「野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~」

写真と簡単な文章で綴る大阪府内を歩いた足跡です。

能勢氏ゆかりの里をゆく

2011-06-05 11:48:38 | 日記
訪問日:平成22年4月25日(日)
出 発:阪急バス「本滝口」
到 着:阪急バス「倉垣」

 大阪府豊能郡(能勢町、豊能町)。旧「豊島郡」と旧「能勢郡」が合併し、それぞれの頭文字を取って明治29年に誕生した。その後「豊」にあたる「豊中」「箕面」「池田」が市制に移行し「豊島郡」は消滅したのだが「豊能郡」の郡名はそのまま残った。旧東能勢村が町制に移行した際、豊能町となったことから、そのまま郡名に引き継がれたのかもしれないが、豊能町自体は豊島郡とは縁のない、つまり旧能勢郡である。

 「能勢」。鉄道が通じなかったため大阪府下でも奇跡的に市街地化を免れ、古き日本の原風景を保っている。この地は「清和源氏」の後裔が能勢氏を名乗り、丸山城を居城として治めたと言われる。その能勢氏ゆかりの里を歩く。

 ほぼ平坦な舗装道を歩く。「妙見口駅」前には売店とトイレ、「けやき資料館」には自販機とトイレがあるが、後は国道沿いに時々自販機がある程度だ。(歩行距離16キロ)


 能勢電車「妙見口駅」。ここは妙見山方面への参拝、登山の基地だ。多くのハイカーたちで賑わっていた。


 駅から少し南に歩いたところにバス乗り場がある。ここから「奥田橋」方面のバスに乗る。便数は少ない。東ときわ台循環やケーブル前行きのバスも出ているので乗り間違えないように。


 妙見口駅前を出て約15分(350円)。「本滝口」バス停で下車。ここは「能勢、3つの伝説を訪ねる」のゴール地点でもある。バス停脇には1341年の作と言われる「野間中地蔵石仏」がある。


 バスを降りて前方の野間交差点を左に進むと大きなケヤキの前に出る。「野間の大けやき」といい、樹齢1000年、けやきとしては全国4番目の巨樹で国の「天然記念物」に指定されている。すぐ横に「けやき資料館」という建物がある。


 ここから田園が開けている野間西山地区に向かう。途中、炭焼き窯があった。もう使われていないのか青草に覆われている。


 西山地区の奥に「日蓮宗今養寺」があった。「まんが日本昔ばなし」に出てきそうな山寺である。平安時代作で国の重要文化財に指定されていた「木造大日如来坐像」は、ここを訪れる少し前の平成22年3月、盗難にあったらしい。犯人に罰が当たっていることを祈った。


 西山の集落を通り抜け道なりに進んでいくと、このあたりの郷社「野間神社」に出る。


 神社を過ぎると国道477号線に出るので左折し、地黄郵便局の前を過ぎたところで脇道にそれる。豊能警察署の裏を通り、四つ辻を右に曲がると再度国道477号線に出る。道脇にはちょっとレトロな公民館や築100年を越える酒屋さんなどがある。




 そして国道を渡ったところが「地黄城跡」だ。当時の大手門だろうか立派な石垣が見える。一時は没落した能勢一族を再興した23代「能勢頼次」が丸山城から移り住んだところで「地黄陣屋」とも呼ばれた。


 今は町立中学校になっており、校庭の隅に城跡を伝える石碑が建っているだけだが、印南積みと呼ばれる石垣は完全な形で残っている。


 城跡を出て少し北へ歩くと「真如寺」への参道に出るので山手へと登っていく。10分ほどで真如寺に着く。ここは、法華経を深く信仰した能勢頼次が開いた日蓮宗の寺院である。この寺の飛び地が妙見山上の「能勢妙見」であるが、飛び地の方が有名になってしまった。しかし、ここは関西身延霊場とも呼ばれる近畿地方唯一の日蓮宗霊場であるらしい。


 地黄城跡の前まで戻り、もう一度国道を渡って村の中へと入っていく。ひげ文字で書かれた石塔が迎えてくれる。清普寺への入り口だ。


 村を通り抜け水田を過ぎ、山手へと歩いて行くと、なだらかな石段の上に山門が見えてきた。能勢氏一族の菩提寺「日蓮宗清普寺」。


 門をくぐり左手へと進むと一族の墓所へと出る。代々の墓が並ぶ姿は壮観だ。


 寺を出て左前方を仰ぐと小高い山が見える。山というより古墳の築山のようだ。ここが能勢氏が最初に居城を構えた「丸山城跡」である。田んぼの畦道を通り抜け5分ほど山道を登ると頂上に至る。今は小さな祠があるだけだ。


 村を抜け国道477号線に出て北へ向かうと倉垣のバス停に出る。ここは、今回のコースの最終点であるが一旦通り過ぎる。倉垣交差の手前で右の山手を見上げると小さなお堂が見える。倉垣の「薬師堂」だ。映画に出てくるような風景だ。


 さらに国道477号線を北上すると歌垣山登山口に出る。その横に「消防団の詰所」がある。映画「砂の器」の亀嵩駐在所のような建物。ここは「浄瑠璃の里を歩く」の最終地点でもある。


 詰所を過ぎると「倉垣天満宮」の大きな石灯籠と鳥居が見えてきた。境内の樹齢400年といわれる大イチョウは府の「天然記念物」に指定されている。ここは「歌垣山」の麓だ。歌垣とは、昔、若い男女が集い歌を詠みながら交流を深めたという男女の出会いの場だったらしい。


 参拝後、「豊能町立歌垣小学校」の脇を抜けて下っていく。学校の入り口横には、二宮金次郎の石像が。


 国道477号線に出ると能勢の地酒「秋鹿酒造」がある。日本酒ファンには結構有名な蔵元だ。


 さらに国道477号線を北上する。奥田橋で府道と交差するので左の山の手へ入る道へと進む。「吉野」の集落だ。ここにも法界石塔が。青空のかなたに見える峠が「ひいらぎ峠」である。


 集落の真ん中を国道が貫いており、まず国道西側の集落を「ひいらぎ峠」目指して歩く。山沿いに古い農具などが置かれた納屋や石灯籠などを見ながら進んでいく。


 途中、湧き水が涌いていた。この上は「釈迦ゲ嶽」といい、昔から良質の清水が湧いていることで有名なところ。


 小さな野小屋の前を通ると突然「メエー」という声がした。のぞき込むと二頭のヤギ。人なつっこい。乳でも搾るのだろうか。


 集落を抜け国道と合流する。ここが京都府との境「ひいらぎ峠」。昔「吉野の関」という関所があったらしい。摂丹の国境である。


 ここでUターン。しばらく国道を南下し、その後、左にそれて国道東側の集落を歩く。緩やかな斜面に田園が開けている。


 田んぼの真ん中に大きなお堂が見えてきた。「吉野の薬師堂」。


 屋根はトタンで葺かれているが、下から見上げると立派な茅葺きが見えた。1500年中頃に建てられた「国指定文化財」である。


 国道と合流し元の奥田橋に出る。吉野の集落を一周したことになる。ここからは府道に入り倉垣の水田地帯をひたすら歩く。ここは「浄瑠璃の里を歩く」コースでも歩く道だ。能勢を縦横無尽に歩くのでコースが重なるのは仕方ない。

 20分ほどで「清正公前」という四つ辻に出る。「清正」とは加藤清正のことらしい。辻を左折し、すぐに脇道があるので進む。「清正公堂」と書かれた看板と鳥居がある。鳥居をくぐり急な石段を登るとお堂があった。これが加藤清正をお奉りする清正公堂だ。


 少し離れたところに清正の手形といわれる手形碑がある。


 清正公堂を出て左前方に「歌垣山」を見ながら進む。10分ほどで今回のゴール、先ほど通り過ぎた阪急バス「倉垣」停留所。およそ4時間10分の「歩紀」。ここからバスで約20分(490円)で能勢電車「妙見口駅」に着く。

能勢、3つの伝説を訪ねる

2011-06-05 11:48:10 | 日記
訪問日:平成22年3月28日(日)
出発:阪急バス「山辺口」
到着:阪急バス「本滝口」

 摂津國御荘園から能勢の領主「能勢家包」のもと能勢大里に嫁いできたが、その美貌から平清盛に見そめられ苦悩の末、家包に操を立てて自害したと伝えられる「名月姫」。
 和泉國「信太の森」と同様の「葛葉伝説」が伝わる能勢田尻。ほかにも壇ノ浦で討たれたという幼帝「安徳天皇」が潜幸されたと伝わる能勢野間など伝説の地を歩く。

 軽い起伏のある舗装道を歩く。出発点の山辺口停留所前には大型スーパーが。途中立ち寄る「けやき資料館」には自販機とトイレがあるが、それ以外は、いくつかの自販機と寺社の参拝者用簡易トイレがあるくらいだ。(歩行距離19キロ)


 能勢電車「山下駅」は兵庫県川西市であるが能勢方面へのバスの出発地点となっている。


 ここから阪急バスで約20分(400円)で「山辺口」停留所に着く。目の前には能勢で最も大きいスーパーがある。トイレ、銀行ATMも備えており、食料・飲料水もすべて揃う。


 ここは「大阪府豊能郡能勢町来栖」。能勢町は「山辺川流域」「大路次川流域」「田尻川流域」に開けた盆地と旧能勢街道沿いに栄え、能勢一族が居城を構えた「地黄・野間」の大きく4つの地区に分けられる。来栖から2つの山塊を越え能勢野間まで歩く。ただし高低差は大きくない。まずは来栖の町を過ぎる。


 山手に入ると「曹洞宗洞雲寺」に到る。


 ここから坂を下っていけば大路次川に潤される水田地帯に出る。川を越え山手を見上げると細い峠道が見える。府道の迂回路があるが「歩紀」なので府道は通らずこの小さな峠道を登る。


 息が切れるまもなく迂回路の府道と交差する。ここが「名月峠」だ。


 摂津國御荘園(現在の尼崎市)の領主の娘として仲秋の名月の夜に生まれたことから「名月姫」と名付けられたこの姫は、能勢の領主「能勢家包」の妻として能勢大里で幸せに暮らしていたが、美貌を聞きつけた「平清盛」に見そめられ能勢の地を去ることに。そして道中この峠で家包に操を立て自害したという。峠のすぐ上の森の中に墓所はある。


 峠を下れば田尻の集落に出る。


 「日蓮宗長久寺」


 集落から府道に下る。大阪では珍しい駐在所。

 
 府道沿いにも立派な旧家が見られる。湿気の多い能勢地方。腐食から守るため板塀が漆で朱色に塗られている。


 府道から山手に入る。炭焼き窯があった。きれいに草が刈られているので現役だろうか。


 山の中腹から「田尻川」と流域の水田地帯を望む。田尻川は「釈迦ケ嶽」の清水を集め、倉垣とここ田尻の田を潤して「一庫ダム湖」に注ぐ。


 「日蓮宗薬善寺」という小さなお堂の横に佇む「胎蔵界大日一尊種板碑」。能勢には石の文化財が多数見られる。


 山から府道沿いに向かって下りる。途中、土塀に藁葺き屋根の建物があった。農具庫として使っているのだろうか。


 府道に出て田尻川沿いに進む。野間方面への峠道に入るための三叉路に出るが、ちょうどこの突き当たりの田尻川敷に小さな温泉がある。
「山空海温泉」というが、ちょっと有名な秘湯でインターネットにも多くの投稿があるので興味のある方はアクセスを。私も10回くらい来たことがあるが、確かに良いお湯だ。大阪では珍しく「硫黄臭」のする湯だ。


 三叉路を野間方面に入る。上りであるがそう高低差はない。すぐに「信田の森」という案内板がある。


 すぐ後ろに山への入り口のように赤い鳥居が立つ。


 信田(信太)の森といえば和泉國に伝わる伝説だ。「安倍保名という人物が和泉國信太の森で白狐を助け、その白狐が葛葉という美女に姿を変え保名に嫁ぐ。その間に生まれた童子が後の陰陽師、安倍晴明」というお話だ。その「信田(信太)の森」がこの地にも伝わる。この森の前には冷泉があり、かつて保名が葛葉とともに湯治に訪れ、ここで最後を迎えたという。鳥居をくぐって境内へと進んだ。鬱蒼とした森の中に小さな社があり、境内の片隅に「安倍保名」の供養塔といわれる宝篋印塔がひっそりと佇んでいた。

 信田伝説については、大阪市内編「陰陽師ゆかりの地~阿倍野~」、和泉編「浜寺から織物の町、小栗街道を経て信太の森へ」でも触れる。

 しばらく歩くと小さな峠を越え野間の集落に入る。「能勢氏ゆかりの里をゆく」では野間西山の今養寺を訪ねたが今回は野間を横断する。ここには安徳天皇伝説が伝わる。「安徳天皇」とは壇ノ浦の戦いで源氏に討たれ母とともに入水、8歳で崩御したという悲劇の幼帝である。その安徳帝が戦場を脱し、侍従4人とともに「野間の郷」に潜幸され、この地で崩御されたというのである。野間出野に「岩崎神社」という神社がある。この神社に鳥居はない。ちょうど山塊から岬のように飛び出した古墳のような丘を境内とし、安徳天皇を御祭神として奉っている。


 そしてこの古墳のような山の麓をぐるりと周り案内板に従い、山へ入ると「安徳天皇御陵墓」と書かれた石塔の前に到る。比較的新しい石塔であるが、ここが安徳天皇陵と伝えられているところだ。この山は「来見山」という。この山全体が墳墓なのだろうか。


 山を下りさらに野間の集落を進む。


「能勢氏ゆかりの里をゆく」でも立ち寄った「野間の大けやき」で休憩。いつ見ても大きな木だ。かつてあった「蟻の宮」という神社のご神木であったらしが、樹齢1000年を超える。能勢一族の興亡や保名と葛葉、安徳帝らの生涯を見守ってきたのだろうか。


 さらに東へ進む。消防団庫は日本の原風景において大きなポイントだ。


 野間中の交差点を妙見山方向に向け東進する。駐在所の手前に大きな石碑がある。「野間中地蔵一尊種子板碑」1431年の造らしい。


 裏手には菜の花が美しい野間の田園風景が広がる。田んぼには小さな古墳もある。


 野間中の集落を進む。


 妙見山への参道であり途中「阿弥陀六地蔵磨崖仏(1564年造)」などの石仏も多い。


 立派な石灯籠も見られる。


 石灯籠の左脇に小さな石が二つ。一つは妙見奥の院まで8丁を示す「丁石」。もうひとつは「野間の力石」といわれるものだ。能勢の地は村相撲が盛んであったらしく、村力士や若衆らが力自慢で使ったものだという。


 府道から左にそれ野間大原の集落に入る。ゆっくりと坂道を登っていく。途中「日蓮宗興徳寺」に立ち寄る。ここはかつて天台宗寺院であったようだが領主、能勢頼光が日蓮宗に帰依したことから、領内の寺院の多くは日蓮宗に改宗されたそうだ。境内には、天台宗時代の名残だろうか、梵字が刻まれた石碑や府内最古(1296年造)といわれる「宝篋印塔」などが並ぶ。


 村の最上部には「来見社」という神社がある。野間大原の鎮守社であるらしいが安徳天皇をお奉りする。


 もとの道を戻り今度は野間川の南側、野間中の集落に入る。


 民家の石垣にも何やら文字が。


 野間中共同墓地の中に「舟形厚材状十三仏板碑」がある。


 まさに鎮守の森という体の「天王山神社」。ここら辺りから小雨が降ってきた。急いで本日のゴールに向かう。


 「能勢氏ゆかりの里をゆく」の出発点であった阪急バス「本滝口」停留所が今日のゴールだ。バス停脇には「野間中地蔵石仏(1341年造)」が。ここから能勢電車「妙見口駅」まで約10分(350円)。およそ5時間40分の「歩紀」だった。






彼岸花とコスモスが咲く秋の棚田を訪ねる

2011-06-05 11:47:28 | 日記
訪問日:平成22年10月11日(月) ~体育の日~
出 発:阪急バス「余野」
到 着:阪急バス「余野」

 「大阪府豊能郡豊能町」。旧能勢郡の東に位置し、昭和52年までは「東能勢村」といい、南河内の千早赤阪村とともに大阪に残る「村」のひとつであった。中央の山塊を境に西地区と東地区に分けられる。西地区は町の入り口である妙見口まで「能勢電車」という鉄道が通じており、大規模な住宅地が造成されているが、東地区は鉄道がなく「能勢町」同様、市街地化を免れ日本の原風景が残されている。

 コスモスと彼岸花の時期、棚田が広がる東地区の寺田・牧を訪ねた。

 ほぼ平坦な舗装道を歩く。近道で山に入ることもあるが登山には至らない。余野のバス停周辺には町の公共施設やコンビニがあり給水、トイレには困らないが、コース途中は自販機がある程度だ。(歩行距離16キロ)

 「余野」。豊能町役場など町の行政施設が集まるが小さな盆地の集落である。阪急池田駅方面から阪急バスが通う(約40分540円)。写真は、能勢電鉄「妙見口駅」がある豊能町西地区からの巡回バス(100円)。阪急バスに委託されているが町営でその絵柄から「タンポポバス」と親しまれている。


 ここから国道423号線を北上し「切畑口」という交差点で一旦国道から外れる。「石の文化財、余野の石仏」でも訪れる「浄土宗遊仙寺」という寺に行く。そこから裏に抜け林間の一本道を150メートルほど進む。


 小さな祠に出る。「天武天皇宮跡」だ。「石の文化財~余野の石仏」で訪れる「走落神社」の石灯籠は、明治40年ここから移されたもので、銘文には「大婦天皇御宝前」と刻まれており、天武天皇が大武天皇とも呼ばれ「大武」に「大婦」の字を当てたことから、「大婦→大武→天武」。ここが「天武天皇宮跡」と言われるようになったらしい。


 宮跡から50メートルほど戻り左の藪道に入る。藪と田んぼを抜けると農道に出る。地図によればここから山を越えて寺田の集落に抜けられるはずなのだが…途中大きなため池に行く手を阻まれる。地図を頼りに何とか村里へと抜けることができた。ここら辺りは標高で言うと400メートルくらいだろうか。


 田んぼの間の道を歩く。少し時期が遅いかも知れないが、道ばたの赤い彼岸花が美しい。


 寺田の集落を抜ける。


 道ばたには彼岸花が、


 休耕田にはコスモスが咲く。


 途中「井上宅のカヤ」という大木に出会う。旧家の石垣から生える樹齢推定300年以上といわれる大きな木だ。


 そのまま進んでいくと寺田公民館に出る。


 公民館の前に「大歳神社」がある。


 ここから下っていくが棚田が見え始めれば牧だ。牧の棚田は緩やかだ。


 途中「役行者石像」への案内板があった。少し進むとスネぐらいまでの草むらとなり湿気が多い。マムシが出そうだったので元に戻った。秋のマムシはよく噛みつくらしい。右に「鴻応山」が見えてきた。標高678.9メートル。数字の並びがおもしろい。豊能町の最高峰だが、牧の集落自体が400メートルくらいあるのでさほど高く感じない。


 国道423号線に出る。コースを外れて右へ行く。すぐに京都との府境に出る。道県境は海の上と青函トンネル。県境や府県境、都県境はいくつかあるが「府境」は大阪と京都の間にしかない。「大阪都」になれば「府境」もなくなる。その代わり「都府境」ができる。どうでもいいことだが。


 国道を元に戻る。「牧の公民館」。ここには自販機とトイレがある。


 牧の真ん中を国道が貫いており、国道の西側の集落を進む。


 しばらく行くと「牧大歳神社」に出る。鳥居をくぐるとすぐ大きな2本の杉が立つ。


 稲刈りが終わった田んぼに「赤とんぼ」が飛ぶ。


 刈られた稲が干されている。懐かしい風景だ。


 国道西側の棚田は細長く、結構奥まで続いている。


 棚田を抜けるとやたら車とすれ違う。その理由がわかった。まもなく「コスモスの里」というところに出る。家族連れやアベックで賑わっていた。


 入場は有料であるが外からでも満開のコスモスが楽しめる。


 小さな峠を越えると「野間口」の集落に出た。以前「悲劇の姫と信田の森」でも野間というを集落を訪れたが、そこは「能勢町」の野間だ。ここは「豊能町」の野間。能勢町と豊能町は妙見山から続く「野間峠」という険しい山で隔てられており、その東西に野間という地名が残る。
 「日蓮宗妙瀧寺」という寺を訪れようと一旦村のはずれまで登ったが、この寺は修行の場で観光客やハイカーは入れそうにないので、国道に向けて村の中を下りる。途中「野間口双体地蔵」という地蔵尊があった。


 村の入り口には「野間口妙見山道標」が立つ。「能勢妙見」は、全国的に知られるようになり、各地で「講」が組まれ、団体での参詣が盛んになった。各講により建てられた道標や丁石が妙見山周辺では多く見られる。


 国道423号線からそれ、余野の町並みを通りながらバス停へと向かう。


 本日のゴールである阪急バス「余野」停留所は、町役場前に乗り場があり池田方面へ向かう。本日の「歩紀」5時間30分。

 

 
 

古城と古刹、そして猪鍋うどん「高代寺山」

2011-06-05 11:46:45 | 日記
訪問日:平成23年1月30日(日)
出 発:能勢電車「妙見口駅」
到 着:能勢電車「妙見口駅」

 「大阪府豊能郡豊能町」の西地区。「妙見山」と並んで手軽な登山ルートとして親しまれている「高代寺山」に登る。西地区は「能勢電車」が通っているので大阪市内への通勤圏内であり「ときわ台」「東ときわ台」「光風台」「新光風台」という大規模住宅地が造成されている。しかし、これらの住宅地を除くとやはり田舎である。特に能勢町と違うところは、町の大部分が「山地」ということだ。

 今回は山の中の古城「吉川城址」を経て「女人高野」「高野山に代わる山」と言われる「高代寺山」に登る。吉川八幡神社までは緩やかな里道を歩くが、神社から先は「登山」である。特に今回訪れた日は雪がうっすらと積もっていたので道も凍結しており、久しぶりにキャラバンシューズを履いた。妙見口駅前には、売店、食堂、自販機、駅トイレがあるが、山に入れば何もない。高代寺に湧き水がある。
 妙見口駅を午前10時頃出発すれば、昼過ぎにはゴールできるので駅前で名物「猪味噌煮込みうどん」をいただくことにする。(歩行距離7キロ)

 能勢電の終点「妙見口駅」。木造の小さな無人駅である。トイレは改札の外にあるので乗客以外でも使用可能だ。後ろに見えるのが今回の目的地「高代寺山」である。


 駅前をスタート。右の建物は最近新しくできた「豊能町観光案内所」。左の赤いテントのお店がゴール後に食事をする「かめたに」というお店。このあたりで、レストランや喫茶店、料亭、栗園などを手広く経営している(ちょっと宣伝させてもらいました)。


 駅前を出てすぐに分かれ道に出る。案内板は高代寺は左と表示しているが、これは直接登るコースだ。今回は吉川城址に立ち寄るので、そのまま真っ直ぐ進む。


 なお、後ほど説明するが高代寺まで町石が置かれており、一つ目の「町石」がこの案内板のすぐ後ろ、川の護岸壁の上に立っている。


 大きな屋根の民家の脇を通る。「紅葉の里山と能勢妙見」では、この民家の玄関先を通る。


 15分ほど坂道を登ると「吉川八幡神社」との分岐点に出るので左折する。まっすぐ行けば妙見山への道だ。この田んぼは、春にはレンゲ、秋には彼岸花が美しい。今回はうっすらと雪化粧していた。


 ほどなく鳥居の前に出る。手水舎のタオルが寒さのため凍っている。


 「吉川八幡神社」の境内。社殿を左に見ながら進む。


 すぐに登山道への案内板がある。あっという間なので足下を見ながら歩いていると通り過ぎてしまうので注意。


 たぶんイノシシが掘り起こした跡だろう。


 一本道で案内板もあるので迷うことはない。


 途中振り返ると雪が残った「妙見ケーブル」の軌道が見えた。


 台場クヌギと呼ばれる薪、炭用の枝を切った跡のクヌギの木が見られる。吉川城の強者たちが暖を取り、飯を炊いたのだろうか。


 途中、「二の岩」「三の岩」への表示があり、その下に「何もない」と落書きがされていた。5分ほど道をそれて行ってみたが、よくわからなかった。この石がそうなのだろうか。結局見つけられなかった。とりあえず写真を撮っておいた(後の調べで、この岩は二の岩、三の岩とは関係ないことがわかりました)。


 足下にゴロゴロと石が見えてくればまもなく頂上だ。標高366.8メートルの頂上に「吉川城址」があった。この城は戦国時代この付近で勢力を振るった「吉川長仲」という武将の出城で、居城は妙見口駅前の小高い山の上にあった「井戸城」だと伝えられている(おそらく善意で迂回路の案内板を架けられたのだと思うが、写真撮影にはちょっと邪魔かな?以前はなかったのですが)。


 城址で休憩し高代寺に向かう。急な斜面を下ると鞍部があり「西ノ曲輪跡」と書かれていた。私はあまり城に関する知識はない。


 少し進むと右手に台場クヌギの群生があったので、道をはずしたところ何やら穴を発見。よく見る炭焼き窯ではないようだ。かと言って獣の巣穴でもないようだ。自然の穴に手を加え氷室のようにして食料を貯蔵していたのだろうか。


 尾根道をゆっくりアップダウンを繰り返す。この辺りは案内板も少なく、季節により道が雪や落ち葉、若草で覆われるので迷いやすい。基本的に尾根づたいに歩くので大きく高度を下げなければ大丈夫だろう。木に巻かれたテープを頼りに歩けばいい。


 尾根が終わると「吉川小学校」方面への分かれ道に出る。「こんな山の中に小学校?」と思うかも知れないが、この坂道を下れば小学校の横に出る。案内板に従い高代寺方面(右)に向かう。そしてまたしばらく歩くと「黒川」方面への分かれ道があるので、案内板に従い高代寺方面(左)へと進む。竹藪を進むとお地蔵さんが現れる。そのお地蔵さんを過ぎれば右に「高代寺の五輪塔」がある。ここまで来ればもうすぐだ。


 「高代寺本堂」。「真言宗御室派」の寺院で、1000年以上の歴史を有し「良寛」さんも訪れたという古刹だ。


 本堂前の階段を下りると鐘楼がある。


 境内を抜け進んでいくと「閼伽井御神泉」に出る。高代寺山の頂上は、ここからさらに800メートルほど進み、分譲霊園を過ぎて山の中に入ったところにある。標高488.9メートルの山頂には三角点があるが、横に大きなアンテナがあるだけで他には何もなく見晴らしも効かない。特に頂上を極めようとか、三角点を制覇しようという考えがないのなら、高代寺の本堂を頂上と思い下山してもいいのでは…(とりあえず私は頂上まで行ったうえでの感想です)。


 御神泉には今も清水が湧いているが、井戸は封印されており、一段低いところにタンクを置いてパイプで水が引かれている。御神泉の前で猟犬を連れたハンターが立ち話をしていた。鹿の猟期には多くのハンターが入る。決して道から外れないこと。そして迷彩色系ではなく、派手なウェアーを着よう。水飲み場のすぐ前に下山口がある。


 竹藪を抜け急な坂道を下っていく。湧き水と寒さによる芸術。


 付近の山ではNPO団体により炭焼きや筍採取、棚田での米作りなどが行われている。


 またこの道は、妙見口から高代寺までの参詣道である。途中には町石や地蔵などの石仏がたくさん見られる。




 「六地蔵」。


 冬の棚田。遠くに「東ときわ台」の町が見える。


 下っていくと分かれ道に出る。「旧山下道」との分岐点だ。下に転がっているのは江戸期の「道標」だ。まっすぐ進めば、妙見口駅への近道で朝見た一つ目の町石のあった分かれ道に出る。右に曲がり旧山下道へと進む(写真は下方から見ているので左の方向)。


 かつて吉川村(妙見口駅周辺)から大阪池田に出るには、明治に入り「花折街道(現在の国道477号線)」が通るまで、妙見道かこの旧山下道を通るしかなかったという。


 旧山下道は、一旦「新光風台」の住宅地で途絶える。道自体は住宅地を抜けたところで再度出現し、尾根を下って山下の町で能勢街道(現在の国道173号線)に交わる。今回は旧山下道には抜けず、ここを左折して新光風台、ときわ台の外周道路を通り妙見口駅へと向かう(上の山道から下りてきて舗装道を左折~写真では右~する)。


 坂を下りたところで「能勢電車」の線路と合流する。すぐ右に「ときわ台駅」が見える。この駅をゴールとしてもいいのだが、今日は「猪味噌煮込みうどん」を食べなければならないので左折し、妙見口駅まで一駅戻る。初谷川沿いの林間道は近所の人たちのウォーキングコースだ。


 能勢電車の踏切を渡る。


 さらに進むと突然景色が開ける。吉川の集落だ。中央左の山が「吉川城址」。その左に続く尾根道を歩いたのだ。妙見口駅に到着目前の能勢電車が走る。鉄道が通っているとはいえ「田舎」だ。右に見える寺の裏山に吉川氏の居城「井戸城」があった。遺構らしきものが残るらしいが今は「大自然天地日之大神教」という宗教団体の敷地となっており、立ち入ることはできない。田んぼを抜け、この寺の前を通って妙見口駅に向かう。


 妙見口駅のすぐ手前に橋が架かる。「城之下橋」という名のとおり右の山上に「井戸城」はあったのだろう。


 数十歩で妙見口駅に着く。「かめたに」で「猪味噌煮込みうどん(1575円)」を注文した。


 本日の「歩紀」2時間30分。

 

 

 

紅葉の里山と能勢妙見

2011-06-05 11:46:18 | 日記
訪問日:平成21年12月1日(火)
出 発:阪急バス「箕面森町地区センター」
到 着:能勢電鉄「妙見口駅」

 「能勢妙見」。正式には「日蓮宗無漏山眞如寺境外仏堂能勢妙見山」。大阪府豊能郡能勢町地黄にある「眞如寺」の飛び地である。「眞如寺」は、日蓮宗に帰依した能勢の領主「能勢頼次」が開いた同宗派関西唯一の霊場として、近畿一円から参拝者が押し寄せ「能勢の妙見さん」として親しまれている。

 妙見参りは、能勢電鉄「妙見口駅」を出発点とするのが一般的であるが、豊能町東ときわ台の東にそびえる「青貝山(391.4メートル)」の西麓から吉川の集落を抜け、兵庫県川西市黒川にかけて日本一と言われる「里山」が残されていることから、近年開発された「箕面森町」を出発点として紅葉の里山を楽しみながら歩くこととした。「豊能路」編に入れたが、豊能町のほか箕面市、兵庫県川西市、能勢町を歩く。

 妙見ケーブル前までは舗装された緩やかな里道を歩くが、そこから先の妙見山上までは登山コースである。今回歩く「新滝道」は、妙見さんへの参詣道として開かれた最短距離のコースであり、大部分が舗装道と石段であるが、途中、山道になるのでしっかりとした靴を選びたい。下山はケーブルを使う。箕面森町バス停、妙見口駅、妙見山上に売店やトイレがある。妙見山上には湧き水がある。(歩行距離13キロ)


 阪急バス「箕面森町地区センター」。最近開発された箕面森町ニュータウンの中心地である。新しい森の町ということで「森町(しんまち)」と名付けられた。大阪市内方面からであれば千里中央から阪急バスに乗り約25分(400円)で到着する。


 バス停から西(東ときわ台)方向に7~8分歩くと右に大きなヘアピンカーブが現れる。春は山桜、夏は新緑、秋は紅葉、冬は雪、雨の日は墨絵のごとく、ここからの景色は素晴らしい。正面一番奥の山が「妙見山」。左下に見える「山への入り口」が今日のスタートだ。


 せせらぎ沿いの林間道をゆっくりと登る。


 元水源地ダムを左に見ながら歩いていると右に「炭焼き窯跡」がある。


 さらに進み最後に坂道を登り切ると「吉川峠」だ。携帯電話基地局の左側が今歩いてきた道。その左は、天台山、光明山を経て妙見山への登山道。右の道を行くと尾根道を経て東ときわ台の住宅地に合流する。なお、この道は「妙見街道」と呼ばれ、池田と妙見山を最短で結ぶ道だ。住宅地を抜けた所で再度出現し、兵庫県との府県境である尾根道を進み、途中「伏尾ゴルフ倶楽部」の敷地内を通るが、最終的には池田市古江町を抜け、余野川にかかる古江橋北側で旧能勢街道(国道173号線)に交わる。ここからは「妙見街道」を進む(写真は、振り返って撮影したので、峠を越えれば真っ直ぐ進むことになる)。
 

 「東ときわ台住宅地」を左に見ながら尾根道を進む。


 街道は、すぐに林間道へと入る。


 ゆっくりと下っていくと大きなカーブの左側に「炭焼き窯跡」が見える。


 そして2~3分も歩けば急に景色が開け、高代寺山をバックにした「里山」の風景が広がる。この景色はいつ見ても涙が出るほど美しい。


 紅葉の里山を見ながら下っていく。


 途中「大阪みどりの百選」にも選ばれている初谷川を渡るが、小さな橋を渡ったところにお地蔵さんと立派な石灯籠がある。


 保育所を過ぎて国道477号線を渡れば能勢電車「妙見口駅」だ。ここはゴール地点でもある。駅を過ぎて進む。ここからは、妙見街道と明治になって開かれた「花折街道」が重複する。ここは参詣客を相手にした旅館だったのだろうか。


 右手に吉川公民館が現れる。公民館の敷地内に入る(門が閉まっていれば横の隙間をすり抜けて入れる)。公民館の左横には「吉川の常夜灯」が2基並んでいる。かつて参道脇にあったものを移したらしい。


 元の道に戻っても良いのだが、常夜灯横からそのまま民家の軒先を進んでいく。前に見える小さな橋を渡り、足下に気をつけながら川のコンクリート護岸壁の上を歩き元の道に戻る。


 右側に古い学校の跡がある。「旧吉川中学校」。山の学校そのままだ。今は「オイスカ」というアジア・太平洋地域での農業支援等を行うNGO団体の研修センターとして使われている。春は桜が美しい。


 このお宅も昔は宿だったのだろう。


 吉川八幡神社への分岐点(ここまでは、古城と古刹、そして猪鍋うどん「高代寺山」でも歩く)を過ぎ、坂を登ったところで先ほど渡った国道477号線に合流する。そのすぐ左には妙見山まで22丁(1丁=約110メートル)を示す「丁石」が傾くように立っている。このような丁石や灯籠、鳥居などは、妙見講と呼ばれる信徒集団により寄進されたもので妙見山周辺には多数残っている。


 国道を渡れば「稜線展望コース」との分岐点であるが、案内板に従い「新滝道」方向に進む。そしてすぐ右を見上げれば、土手の上に崩れた「常夜灯」が並んでいる。かつての参道を照らしていた常夜灯だ。土手の上に上がってみる。


 「大杉池」と呼ばれる貯水池に黒川方向の里山が美しい。


 そして右に目を移すと、茂みの中にひっそりと鳥居が立っている。「旧参道の鳥居」だ。最終的には、先ほど分かれた「稜線展望コース」に合流するのだが、今は廃道となり立ち入り禁止になっている。「鳥居ファン」の私でもさすがに入れない。


 土手を下り右に進むと兵庫県との府県境を越える。そのまま進み右に曲がればケーブルの「黒川駅前」を通り新滝道に出るのだが、少しでも山道を歩こうと思いすぐ右にある鳥居をくぐる。鳥居の右足元にも「丁石」が立つ。奥の石段は旧参道に続く道であったが、今では廃道となっている。茂みの中に石灯籠と鳥居が立つ。

 
 落ち葉を踏みしめ歩くと、丁度妙見ケーブルの黒川駅の上で「新滝道」と合流する。


 ここから頂上まで妙見さんへの参道だ。御山まで16丁。


 参道沿いには、神社や滝行場のほか石仏やたくさんの祠が並び信仰の道であることを感じる。


 途中からこのような山道になる。この後、野鹿の親子が前を横切った。また、大きな青大将が横たわっていた。今年の冬は暖かい。12月に入って見頃の紅葉。そして本来冬眠しているはずのヘビ。冬眠前のヘビは動きが鈍い。のぞき込んでも逃げようともしない。


 紅葉が美しい。


 丁石で距離を確かめながらさらに登る。御山まで1丁。あと100メートルほど。この石段の上が妙見山だ。


 能勢妙見への入り口に立つ大鳥居に着く。妙見山は日蓮宗の寺院だが神仏習合の名残で参道を含め多くの鳥居がある。


 能勢妙見の開基は能勢頼次である。頼次は武人である。狛犬ならぬ武人の象徴「馬」が左右に立つ。モミジが美しい。


 参道の石段をしばらく進み右に折れると大きな忠霊塔が立ち、そのすぐ後ろに「妙見山」の三角点(660.1メートル)がある。丁度、頂上は兵庫県川西市、大阪府豊能郡能勢町、豊能町の3市町の境となっている。私はあまり頂上にはこだわらないので、そのまま進むことにする(以前訪れた際に頂上は極めている)。右手にガラス張りの異様な建物が見えてくる。「星嶺会館」と呼ばれる信徒会館だ。上から見れば星の形をしているらしい。妙見信仰とは北極星信仰のこと。中には広間の休憩室と自販機やトイレがあり誰でも利用できる。この前の展望台からの景色は素晴らしい。天気が良ければ、遠く大阪湾から淡路島、明石海峡大橋が見える。


 星嶺会館を過ぎれば本堂への門に続く。この門が川西市と能勢町との府県境となっている。星嶺会館は兵庫県だが本堂は大阪府にある。


 本堂。線香の香りが漂い読経が聞こえる。


 境内脇にある食堂。良い雰囲気だ。昔は参拝客相手の宿だったのだろう。


 少し歩くと「妙見山簡易郵便局」に出る。山の上の郵便局だ。ここまで警戒に来るお巡りさんも大変だろう。


 参拝を終え正面の大鳥居まで戻り、そこから案内板に従い「妙見の水広場」方面へと向かう。リフト乗り場を見ながら寺院や霊園を過ぎ、緩やかな下り坂を歩いて行くと「大堂越コース」との分岐に出るがケーブル方向に進む。


 リフトの下をくぐりしばらく進むと「妙見の水広場」に出る。奥に見えるのが星嶺会館。位置関係がよくわかるだろう(写真は妙見の水広場後方の高台からの眺め)。


 ここには食堂やバーベキューセンターちょっとした子供の遊具などがあり、片隅には「妙見の水」というミネラルウォーターが湧いている。


 また広場の奥には「台場クヌギの広場」がある。台場クヌギとは、薪や炭を作るため根元より数メートル上の枝を払い、枝の再生力により繰り返し利用する先人の知恵だ。この地方ではよく見られる。


 「妙見の水広場」を後にする。数分で妙見ケーブル「山上駅」に着く。妙見ケーブルは、妙見山の参拝客のため戦前に敷設された軌道であり、戦時中、鉄供出のため一時廃線となったが、昭和30年中頃から再運行され能勢電車が経営している。山麓の「黒川駅」との間を最大勾配23度、全長600メートル、高度差229メートルを5分で結ぶ(片道270円。冬期は運休するので注意)。


 黒川駅に着く。紅葉の里山が美しい。春、軌道は桜のトンネルとなる。黒川地区では今でも炭焼きが行われており、ここや能勢で生産された良質の木炭は大阪池田に運ばれ「池田炭」として販売される。火持ちが良く茶の湯で重宝されているらしい(織姫伝説の町「池田」でも触れる)。


 ケーブル前から国道477号線に出て、往路に通った府県境を越え妙見口駅へと向かう。


 能勢電車「妙見口駅」。木造の無人駅だ。そして大阪府最北端の駅。このままの姿であることを望む。「開通50周年」の記念塗装車両が見える。本日の「歩紀」4時間10分。


 「山への入口」は、平成28年2月29日まで「水路トンネル工事」のため閉鎖されていますので、ご注意ください。


 平成26年12月6日現在、「山への入口」は開通したようです。なお、今後の工事の進捗状況により再度、閉鎖されるかも知れませんので、ご注意ください。
 

平成26年6月22日から平成28年2月29日までの間、再度、閉鎖されています。

迂回路のご案内。そのまま「山への入り口」を右に見ながら、真っ直ぐ西に進んでください。5分ほどで「豊能町」に入ります。そのまま進んで、一つ目の信号を右折。「東ときわ台9丁目」のバス停を過ぎれば「東ときわ台小学校」の前に出ます。そこで道が直角に曲がりますので、角(小学校のフェンス横)のガードレール脇から山道に入ります。これは、旧妙見街道です。しばらく歩けば、文中の「携帯電話基地局」の前に出ます。「野里町歩紀~思いつくままに~池田、細河から妙見街道を歩く」参照。