「野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~」

写真と簡単な文章で綴る大阪府内を歩いた足跡です。

浜寺から「織物の町」「小栗街道」を経て「信太の森」へ

2011-06-05 11:33:00 | 日記
訪問日:平成24年10月21日(日)
出 発:南海電車「浜寺公園駅」
到 着:JR「北信太駅」

 かつての白砂青松の浜である「浜寺」から紀州街道を下り、織物の町「泉大津」へ。そして和泉府中から小栗街道(熊野街道)を上り「葛の葉伝説」が伝わる「信太の森」までを歩く。ほとんど市街地の平坦な道を歩くので給水・トイレには困らない。(歩行距離27キロ)

 今回のスタート地点である南海電車「浜寺公園駅」は、大阪市内からであれば「難波駅」から南海本線に乗るか、地下鉄堺筋線で「天下茶屋駅」で南海本線に乗り換えるのが通常だろう。しかし、南海「汐見橋線」という、ちょっと「変わった路線?」があると聞き、遠回りをすることにした。
 明治33年、大阪市内と高野山を結ぶ線として開業した歴史ある路線である。しかし、南海電車のターミナルが「難波」に移り、今は「汐見橋駅」から「岸里玉出駅」までの6駅約4.6キロが「汐見橋線」として時代に取り残されたように走っている。「歩紀」とは別だが10分ほどの旅をお楽しみ下さい。

 「汐見橋駅」。駅舎は昭和31年に建てられたそうだ。正面は洋風に造られ塗装もされている。が・・・


 内部にまわれば「昭和時代」そのもの。


 屋根もきれいに白色に塗装されているが、鉄骨むき出しだ。


 改札の上には、昭和30年頃当時の南海沿線の観光地図が掲げられている。ここが南海電車のターミナルであった「証」として記念碑的に残されているようだ。かなり損傷している。補修されず処分される運命にあるのだろうか。


 駅構内の雰囲気も素晴らしい。駅表示も古いままで、終着点も雑草に覆われている。


 そして正面は洋風だった駅舎もやはり木造だった。ここから「岸里玉出駅」まで約10分。そこで南海本線に乗り換える。途中の駅も皆素晴らしい駅だが、途中下車すると次の電車まで30分待たなければならないので今回は見送ることにする。そう、この線は営利中心の私鉄にしては珍しく1時間に2本しかないローカル線なのだ。昭和で時代が止まっているようだ。


 ということで「岸里玉出駅」で乗り換え、今回のスタート南海電車「浜寺公園駅」に到着。この駅も素晴らしい「レトロ駅」。明治40年に建てられた。


 駅舎自体が国の登録有形文化財に指定されている。「難波駅」から「堺駅」で各駅に乗り換え約24分、320円。


 和歌山方面行きホームにある待合室も超レトロだ。


 駅前から真っ直ぐ進むと府道204号線に出る。その角にも何やら小さな駅が。大阪唯一のチンチン電車「阪堺電車阪堺線」の終点「浜寺駅前駅」。自分自身も「駅」のくせして駅名に「駅前」を名乗る謙虚な駅である。


 府道204号線をはさんで、すぐ前にあるのが「浜寺公園」。戦前は海水浴場のある公園であったが、昭和30年代、沖合が埋め立てられ堺泉北臨海工業地となり、白砂青松の海岸はスポーツ施設や交通公園などのある総合公園として生まれ変わった。


 園内にはばら庭園があり、250種6500株ほどのバラが鑑賞できる。入場は無料だが、開園は3月16日から12月15日までの午前10時から午後5時までとなっている。


 冬バラの時期は10月下旬ころからであり、訪れたときはまだ3~4分咲きという感じだった。


 ばら庭園の裏口を出たところが堺市(西区)と高石市の市境。そこを右折し海へ向かう。海水浴場は失われたが、埋め立てによりできた全長4km幅200mが浜寺水路となった。浜寺公園に沿った2kmは一般船舶の航行が制限され府営の漕艇センターとなっている。


 阪神高速湾岸線の向こうには堺泉北臨海工業地帯の煙突群が見える。


 園内を子供汽車というミニ列車が走り、護岸を450mほど歩いたところで左側に子供汽車のガードが見えるので公園に戻る。園内には約5500本の松が植えられ「日本の名松100選」にも選定され往時を偲ぶことができる。


 この通路を真っ直ぐ進むと公園を抜ける。先ほど渡った府道204号線を越え、少し歩くと南海本線の踏切があるので渡る。目の前にあるのは東羽衣駅。JR阪和線鳳駅から1駅1.7kmを結ぶ支線「羽衣線」の終着駅で空中に高架線の終点が飛び出ている。


 再度、踏切を渡って銀行の横を左折し南へ下る。しばらく歩くと大きな建物と長い塀が現れる。


 200mほど進むと「ほんみち」という宗教団体の教団本部に出る。


 そのすぐ向かいに大鳥羽衣濱神社がある。ここの御祭神である両道入姫皇女は、日本武尊の后で仲哀天皇の母にあたる神様だ。


 この辺りは、羽衣砂丘という砂丘地帯だったのだろうか。


 今日最初の神社で無事を祈願し、神社の裏門から失礼する。住宅街を抜ける。


 真っ直ぐ進んでいくとガードが現れる。そこは南海電車羽衣駅からの高師浜駅まで2駅の支線「南海高師浜線」の途中駅「伽羅橋駅」。特に変わった駅ではないが「伽羅橋」と書いて「きゃらばし」と読む。


 高架線下の小さな駅で駅前(下?)商店街もあるが、全てシャッターが下りていた。


 高架下の商店街を進み、一旦、高架から離れ府道204号線を渡り、再び高架下へ。背伸びすれば手が届きそうな高架下を進んでいく。


 高架が終われば終点の「高師浜駅」。大正8年に開業した洋風の小さな駅だ。手前に見えるのは、日露戦争当時、付近にあったロシア人捕虜を収容した「浜寺俘虜収容所」の案内板。戦争終結後、捕虜は全員帰還したという。


 ステンドガラスの飾りが施されている。南海電車にはレトロな駅が多い。この駅も住民の要望により取り壊しを免れたそうだ。


 高師浜駅前から一旦府道204号線に出て左折する。丁度、駅の裏辺りに高石神社がある。


 お参りを終え、境内の脇に進むとだんじりの整備をしていた。今日歩くコースも岸和田同様、だんじり祭りが盛んな地域だ。


 神社前の交差点から鋭角を描いて小さな道が進む(写真左)。「紀州街道」。大坂と和歌山を結ぶ街道で、一部、国道や府道と重なるが、あちこちに昔の街道筋が残っている。これより紀州方向に歩く。


 所々、古い屋敷が残るが、かなり宅地開発は進んでいるように感じる。


 途中、大師堂に立ち寄る。「南無大師遍照金剛」。


 今は、ある建設会社の寮となっている大きな屋敷前に出る。

 
 屋敷の前には「紀州街道」の案内板。


 真っ直ぐ進んでいくと「王子交差」で府道204号線と「X字交差」で交わるので信号を渡り、右手の街道へと進んでいく。


 この辺りは先ほどの筋より古い家が多いようだ。




 しばらく進むと緑に包まれた大きな屋敷の土塀が現れる。


 紀州の殿様が参勤交代の折に滞在したという「田中本陣」。一般公開はされていないが、街道沿いに当時の長屋門が残る。


 本陣を過ぎてすぐに四つ角を左折し、府道204号線を渡ると右に円墳のような小山が見える。田中本陣の宗家は、清和源氏の流れをくむ名家とか。この小山は「牛滝塚」といい田中家代々の墓所である。見学後、再度、元の紀州街道に戻る。


 堺泉北有料道路高架手前が高石市と泉大津市の市境。一旦、府道204号線に出た後、大型電気店を過ぎて元の紀州街道に戻る。泉州は、昔から「織物の町」として栄えてきた。特に泉大津は、羊毛の輸入に伴い「毛布」の生産高日本一を誇る町となった。市内には、今も多くの紡績工場が残る。もう廃業したのだろうか、古い木造の紡績工場。この「のこぎり屋根」が紡績工場の特徴だ。


 大規模な工場の中に多くの個人経営の工場が残る。木造のレトロな建物の「灰原化繊」。


 一旦、道は府道204号と合流するが、府道沿いの「千百松商店」。この会社の奥にも「のこぎり屋根」の工場が残る。


 角に泉大津警察署がある春日町南交差を右折し、すぐ左のカーブに沿って進んでいくと商店街のアーケードに出る。


 その手前に「大津神社」。かつては若宮八幡と呼ばれていたが、明治41年に近辺の4社を合祀して大津神社となった。


 大津神社前を道なりに進んでいくと「中橋」という橋に出る。そこから約300mの道は「浜街道」と呼ばれ、古い住宅や紡績工場が並ぶ。







 神明町、東港町、本町辺りは、500m四方に各宗派8つの寺が並ぶ寺町でもある。
 

 伝統的な家屋が並ぶ。






 比較的大きな紡績工場も混在する。


 古い町であるがかなり新しい家も建ち始めているようだ。


 ここにも「のこぎり屋根」の紡績工場が。


 古い街並みを後にする。




 戎町交差で府道204号線を渡り、南海本線のガードをくぐると大規模書店やビデオ店が並び、一角にチェーン系列の食堂が見えてきた。


 時間は12時15分。ここで昼食とする。いわゆる「めし屋」式の食堂だ。この手の店は一品一品は安いが、あれこれ注文すると結構な値段になる。私は、ごはん(小)、みそ汁、玉子焼き、塩鮭を注文し「焼き魚定食」に。しめて661円。


 食堂の目の前には「泉州羊毛工業」という比較的大きな繊維工場。白壁・板塀の工場が道路沿いに60メートルほど続く。


 次の信号を左折する。小学校を過ぎると「大津毛織」。


 かなり大きな紡績工場で、このあたり一帯を閉めている。古い木造の建物。歴史があるのだろう。


 ここにも「のこぎり屋根」。


 大津毛織から住宅街をひたすら歩く。1kmほど進むと左手住宅街越しに「穴師公園」という大きな公園が見える。グランドでは、少年たちがサッカーの試合をしていた。


 公園を抜けた所の地蔵尊を左折する。


 道なりに進んで行くと泉大津市立穴師小学校の横に出る。鳥居をくぐったすぐ右には「湧井戸地蔵尊」。常に湧き水が出ており、多くの人が水汲みに訪れる。


 地蔵尊の並びに「穴師薬師堂」。この後訪れる「泉穴師神社」の神宮寺であったらしいが、今は昭和40年に再建された薬師堂だけが残る。


 200メートルほどで「泉穴師神社」の境内に。鳥居の後ろには、とても渡れそうにない太鼓橋が。この神社は、泉大津市内最大の神社で20~30メートルの楠木12本は、市指定天然記念物に指定され、境内の景観は江戸時代と大きく変わらないとか。


 神社裏の地車庫横を抜ける。


 ここは、豊中という集落で古い街並みが残る。
 

 しかし、しばらく進むと突然、大きな通り「国道26号線」にぶつかる。目の前の歩道橋で国道を越え右折する。


 次の「要池団地東交差」を左折し、200mほど商店街を歩く。途中から和泉市に入り、JR阪和線の踏切を渡って右折すれば「和泉府中」の駅前だ。比較的大きな駅で駅前も賑やかだが、やはり「JR」。何か寂れた感じが漂う。


 地図を頼りに阪和線沿いに南へ。1キロほどで「槇尾川」に出るので、左先に見える「柳田橋」まで川沿いに350mほど歩く。


 橋のたもとを左折すれば、すぐ左に「子宝地蔵尊」という地蔵がある。


 その前に「井ノ口王子跡」の石碑が。「王子」とは「蟻の熊野詣」と呼ばれるように多くの人々が熊野三山にお参りをし、道中、旅人の休息と宿泊、難行苦行の道をつなぐために設けられた摂社で、99の王子があったと言われることから「九十九王子」と呼ばれる。そのうち今回歩くコースには3カ所の王子が存在した。そのひとつが「井ノ口王子」で今は、後ほど訪れる「泉井上神社」に合祀されている。


 井ノ口王子前の交差点から斜めに入る道が見える。これが熊野街道だ。説教節という芸能に登場する「小栗判官」という伝説上の人物が照手姫に手を引かれ、この道を通って熊野詣をしたことから、この辺りでは熊野街道のことを「小栗街道」と呼ぶ。ここから「小栗街道」を大阪方面に折り返す。


 街道沿いらしい古い家が並ぶ。




 国道480号線を越え、右に「日蓮宗妙源寺」というお寺が見えれば路地を左折する。100メートルほどで「泉井上神社」の前に出る。この神社は「神功皇后」らをお祀りし、霊泉が湧出したことから、この地を「和泉の國」というようになったと言われているが、その泉はすでに枯れてしまったらしい。


 神社裏には地車庫が二つ並ぶ。


 小栗街道に戻り、旧家を見ながら進む。




 府立伯太高校の正門前に熊野街道の碑が立つ。


 左に曲がるカーブに出れば、右の細い道に進む。すぐに和泉市立伯太小学校の裏門前に出る。明治6年、伯太藩の藩校を仮校舎として創立、その後、現在の場所に移ったが140年の歴史を有する古い学校だ。


 伯太小学校から少し進むと右からの脇道と交わり、そこに石の道標が残る。「小栗街道」と刻まれている。


 すぐ前の交差点の右方向に何やら大きな施設が。「陸上自衛隊信太山駐屯地」。大正8年、大阪法円坂から陸軍野砲兵第4聯隊が移駐。終戦後の一時期、進駐軍が駐留したが、その後、陸上自衛隊第3師団第37普通科連隊が駐屯する。駐屯地東方に広がる「信太山演習場」は、官有地として旧軍から自衛隊に引き継がれたことから開発を免れ、今も豊かな自然が残る。


 暫し小栗街道を離れ、駐屯地前の緩やかな坂道を下る。郵便局のある交差点を右折、村の中に入っていく。この辺りには4つの寺院が集中し、一角に薬師堂が立つ。


 古い街並みが残る。


 寺院の塀越しに「下伯太地車庫」が見える。


 路地を抜けていくと「伯太神社」に出る。応神天皇ら10柱の神々を祀る。神社の前には、かつての神宮寺「龍雲寺」の堂が。


 藤原不比等の祖神も祀る古い神社であるらしい。


 伯太神社の北側路地を東に進み、点滅信号のある四つ辻で小栗街道と合流、左に進み伯太町4丁目交差で府道を渡ると「放光池1号公園」という公園に出る。公園入口に高灯籠が立つ。およそ300年前、池の堤に立つこの石灯籠が大阪湾を往来する船の灯台の役目を果たし、そこから、この池が「放光池」と呼ばれるようになったとか。灯籠前に四等三角点が埋められている。


 公園の中を抜け、次の交差点で信号を渡った左角に今回2つ目の王子社である「平松王子跡」の碑が立つ。今は、先ほど訪れた「伯太神社」に合祀されている。


 そのまま進み、市営住宅56号棟を過ぎたところで右の坂道を上る。57号棟を過ぎると、すぐ右に小さな森が見える。公園を抜ければ「永尾神社」に着く。神棚のような小さな神殿だけの神社だ。


 永尾神社から坂道を下り、小栗街道と合流したところに「南王子村の高札場」が再建されている。


 そのすぐ後ろに「八阪神社」が鎮座する。


 このコース最後の王子社「篠田王子跡」に向かう。およそ300m進むと右に赤レンガ風の住宅が見える。通り過ぎて振り返れば小さな案内板があるのだが少々分かりづらい。もし、行き過ぎれば右側に「聖神社」の大鳥居が見えるので20mほど逆戻りすれば良い。


 「篠田王子跡」。信太王子とも呼ばれる。後ろに見えるフェンスの内側に小さな社があるが、門に鍵が掛けられており中には入れない。今は、この後訪れる「信太森神社」に合祀されている。


 これより「信太の森」を訪れる。信太伝説については「能勢、3つの伝説を訪ねる」「陰陽師ゆかりの地~阿倍野~」でも軽く触れているが、本場のこのページでは、少し行をさいて説明しよう。「信太伝説=葛の葉物語」。浄瑠璃や歌舞伎、文楽など多くの芸能で取り上げられていることからいくつかの筋があるようだが、概ね次のとおりだろう。

 「村上天皇の時代、河内の國に住むある男が妻の病を治すため狐の生肝を得ようと和泉の國「信太の森」で一匹の白狐を射る。ちょうど信太大明神に参拝していた摂津の國の人、安倍保名という男がその白狐を助け逃がしてやるが、その際、傷を負ってしまう。その後、葛の葉という美女に姿を変えた白狐が安倍保名を訪ね看病するうちに一人の童子を授かる。しかし、6年後の秋、菊の花に見とれていた葛の葉が、うかつにも童子の前で正体を現してしまい「恋しくば たずね来てみよ和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」という歌を残して信太の森へと去っていく。その童子が、後の陰陽師、安倍晴明。」

というお話だ。このページの副題「摂河泉」にまたがる物語である。

 篠田王子跡から小栗街道に出て右折。すぐに聖神社の大鳥居が右に見える。鳥居をくぐり緩やかな坂道を上って行く。


 団地からの三叉路を過ぎ、次の三叉路を右に曲がり道なりにカーブを曲がって地蔵尊の横を上って行けば前方に森が見えてくる。「信太の森」。聖神社の神域だ。鳥居をくぐって進んで行く。


 聖神社。白鳳3年(675年)創建と伝えられる古い神社で、別名「信太明神」。天照大神、瓊々杵尊、饒速日命、木花開耶姫命、磐長姫命など高天原系の神様を祀る。入母屋造檜皮葺の本殿は、国の重要文化財に指定されている。


 聖権現大神の碑の後ろは鬱蒼とした森。「信太の森」とは、聖神社の森だという節が有力だとか。

 
 神社の境内を抜け「信太の森」沿いに歩き、最後の赤い鳥居を抜ければUR都市機構(旧公団)団地に出るので左折する。しばらくすると左に小さな池が見えてくる。「信太の森鏡池」。葛の葉伝説の舞台として伝承され、安保と葛の葉が出会い、童子(安倍晴明)との別れの場と伝えられる。また、葛の葉に姿を変えた白狐が姿を映したと伝えられていることから「鏡池」と呼ばれている。


 そのまま坂道を下って行くと、先ほどくぐった聖神社の大鳥居で小栗街道と合流する。右折し、小栗街道を進む。


 鳥居前から200mほど進み、右にタバコ屋さん(元は呉服店だったようだ)がある三叉路を左折すると「旧府神社」の前に出る。「旧府」と書いて「ふるふ」と読む。本殿の横には「尾井町地車庫」。


 また、境内の隅には「白狐化石(ばけいし)」が。猟師に追われた白狐(葛の葉)が隠れた石と伝えられ、元々街道沿いにあったものが境内に移されたという。


 神社横の小径を入っていく。突き当たりの道路には、今は潰れててしまった食堂跡が。「保名食堂」の保名とは安倍保名のことだろう。


 この坂道を下って行く。小栗街道に交わり右手に見えるこんもりとした小山は「信太貝吹山古墳」。さらに緩やかな坂道を下る。


 JRの踏切を渡れば左に赤い鳥居が見えてくるので左折して鳥居をくぐる。右手には葛の葉町の地車庫。シャッターには、葛の葉が童子と分かれたときに詠んだ「うらみ歌」が書かれている。


 そのすぐ隣の神社が「信太森神社」。別名「信太森葛葉稲荷神社」。稲荷社であるので宇迦御魂神(ウカノミタマノカミ)を祀るが、ここも「葛の葉伝説」の舞台として安倍保名に助けられた白狐「葛の葉」をお祀りする。また、「篠田王子」も合祀されている。


 境内には葛の葉が詠んだ「うらみ歌」を刻んだ「狐の碑」が。後ろは本殿とご神木である「千枝の楠」。


 この境内も保名と葛の葉が出会った「信太の森」と伝えられ、葛の葉に姿を変えた白狐が姿を映したという「姿見の井戸」が残る。


 神社裏の鎮守の森。おそらく聖神社や信太山演習場にかけ、この辺りには鬱蒼とした「信太の森」が続いていたのだろう。
 「葛の葉伝説」。「信太の狐火」「狐の恩返し」など怪談話とも取られる向きもあるが、男女の愛、夫婦の絆、親子の情を伝える良い話だと思う。


 来た道を戻る。踏切を渡って左へ。すぐに「JR北信太駅」の前に出る。駅の壁には、口で筆をくわえ障子に「うらみ歌」を書く葛の葉の絵が掛けられていた。ここから途中で快速に乗り換え「天王寺」まで約20分(290円)。本日の歩紀6時間。


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