映して ゆかりある 古き宿場も 新しい希望に満ちて さかえゆく われらが島田市

 これは3年程前までの島田市歌でした。印象が暗いからだろう、どうもよろしくないということで、公募により新しい歌詞になったようですが、私はそれを覚えられない。
 幕府が大井川に橋を架けさせなかった為、島田宿はおかしな意味で繁盛しました。雨が降って増水すれば、「川止め」、それが三日も続けば、宿場は旅人でごった返したことだろう。”雨降って商売繁盛”あまり人聞きの良い話ではありませんが、「川越人足」という職業の人たちはお手上げでした。”入り鉄砲出女”を監視するのに便利な所でもありました。また、幕府の財政を支えた赤石材の集散地でありましたから、島田宿から川上の大井川筋は幕府直轄の天領とされ、代官が統治しました。切り出した材木は筏を組んで、水運により島田宿に集めらたのです。・・・・・この頃の繁栄が戻ればねえ。

    
 1枚目は岸山から撮影した大日堂、2枚目は対岸の谷口方面を撮影 3枚目は牧之原谷口付近から岸方面を撮影 4枚目は金谷原から谷口、白岩寺方面を撮影、大井川の蛇行、金谷、島田、志太平野の地勢を把握できるとても良い位置です。空気が澄んでいれば、駿河湾、伊豆半島も見えるのですが。
 ”目に青葉 山ほととぎす 初がつを” こういう句が瞬時に出てくる才能ってすごいですね。春の視覚、春の聴覚、春の味覚、待ちに待ったものを見事にいい当てています。ここは茶どころ、新茶が芽吹いています。
 この時期の風景写真は春霞でぼやけてしまいます。
  これは大津谷川の末端の放水路の写真です。田沼藩の殿様が1713年大日堂宇を十年余の歳月をかけて岸村に建立して志太平野の治水と安寧を願った灌漑システムの完成形といえよう。完成したのは1932年(昭和7年)のことである。実に219年の歳月を要したロマンスでした。今ではメインの水門が最新式のものに改修されています。通常は貯水し、増水したらゲイトを開けて大井川に放流するのですが、逆流させないよう知恵が使われて、大井川に並走させてから放流し、流水が流水を飲み込むような構造となっています。
 ここで貯められた水は栃山川の水門に流され、志太平野の灌漑用水となります。陸運が発達していなかった時代にはこの栃山川は運河としても利用されました。紀伊国屋文左衛門が開拓した木屋川に合流します。また、大井川河床に作られたトンネル経由で大井川用水として榛原方面へも送られています。
  この2枚は栃山川の水門と栃山川です。
 これは榛原へ送る水量を制御する水門です。
  この水利事業をPRするための看板、水を大切に。水は命の源。
 昭和天皇がこの事業を評価なされて、侍従をこの地に差し向けなされたことを顕彰する碑。
(昭和第五年初夏暢適の候畏れ多くも天皇陛下静岡県に行幸あらせられ給ふや五月三十日を都志て特に我が県営栃山川沿岸用排水路改良事業地へ黒田侍従御差遣の恩命を給い翌三十一日浜松公会堂に臨幸の際には当放水門の模型並びに図面に対し特別天覧品として照察を垂れさせられ且これに関する申奏を委曲聴取あらせ給う乾徳洪大誰か恐よう感佩せざる者あらんや謹みて按ずるに此の盛事たる啻に当地本事業に干預する者の栄誉なるのみならず実に正に進出途上にある我が帝国農業土木界に画期的の光明を発揚せられたるものと謂うべし茲に当地青年団員諸子は克く感激に奮起して自ら其の光栄と重責とを終生に肝銘すると共に更に之を碑石に刻して普く後昆に伝え以て神州瑞穂の名をして永遠に彌榮えしめんと欲す企図洵に歎称するに余りある余威に龍駕に扈従し天顔に咫尺し奉りて感激に終始し今此の美挙を聞きて転た欣快の至りに堪えず懇請に応じ悦びて一言を述ぶと云爾
 静岡県知事従四位勲三等 白根竹介 選文 志太郡六合村長勲八等 塚本蠖三 書之  昭和六年三月六合村青年団建立)
 事業並びに功労者を顕彰する記念碑。旧田中藩主、大洲村の村長、大富村の村長などの名が刻まれています。
 (この碑文は更に読めない。識字能力の無さと苔むしてしまっていていかんともし難いが、わかる範囲で意訳しよう。・・・・・放水路碑 旧田中藩主掌典次長正四位勲三等子爵 本多正復閣下蒙額
 古来栃山川しきりに氾濫し惨害毎に至りて、被る流域の住民、困阨窮まりなく、之が防過の途を索せること切なりと雖も数次の企画ことごとく蹉跌に帰し、いたずらに痛恨を重ねること既に幾年にも及ぶ。然れども、国運の進暢の停滞にも及び国政また之に伴いて更新を加う。大正十二年政府農政革め大いに農村の振興に資するの政令を布くにならい本県当局は率先して之に着手の画策をめぐらす直ちにその改修の大計を立てたり。郷民亦翕然として奮起し協心戮力難を排し怨を解き鋭意その実現にこれ努むのち大正十五年五月県営事業栃山川用排水幹線改良の起工となり新たに巨閘を築き超渠を通し或いは河床を整え旧堤を修め日夕精勤五年を経て功課全く竣工せり。是に於いて防堤崩壊の憂いなく田畝荒廃の厄はらわれ創生幾万の宿志初めて成り後昆永遠の福祉応に期すべし、まことに聖代の恵みなり。加えて昨年五月車駕にて県下巡行なされた際に、天皇陛下は畏れ多くも侍従を差遣して審に此の放水の施設を検せしめ給う天恩優洽愛民厚生の至徳は表に光被し僻陬の稼穡爰至仁の雨露に霑う感激何そ任えん。爰に沿岸七箇町村胥謀りて石を建て聖徳仰感の微忱を表すると共に其の顛末を不朽に伝え且つ専ら干与鞅掌せる者の氏名と事業の梗概とを碑背に勒して是を記念す 云爾
維時 昭和六年四月
静岡県志太郡栃山川水害予防組合管理者 大富村長 勲七等 村松朋太郎誌 大洲村長 勲七等 鈴木辰二郎書)

・・・・・・・・・
 栃山という地名について、由来が全く分かりません。大津谷川が白岩寺(山)の麓で伊太谷川と合流しているのですが、どうもそのあたりから下流を栃山川と通称呼んでいるらしい、現に旧国道一号線、由緒ある一言製茶の前に「栃山バス停」があり、御仮屋に渡る橋の名称が「栃山橋」という。ひょっとして、その昔、白岩寺を栃山と呼んでいたことがあったのか?、一番説得力がある説と思うのですが、それも寡聞にして聞かない。地元の人でさえ、伊太谷川を栃山川と勘違いしている向きが多かろうと思います。したがって、上述の栃山川放水路とは大津谷川末端の放水・灌漑施設のことです。正式には、栃山川の起点は、この水門となっているようです。

 どうでしょうか、栃山川沿線にお住いの方々、これら二つの石碑が示すようにこの地が、大井川水系の恵みを享受する者たちにとって、どれほど有難く、同時に非常に厄介な場所であるのかを認識し、また、父祖たちがどれほどに水害防止のために心骨を注いで来たかに思いをいたすべきではないでしょうか。

 志太地区各市の教育委員会は協力し合って、この碑文の真意を咀嚼し、小学生でも理解できる文章に改めて、この石碑の横に並べて説明書きを設置していただきたいと思います。この地域特有の水害と背中合わせが日常であった歴史を学ばせる教育の場として頂きたい。そう思います。それが、後昆たる私たちの務めであります。
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 急ぐべからず、或いは急がば回れ、ということだから、書いておこう。碑文の本多正復(まさもと)という方、旧田中藩主の後昆(こうこん)でありまして、廃藩時の田中藩主本多正訥(まさもり)の孫の代に当たる人です。明治政府が廃藩置県に伴い本多正訥に授与した爵位が正四位「子爵」で、その家督を正統に相続した者という意味合いです。
 掌典次長とは、皇室の祭祀をつかさどる役職の次長ということで、昭和天皇がこの治水事業に関心を寄せられるきっかけを作った功労者だった方かもしれません。
 とりわけ、この地の治水に御苦労された田中藩主の正統な末裔というご縁でここに登場しているのでしょう。明治6年(1873)に生まれ、昭和8年(1934)に没しています。享年62歳。
 ところで、田中藩の系譜を遡ると、岸村の大日堂宇竣工時(1713年)の藩主は土岐氏でよいのですが、1700年頃、大日堂宇建立の号令を出したのは、太田資直(おおたすけなお)(1685~1705年)であったと推定されます。というのも、掛川藩主の太田氏と縁戚関係にあったため、掛川藩領である岸村での大日堂宇建立計画が叶ったものと思われます。
 田沼藩主は、太田氏以後、次のように移り変わりました。
1685年(太田氏 田中にて没)1705年(内藤氏 他藩へ移封)1712年(土岐氏2代 他藩へ移封)1730年(本多氏7代による世襲)1868年廃藩。

 ”岸の大日如来”もまた、歴代の田中藩主が願った志太平野の治水が叶い、それを田中藩後昆が見届けてくれたことを喜んでおるのでございます。更に安寧な日々が続きますように 合掌。
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 放水路堤防に植樹された桜並木 シーズンには花見に訪れる人も多いです。大日如来に見えるかな。


 私は大日山の総代という立場で”岸の大日如来"について広くPRしなければならない責務があります。しかし、この地味なブログでなんぼ声を張り上げたところで如何ばかりのものなんだろうとも思っています。一人でも二人でもおとなう人あらば有り難いことであります。

 岸の大日如来は子供の守り本尊、子は宝、子は鎹(かすがい)です。子供がいるおかげで離婚などという不運も回避される。そういう効能もさることながら、社会の活性化ひいては国力増強の礎であります。
 「一人の女性に三人は産んでもらいたい」ものですはね。ところで最近、「二人産め」と言って、辞職に追いやられた校長も居られたようですが、男にできないことを、女に要求して何が悪いのかさっぱりわかりません。そのためにこの世に命を授かっているんだからね。動物も植物も無生殖の先にあるものは絶滅しかありません。こんな簡単なことを理解できなくするのが昨今の教育だとしたら、忌々しき事態であります。子作りをした後、存分にその権利を主張してください。

 子供の守り本尊はいつも子供を待っておられます。爺ちゃん婆ちゃんは孫を連れてきて、境内で遊ばせてください。そして孫の健やかな成長をお祈りください。子宝に恵まれたいカップルも是非お出で下さい弘法大師の霊力で願いが叶うでしょう。
 また、これから良縁を得たい若者もこぞってご参拝ください。良縁、婚姻、誕生、大日如来が心底より望むところであります。大日山総代といたしましては、ここが”縁結びのパワースポット” たらんことを希(こいねが)っておるのでございます。
 「とにかく子供がいなければ始まらない」という意識をみんなで共有し前向きでありたい。そう思います。

 幸い、島田市六合地区はこの界隈で唯一人口が増加しているところです。縁あって、この地に転入され、新たに居を構えられた若者達も多かろうと思います。ぜひとも岸の大日山にはこうした縁起、謂れがあること、また地縁の象徴となっていることを知っていただき、更なる地縁の輪を広げてくだされば、宜しかろう。

 今般の熊本大地震、被災されました熊本の皆さま頑張ってください。遠方より、衷心お見舞い申し上げます。

 昨今、防災といえば地震、津波にばかり目が行くのでありますが、私たち志太平野の住人にとって、最も用心すべき天災とは何かを認識し直すべきです。祖父母の時代まで、何が一番恐ろしかったかといえば、大井川の氾濫、堤防の決壊でした。台風が来たり、豪雨の時は気が気ではなかったことでしょう。一旦、堤防が決壊し大井川の濁流を呼び込んでしまえば、家屋敷も田も瞬く間に浚われて、大井川の川原と化してしまいます。勿論多くの人命も失われる。こういう水難の歴史が、つい最近まで繰り返されたことを忘れるべきではありません。それに、最近の天候は極端に振れます。降れば土砂降り、吹けば台風並み。よもや大井川は決壊すまいと油断していてはなりますまい。相手は天下の暴れ川です。油断大敵、天災は忘れた頃にやって来ます。

 田沼の殿様が立派な堂宇を御建造のうえ、川原より祀り上げてくださいました駿河の国志太郡岸村の大日如来は、爾来、志太平野の治水の要となる施設並びに、ここに暮らす人々の安寧をずっと見まもっておるのでございます。

 ”如意吉祥” 殿さまの願った治水システムは2百余年後に実現しております。・・・・・
 
 毎年2月15日、8月15日が縁日となっておりますれば、是非足をお運びくださいまして、何なりと大日如来にお申し付けくださいませ。如意吉祥、たちまち思うが如く好ましい兆候が発現致すでしょう。 


     

 大日如来の思し召しなのだろうか。魂の彷徨するままに行き着いた先がこの5枚の写真の地点、伊太発電所であります。白岩寺の麓で大津谷川と合流する伊太谷川をさかのぼって行くと、此処に至ります。志太平野への大井川用水取り入れ口となっており、その放流水を利用して発電が行われています。
 毎秒17立方メートルの水が勢いよく放水されます。その水を利用するこの小規模の発電所でさえ、1200戸分の平均電力需要を賄えるというのだから、驚きです。もっともピーク時の需要に応えられる戸数は600戸ぐらいかもしれませんが。
 この写真撮影時において、現在の発電量は882キロワット、今年の総積算発電量が980メガワットと、表示されています。ここで、放水された用水が栃山川放水路に流れて行きます。途中、白岩寺の麓の水口から東光寺谷川へも供給され、阿知ケ谷、岸町やその先の上青島、南新屋、水上などの水田の灌漑用水となります。

 また、ここに掲げられた案内板は大変分かり易く大井川用水の受益地、仕組み、効用を説明しています。しかし、これに目を向ける人がいなければ、何にもなりませんがね。

 この小さな水力発電所の動力源となる水は、大長中学校、合掌造りの「百姓家」あたりの水門から山をくりぬいたトンネルを経由して供給されています。この水系を更に上流にたどると、露出、或いはトンネルを経由して赤松発電所、川口発電所に至ります。川口発電所がが現在の大井川用水システムの水源地となります。(国土交通省がそう言うんだから間違いないだろう)川口から遠州の菊川へも大井川の水が供給されています。小笠、浜岡、大東あたりの人にも大井川のポテンシャルエナジーの有り難さを知っていただきたいものです。・・・・・簡単明瞭な話、我が家の近くを流れる用水路を上流に辿ればここに至るという具合です。温故知新ですな。
   

 私らは農業と関係ないから大井川用水など関係ないという人がいるかも知れませんが、私たちこの地に暮らすものは人も植物も動物も遍く大井川の水脈のおかげで生きていられるのですよ。水道の水を飲もうが、井戸を掘って伏流水を飲もうが、それは全て大井川の水脈です。飯淵や利右衛門あたりでは、天然のサイフォン現象が発現していて、大井川の伏流水が自噴しています。

 私たちが住んでいるこの地は、大井川の賜物であります。そして、私たちは大井川の水脈というご縁で結ばれている仲間だと思っていたいですよね。

 


 


孫&柴犬モモ

2016-04-03 13:22:29 | 日記

犬の成長はとても速い。生後8ヶ月だというのに、もうこの大きさだ。この先どれほどになるのやら?。春休みで来た孫と山へお散歩。ほほ笑ましい一場面ですわ!坂道だし、4本足と2本足では安定度が違う、もっとゆっくり歩いてあげないと!