【音のない町】
昔々、あるところに、みつ姫と呼ばれるたいそう可憐なお嬢さまがおりました。
みつ姫は、深い山々と清らかな川に囲まれた玉川の都にて、日々琴を奏で、歌を詠み、人々の幸せを願ってお暮らしになっておりました。
けれどその都には、一つだけ大きな悩みがございました。
それは――
「夜になると、町じゅうの音が消えてしまう」という、ふしぎな呪いでございます。
笛も鳴らず、鐘も響かず、ひとの声すら聞こえない。
まるでこの世から音がひとつ残らず消えたかのようになるのです。
村人たちは不安におののき、夜になると戸を閉め、静かに震えながら朝を待つしかありませんでした。
けれど、みつ姫は違いました。
「音がなくなるなんて――わたくし、許せませんわ。
歌がなければ、人の心は寂しくなってしまいますもの」
そうおっしゃったみつ姫は、ただひとり、夜の町に歩み出たのです。
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その夜も、音は静かに消えてゆきました。
風のざわめきも、小川のせせらぎも、みつ姫の足音までもが。
けれど――
「らら、ら〜ら…」
姫の口から、そっと、小さな歌がこぼれ落ちました。
それは、まるで朝露のように澄んだ声。
夜の静けさのなかに、かすかに、けれど確かに響いたのです。
するとどうでしょう。
町の端の石畳がふるえ、小さな鈴の音が鳴りました。
そして、古い井戸の影から現れたのは――
**「音喰いのカエル」**でございました。
「ああ、また現れたのね。お見通しですわ。
この都の音を食べているのは、あなたなのでしょう?」
姫は優雅にスカートのすそを広げて一礼なさいました。
カエルは、ばつが悪そうにゲロゲロと笑いました。
「そのとおり。おまえの町の音は、ぜ〜んぶ、わしがくうてたんじゃ」
「なぜそのようなことを?音は、生きとし生けるものの、心のあかしでございますのに」
「うるさい音がきらいじゃ。
人間は、泣くし、怒鳴るし、笑うし、歌うし…静けさの中でひとり、じっとしていることができん。
だから、わしが音を全部食べてしまった。気に入ってるんじゃ、静かな夜は」
姫はしばし黙って、そのカエルを見つめておられました。
「まぁ、それなら仕方ありませんわね。
わたくしも、あなたにお気に召すような音をお聴かせすることができれば…食べるのをやめてくださるかしら?」
カエルは面食らったように、目をまんまるにしました。
「…うまい音、だと?わしが食わんでも、満足できる音なんて、あるもんか」
「あるのですわ。それが――愛の歌でございます」
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姫は、月あかりの下で、ひとり静かに歌いはじめました。
その声は、まるで泉のしずくのように、しんしんと夜に沁み込んでいきました。
♪ らら、あなたの心のなかに
さみしさが棲んでいるなら
わたくしの声で あたためて差し上げますわ
あなたは もうひとりでは ございませんのよ ♪
カエルははじめ、耳をふさいでおりましたが…やがて、そのまぶたを閉じ、じっと聞き入っておりました。
そして――
涙をひとしずく、こぼしたのです。
「…なんでじゃ。そんな…やさしい声を、わしに聴かせるな。
こんな気持ち…はじめてじゃ…」
姫は、微笑んでおっしゃいました。
「それが愛でございますわ。
わたくしたちの心に宿る、もっとも尊き音ですもの」
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その日を境に、音の消える夜は終わりました。
カエルは町の井戸に住みつき、人々の奏でる音にそっと耳を澄ませるようになりました。
誰もカエルを追い払おうとはいたしません。
むしろ、祭りのたびに、子どもたちはこう歌いました。
「♪ げろげろカエルと じゅの姫〜
うたってすくった このまちよ〜
ぽんぽこりんと 鳴る太鼓
あいのこえこそ 宝もの〜 ♪」
今でも玉川の都には、じゅの姫の面影を残す歌が風に乗って流れてまいります。
それを聴いた者は、きっと心がふんわりとやわらかくなると、そう申しますのよ――。