結~つなぐ、ひらく、つむぐ~

身近な自然や社会との関わりを通して、マイペースで、新たな自分探しに挑戦しながら、セカンドライフ、スローライフを楽しむ。

貴重な水源だった…宝口樋川!

2013-11-19 | 癒し

 那覇市の高台にある首里地域には、多くの樋川があります。高台を形作る琉球石灰岩は水を通す性質(透水性)があり、粘土層の不透水層との兼ね合いで、地上や地下の水路(水脈)ができています。人々は水源を中心に集まり、田畑で作物を作り、生活してきました。「宝樋」碑文を読むと、当時の人々が、「宝口樋川」を大事にしてきた様子がわかります。

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「宝口樋川(タカラグチフィージャー)…市指定史跡 指定 1976(昭和51)年9月28日 宝口樋川は、真嘉比川沿いの急ながけの下に設けられています。そのため、背後は沖縄独特のあいかた積みと呼ばれる石積みで、極めて頑丈につくられています。樋川の前は石畳になっています。現在あるコンクリートの水槽は、飲料水と洗濯用に水を分けたもので、昭和初期につくられました。もとは入口にあった「宝樋」碑によると、1807年、この樋川を開いたのは当蔵村の平民たちで、その功績によって位階を賜り、その後、1842年に大修理を加えた赤田村の平民宮城は、士分に取り立てられました。かつては、ジブガーフィージャーと呼ばれ、昔から豊かな水に恵まれ、干ばつにもかれることのない重宝な樋川でした。近年は樋川の背後が開発され、一時期より水量が落ちていますが、市内でも指折りの湧水量を誇っていることに変わりはありません。 那覇市教育委員会」

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「『宝樋』碑復元について…碑の表は、1807年(嘉慶17)年に記されたものです。それによると、この地によい水が湧くことは知られていましたが、場所が不便なことや、そんなに水に困っていなかったので、顧みられることはありませんでした。しかし、当蔵村の宮城筑登之親雲上は、その湧水を惜しみ、賛同者24名と共に資金を出し合い、道を整え、樋川を設けました。その功績により、宮城筑登之親雲上は2階級特進、他の者もそれぞれ階級昇進しました。また、宝口という地に湧く樋川なので、「宝樋」と名付けられたことも記されています。碑の裏は、1842年(道光22)年に記されています。それによると、この樋川は水も豊かでたいへん重宝していたが、大雨によって壊れてしまいました。そこで、村中で相談の上、修理しようとしましたが、費用が足りずに困りました。そこへ、赤田村の宮城筑登之親雲上の母親から費用負担の申し出があったので、無事に工事を進めることができ、もとのようにすばらしい樋川がよみがえった、と記されています。「宝樋」碑は、沖縄戦によって失われてしまいましたが、1986(昭和61)年に真嘉比川改修工事によってその河床から大部分が発見されました。しかし、現物はかなり破壊され、摩耗も激しいため、新たに復元することになりました。そこで、那覇市文化財調査審議会の委員で構成された「宝口樋川碑文・復元検討会」の検討を踏まえ、書家渡久地龍雲氏に筆耕を依頼して、このように復元しています。1995(平成7)年1月20日 那覇市教育委員会」

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