説明は、言語がなくては成立しない
方法だということは、分かるかな?
そしてその方法は、言語に指示的な意味を含ませなければ
方法として成立しない、というのも分かるかな?
実際そうなんだよ(^^)
お前たちもと~ちゃんも含めて
地位、財産、健康、権力、マスコミ、宗教などの何らかの
不平等を受け入れてある説明に納得するんだ。
でも、それによって成り立っているのが
今見えるこの世界と情報を通して知る世界と、
この暮らしの特徴なんだ。
これは事実だよ。
例えばね。
と~ちゃんの言うことは
確証のあるものだと思えるのは
お前が何らかの不平等(例えば権力、文化など)を受け入れ
中心的な物事として納得できるからなんだ。
でも、情報を通して知る世界があると
平等かも知れない言語に困惑しちゃうんだよ。
それが、怒りや悲しみ(また別の感情)となり
苦しみの葛藤という分散しようのない体験になるんだ。
そのこと自体は
今わからなくても、いつか分かるよ(^^)
そしていつか必ず、自分の背もたれとなるような
説明を探す・・・・。
決してそこで権力や文化を
楯にしちゃいけないよ!
後ろを預けるものだから
楯にしちゃだめさ(^^)
その背もたれは、
実は大切なことなんだよ(^^)
説明と指示的言語が生むのは「制度」。
自身が楯にして逃げるための
「説明と指示!」
それは言い訳。
背もたれは、拠りどころのある
他のものがある、
または、いくつかの世界を広げる「協調」の中にあるんだ。
それは、自身だけではないから
守ることも、背中を押すこともできる存在なんだ。
そしてそれを、自身が取り入れることなんだ。
ただ、と~ちゃんが言いたいことは、
不平等の中で暮らせる方法だけを
追求することの良さがわからないと言うこと
それだけだよ(^^)
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