那覇市久米2-29福州園に、「知事官舎跡」があります。1879年の「琉球処分」後、初代県令に就任した「鍋島直彬」以降、1945年の沖縄戦に至るまで、27名の県令・県知事が政府から派遣されました。久米の「知事官舎跡」は、1916年、第9代鈴木邦義知事の時に、松尾山の西端に新築され、1944年10・10空襲で焼失するまで、歴代知事の官舎として使用された、建物跡です。
「知事官舎跡」は、「福州園」の一角にあり、近くには、「沖縄県立那覇商業高校」や高校に隣接した「松山公園」があります。
那覇商業高校から「知事官舎跡」に向かう途中に、「堂小、東壽寺跡」がありました。
参照(沖縄県知事一覧 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7)
01-0514 那覇商業高校
02-0514 福州園
03-0514 福州園
04-0514 福州園
05-0514 福州園
06-0607 知事官舎跡
07-0607 知事官舎跡
08-0607 知事官舎跡
09-0607 知事官舎跡
10-0607 知事官舎跡
「知事官舎跡(チジカンシャアト)那覇市久米2-29 福州園内…大正から戦前期まで、この地にあった沖縄県の知事官舎跡。 1879年(明治12)3月、明治政府は琉球王国(当時琉球藩)を廃し、沖縄県を設置した(琉球処分)。県庁は、西村(にしむら、現那覇市西)にあった旧薩摩藩在番奉行所(さつまはんざいばんぶぎょうしょ)があてられ、初代県令(けんれい、1886年から県知事)には鍋島直彬(なべしまなおよし)元備前鹿島藩主(びぜんかしまはんしゅ、現佐賀県)が就任した。1945年(明治20)の沖縄戦に至るまで、27名の県令(5代)・県知事(23代)が政府から派遣された。 当初の知事官舎の場所は不明だが、1892年(明治25)7月に就任した第4代奈良原繁(ならはらしげる)知事は、那覇区久茂地(くもじ)の官舎(現沖縄県庁周辺)を住居とし、1908年(明治41)4月に就任した第5代目日比重明(ひびしげあき)から第8代小田切磐太郎(おだぎりいわたろう)知事までは、通堂(つうどう)官舎(現那覇市通堂町)が使用された。 1916年(大正5)11月、第9代鈴木邦義(すずきくによし)知事の時に、松尾山(マチューヤマ、現松山公園一帯)の西端、通称『福木山(ふくぎやま)』と呼ばれる地に、知事官舎が新築された。敷地は約540坪、赤瓦葺きの平屋建てで、格子窓の洋風の建物であった。以後、1944年(昭和19)10月10日の10・10空襲で焼失するまで、歴代知事の官舎として使用された。 終戦後、跡地は米人向けの外人住宅地となっていたが、後に開放され、1992年(平成4)に開園した中国式庭園『福州園(ふくしゅうえん)』の敷地の一部となった。 なお、知事官舎一帯は、1844年以来、泊村(とまりむら、現那覇市泊)の聖現寺(せいげんじ)に逗留し、布教を進めていたフランス人宣教師が、新たな拠点として1856年に家屋を建てて住み着いた地といわれる。 設置2014年3月 那覇市歴史博物館」
11-0607 知事官舎跡
12-0607 久米勝景
13-0607 福州園
14-0607 福州園
15-0607 福州園
16-0607 福州園
17-0514 堂小、東壽寺跡
18-0514 堂小、東壽寺跡
19-0514 上之井、中之井、下之井
20-0514 松山公園
21-0514 松尾山跡
22-0514 松尾山跡
23-0514 松尾山跡
24-0514 松尾山跡
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